中央線鉄道唱歌 第66番 尾濃の平野・勝川を過ぎゆく 小牧・長久手の戦いのあと

まずは原文から!

尾濃(びのう)の平野(へいや)末廣(すえひろ)し
両雄陣(りょうゆうじん)を對(たい)しつゝ
一兵(いっぺい)血ぬらず勝川(かちかわ)や
むかしを忍ぶ小牧山(こまきやま)

さらに読みやすく!

尾濃(びのう)の平野(へいや)末広(すえひろ)し
両雄陣(りょうゆうじん)を対(たい)しつつ
一兵(いっぺい)血ぬらず勝川(かちかわ)や
むかしを忍ぶ小牧山(こまきやま)

さらに読みやすく!

♪びのうのへーいや すえひろしー
♪りょうゆうじんを たいしつつー
♪いっぺいちぬらず かちかわやー
♪むかしをしのぶー こまきやまー

(中央西線)
中津川駅→恵那駅→釜戸駅→瑞浪駅→土岐市駅→多治見駅→高蔵寺駅→春日井駅→勝川駅→大曽根駅→千種駅→鶴舞駅→金山駅→名古屋駅

※鉄道唱歌に関連する駅と、その他主要と思われる駅を筆者の独断と偏見でピックアップしたもの

高蔵寺駅(こうぞうじえき、愛知県春日井市高蔵寺町)を過ぎると、列車は名古屋都市部に向かって、さらにスピードを上げてゆきます。
もはやゴールの名古屋まで、ラストスパートといった感じとなります。

窓の景色はさらに住宅地が多くなり、ますます都会的な景色になってゆきます。

やがて愛知県春日井市(かすがいし)の中心部に近づいてゆき、間もなく勝川駅(かちがわえき、愛知県春日井市)に到着します。

勝川駅(愛知県春日井市)

勝川(かちがわ)とは、元々は「徒歩で歩いて渡れる川」という意味で、「徒歩川(かちがわ)」と書いていました。
しかし、1584年の「小牧・長久手の戦い」において、徳川家康から「非常に縁起がいい」ということで、「勝川」と書くようになりました。
昔は「負け=死」でしたから、漢字に縁起の良いものを採用する、というこだわりが強かったのでしょう。

ちなみにその「徒歩でも渡れる川」とは、勝川駅のやや南を流れる「庄内川」のことです。

以下が、他の縁起を担(かつ)いだ地名の例です。

佐賀県の「名護屋城(なごやじょう)」
豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に、九州の拠点として自分の出身地である「名古屋」と同じ名前のため、縁起が良いとして名護屋に城を築いた。

「隈本」→「熊本」
加藤清正が、「隈」と言う字に「畏れ多い」という字が含まれるため、武士に相応しくないことと、熊のような猛獣の意味をも込めて「熊本」に変えた。

「北ノ庄」→「福井」
「北」という字が「敗北」を連想させるため、当時の北ノ庄城(後の福井城)にあった水の出る(ありがたい)井戸から「福井」となり、福井県の由来となった。

「大坂」→「大阪」
「坂」には武士の「士」の文字が含まれているため。「士農工商」はもはや明治時代に相応しくないとして、「大阪」に改められた。

ちょっと話がズレましたが、歌詞の話題に戻ります。

尾濃(びのう)とは、尾張国(おわりのくに)と美濃国(みののくに)のことです。

尾張国(おわりのくに)とは、愛知県北部のことをいいます。
美濃国(みののくに)とは、岐阜県南部のことをいいます。

ちなみに、愛知県南東部のことは「三河国(みかわのくに)」、岐阜県北部のことは「飛騨国(ひだのくに)」といいます。

」とは、奈良時代の律令制におけるエリア分けであり、現代の「都道府県」に該当します。

小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)」とは、本能寺の変の2年後の1584年にこの地域で起こった戦いです。

1582年の「本能寺の変」で織田信長が倒れて以降、それまで織田信長の下にうまくまとまっていた勢力が、織田信長の「後継ぎ」や「領地」を巡って争うようになります。
その代表格が豊臣秀吉、徳川家康、柴田勝家らです。

その後、愛知県清須市(きよすし)で行われた「清洲会議(きよすかいぎ)」で、上記の勢力の領地分配などが決まったわけですが、ここで不満を持った柴田勝家豊臣秀吉が対立してしまいます。
これが滋賀県の琵琶湖の北東で行われた、賤ヶ岳の戦い(しずがだけのたたかい)です。
この戦いで、柴田勝家は負けて死亡します。
詳しくは以下をご参照ください。

鉄道唱歌 北陸編 第68番 敦賀を出発し、琵琶湖方面へ 賎ヶ岳と余呉湖

この時期、豊臣秀吉は織田の後継者や徳川家と頻繁に対立するようになりました。
そうして起こったのが「小牧・長久手の戦い」です。
結果は、「和睦(わぼく)」です。

歌詞によれば「一兵士も血塗らず勝った(勝川)」とありますが、実際には多くの兵士が血を流して倒れています。
なので、歌詞の意味は残念ながらちょっとよくわかりませんでした。
わかり次第加筆・修正します。

ちなみに歌詞は「一兵血塗らず勝つ」というフレーズと「勝川」という地名を掛けています。
これを「掛詞(かけことば)」といい、昔の日本の歌によく見られる言葉遊びや洒落の一種です。
鉄道唱歌には、この「掛詞」は非常に多く登場します。

小牧山城(こまきやまじょう)とは、織田信長が居を構えた、数あるお城の一つになります。
その後、織田信長は、以下のように最低でも3回はお城を「引っ越し」しています。

清洲城(きよすじょう)
小牧山城(こまきやまじょう)
岐阜城(ぎふじょう)
安土城(あづちじょう)

岐阜城に織田信長が入ったとき、美濃のこの地域を「岐阜」と名付けました。「岐阜」とは、織田信長によるネーミングなのだそうです。

安土城に構えた理由は、琵琶湖の交通の便もよかったのもあるのですが、北陸地方にいる上杉謙信を警戒していたことも理由に考えられています。当時は「無敗の軍神」と恐れられていた上杉謙信ですから、織田信長が神経質になるのも無理はなかったでしょう。
また、織田信長は石川県での「手取川の戦い」で上杉謙信に敗北・敗走してますから、ある意味仕方ないことなかもしれません。

鉄道唱歌 北陸編 第60番 松任・美川(白山市)を過ぎて、手取川を渡る 窓の左に聳える白山

織田信長は幼少期には「尾張の大うつけ」と呼ばれ、ろくでもないエピソードが山のようにあることから、ADHDなどの発達障害の可能性が指摘されています。

また、「ADHDの人は引っ越しが多い」と言われます。その理由の1つとして、「飽き性」なことが挙げられます。
ADHDの人は、一つのことにすごく夢中になるのですが、その分飽きるのも早く、同じ場所に住み続けるのが苦痛で引っ越しが多くなるものと思われます。
またADHDには勉強ができる優秀な人も多い(けど会社には務まらない・・・)ので、同じ場所だと物足りなくなってしまい、すぐに引っ越したくなるのでしょう。

話がズレましたが、次でいよいよ名古屋への到着となります!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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