都心から日帰りできる、群馬県旅へ
今回も、都心から日帰りで行ける、群馬県の日帰り旅行について語ってゆきます!
今回は日本史の教科書でも習った、明治時代の官営模範工場である世界遺産・富岡製糸場(とみおかせいしじょう)をめぐる旅と、あとは群馬県の私鉄路線・上信電鉄の旅について語ってゆきます!
群馬県・高崎駅を出発
スタート地点は、高崎線・高崎駅(たかさきえき、群馬県高崎市)からです。
高崎駅は、新幹線のほかたくさんの鉄道路線が集まっている、群馬県最大の駅です。
その規模は県庁所在地の駅である前橋駅(まえばしえき、群馬県前橋市)をも凌ぎます。
高崎駅や高崎市については、詳しい基本的知識は以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
鉄道唱歌 北陸編 第11番 新町・倉賀野も過ぎて、やがて群馬県・高崎市へ
上信電鉄で、富岡市へ
高崎駅からは上信電鉄(じょうしんでんてつ)に乗り換えて、群馬県富岡市(とみおかし)の方面へと進みます。
上信電鉄(じょうしんでんてつ)は、高崎駅を西に進み、富岡市を経由したあと、群馬県の西端にある下仁田駅(しもにたえき、群馬県甘楽郡下仁田町)を結ぶ私鉄の鉄道路線です。
上信電鉄は、元々は群馬県と長野県を結ぶことを目的としていた路線であることから、このような名前がついています。
上:上野国(こうずけのくに):群馬県
信:信濃国(しなののくに):長野県
なので群馬県のことを「上州(じょうしゅう)」、長野県のことを「信州(しんしゅう)」ともいいます。
上野国と信濃国を結ぶことを目的としていた鉄道路線なので、上信電鉄(上信電線)というわけです。
上信電鉄は、元々は長野県の佐久(さく)地域の南側あたりまで延ばすはずの路線だったようです。具体的には、現在の終点である下仁田駅から小海線(こうみせん)の羽黒下駅(はぐろしたえき、長野県南佐久郡佐久穂町)までの延伸計画があったようです。
しかし群馬県と長野県の県境はとても険しい山岳地帯であり、沿線人口も少なく、なかなかこの険しい山岳地帯を貫くのは予算的にも工事難易度的にも厳しかったのでしょう。
ちなみに、この群馬県~長野県の険しい山岳地帯の途中には、南牧村(なんもくむら)という人口の約7割が65歳以上という「高齢化率」が日本で最も深刻な村があります。つまりそれだけ若い人が住み着きにくいような、険しい山岳地帯であるというわけです。ちなみに群馬県の南牧村(なんもくむら)と、長野県の南牧村(みなみまきむら)は、漢字表記は同じでも読み方は異なります。
上州富岡駅に到着 なぜ「上州」というフレーズが駅名についている?
上信電鉄をひたすら西へ進むと、やがて上州富岡駅(じょうしゅうとみおかえき)に到着します。
世界遺産・富岡製糸場への最寄駅であり、また富岡市役所にも隣接しているほどの重要駅でもあるため、シンプルに「富岡駅」という駅名でもよさそうなものですが、ではなぜ「上州富岡駅」という駅名になっているのかというと、他にも福島県・浜通りに、常磐線(じょうばんせん)・富岡駅(とみおかえき、福島県双葉郡富岡町)が存在するからです。こちらと駅名が重複するのを回避するためですね。
駅名の重複を避けるために、群馬県であることを示すフレーズである「上州」をつけて、「上州富岡駅」というわけですね。なお上州富岡駅の開業は明治時代の1897年であり、当初の駅名はシンプルに「富岡駅」でした。一方、先述の福島県・富岡駅は1年後の1898年の開業となっています。なぜか理由はわからないのですが、先に出来た群馬県・富岡駅の方が1921年に「上州富岡駅」と駅名変更したもようです。福島県・富岡駅の駅名変更の案は、果たして無かったのでしょうか。
これは勝手な予想ですが、福島県の富岡駅は、明治時代になって新しく出来た(「陸奥国(むつのくに)」から分割して出来た)磐城国(いわきのくに)に存在します。
なので当時は、磐城富岡駅(いわきとみおかえき)のように駅名変更する、というような案も(もしかしたら)あったのかもしれません。
さらに補足しておくと、群馬県の鉄道駅で駅名に「上州」とつけるのは私鉄である上信電鉄のみであり、国鉄を前身とするJR東日本の駅では「(略称に近い)上州」はつけません。
つまり「~州」というフレーズは、国鉄・JR線の駅名には付けないのです。国鉄ではあくまで「旧国名」をフルネームでつけるポリシーのようになっているため(※)、「上州」ではなく「上野(こうずけ)」を採用することになります。しかしこれでは東京の上野(うえの)と勘違いしやすいです。
※ただし、上越新幹線・上毛高原駅(じょうもうこうげんえき、群馬県利根郡みなかみ町)という例外は存在します。
例えば、上越線に「群馬総社駅(ぐんまそうじょえき、群馬県前橋市)」がありますが、こちらは岡山県の総社駅(そうじゃえき)と名前が重複しないように、このような名前になっています。しかし「上野総社駅」ではなく「群馬総社駅」となっているのは、先述の「上野(こうずけ)」というフレーズが東京の上野(うえの)を連想させるため、勘違いを起こさせないためにこのような名前になっています。
官営模範工場「富岡製糸場」
前置きがだいぶ長くなり恐縮ですが、上州富岡駅で下車して、世界遺産・富岡製糸場に向かいます。
富岡製糸場(とみおかせいしじょう)は、明治時代の日本が国のフルパワーをもって造った、官営(かんえい)の模範工場(もはんこうじょう)になります。欧米諸国に負けないように国が全力を挙げて造った、海外にたくさん売るための生糸(きいと)を作るための工場になります。
官営(かんえい)とは、いわば「国を挙げて営業する」というような意味になります。
国家予算(←国民の税金)を投じて、全力で国が主体となって経営・運営していこうというようなものですから、相当な気合いの入れようです。
模範工場(もはんこうじょう)とは、その名の通り「模範となるべき工場」のことです。つまり、富岡製糸場を真似しながら、他の全国の工場は見倣ってやっていってね、というような意味合いの工場です。富岡製糸場は他の工場にとってのスタンダード・標準となるべき工場ですから、当時としては最も重要な工場であったことは間違いないでしょう。そして実際に、後述する工女(こうじょ)と呼ばれる工場で働いていた女性たちが、地方へ富岡製糸場の技術を広めてゆきました。
開国・明治時代に開国したばかりの日本にとって、たとえば「鉄」や「重化学」などのような、重くてヘビーな工業(重工業)はまだまだ先の話でした。なので当時の日本は、生糸(きいと)などの軽工業から、徐々にスタートさせていく必要があったのです。
なぜ「富岡製糸場」を造った?
1853年にペリー提督が黒船でやってきたことをきっかけに開国をした直後の日本では、生糸(きいと)・お茶などといった簡単な輸出品が、外国に対して急速に売れていくようになりました。
開国したばかりの日本ではまだ産業革命や機械化なども充分に進んでいなかったちため、ヘビーで難易度の高い重工業は、まだまだ技術がとても追い付かずに進んでいなかった状態でした。なので、最初はまず生糸などの軽工業からどんどん売れるように、攻めていったわけです。
生糸の輸出がどんどん売れていった理由として、ヨーロッパにおいての主な生糸の生産地であるフランスとイタリアで「微粒子病」というカイコの病気が大流行してしまいました。カイコとは、生糸を生み出す幼虫のことです。そんなカイコが病気になって次々に倒れていったため、こうなるとヨーロッパでは養蚕業(ようさんぎゃう)や製糸業はままならなくなり、壊滅的な打撃を被っていてしまったのです。
しかしこれは、日本にとっては「チャンス」だったのでした。外国が生糸の生産がピンチになったため、ここで日本がたくさん生糸を生産して輸出すれば、たくさん売れてくれるようになったのです。
そして中国の当時の王朝である清(しん)において、重税に苦しむ農民たちが起こした反乱である「太平天国の乱」が起こってしまったことによって国内が乱れてしまい、生糸の輸出どころではなくなり振るわなくなっていたことなども、理由に挙げられます。
その結果、幕末の1862年には、生糸系の輸出品が日本の輸出品の86%を占めるほどまでになっていました。つまり、日本の輸出品の8割以上は、生糸で占められていたことになります。
まさに生糸は、当時の日本の主力産業・主力商品だったというわけです。
しかし生糸の需要があまりにも増大してしまったため、粗製濫造(そせいらんぞう:いい加減な出来の製品を、大量かつ無駄に造ること)という事態を招いてしまい、テキトー品・粗悪品だらけになってしまいました。
とにかく大量に作ることばかりを優先させたため、質の悪い劣化商品が多く作られてしまうという結果になったのでした。
これにより、日本の生糸(きいと)の国際的な評価はどんどん低くなっていくことにつながっていくのです。なにせテキトーに大量生産したものなので、「日本製のものはろくに使い物にならない」というようなイメージを海外から持たれるようになっていったわけです。
そして、やがて先述のイタリアの製糸業が復活・回復してゆき、今度はみんなイタリア製のものに流れていくようになってゆきました。これも日本製にとってはイタい状況になっていきました。
こうした状況が積み重なっていった結果、日本製の生糸の価格は1868年から「下落」することになってゆきました。イタリア製の評価が上がっていく一方で、日本製の評価は下がってゆき、誰も買ってくれなくなってしまったので、仕方なく値段を下げるしかなくなってしまったのです。
こうした様々な要因から、「日本でももっとまともな製糸工場を造らなければ」というような機運が高まってゆき、それが富岡製糸場に繋がってゆくのです。
外国人の力を借りながら、富岡製糸場を作っていった
こうした「日本でもっとまともな製糸場を作るぞ」という雰囲気の中で、明治政府には外国人の商人などから
「もっとウチらの国の技術を使ってウリマショー」
と、外国製の器械を使った製糸場の建設をしていこうという要望が出されていました。
つまり、より先進的な外国の技術を使って、さらに器械を使うことによってより早く・より精密に・より大量に・より安く生糸を造るための工場を造ることを、外国人の商人から明治政府に対して提言されたわけです。
また、日本に住む外国人からなるお金持ちたちのグループからは、
「ウチらが金出してアゲマース」
と、資金提供の申し出まであったのでした。
これらのチャンスがまさに、器械製糸工場の建設が実現に向かっていくきっかけとなります。そして1870年に、器械製糸の官営模範工場建設が決定したのでした。
ちなみに明治時代に入ったばかりの頃は、「お雇い外国人」と呼ばれる、日本人に対して技術を教えるための外国人が招かれて雇われました。例えば、神奈川県・横須賀(よこすか)の海軍施設を造っていくことを指導したレオンス・ヴェルニーや、北海道の炭鉱開発の指導をしたライマンなどがいます。
富岡が選ばれた理由
群馬県に「富岡製糸場」の建設が決まったのは、1870年のことです。
なぜ富岡の地が選ばれたのかというと、
- 周辺では昔から養蚕業(カイコを育てる産業)がさかんであったこと
- 生糸の原料である繭(まゆ)の調達がしやすかったこと
- 交通の便利が良かったこと
- 水を確保しやすかったこと
- 石炭を確保しやすかったこと
といった理由が挙げられます。
富岡の地に決定したのは、フランス人のお雇い外国人であったポール・ブリューナです。彼は関東地方一帯を調査して、上記の理由から、富岡の地を選んだのでした。
カイコとは、繭(まゆ)を生み出すために必要な幼虫です。この繭から、生糸が作られるというわけです。昔から、こうした養蚕業は群馬県エリアでは盛んだったのでした。
また、「水」や「石炭」は、工場を動かすエネルギーとして重要です。こうした工場に必要なエネルギー源が、富岡の周辺地域からは多く調達できたということですねね。
ブリューナさんの指導により、当時のフランスの最先端の製糸のための器械を導入した富岡製糸場は、1872年に完成しました。そしてその年のうちに、工場としての業務がスタートしたのでした。
一般向けにも公開されていたこの製糸場は、見物をしていく人たちにも「近代工業とはどのようなものか」というものをわざと見えるようにして、「工場とはこうあるべきだ」というものを対外的に世間一般にも知らしめたのでした。それはまさに模範工場(=見本となるべき工場)だからですね。
なお、建設に必要なレンガは当時まだ一般的な建材ではなく(それまでは木造建築が普通だった)、レンガが盛んな埼玉県深谷市(ふかやし)からもレンガに詳しい技術者を呼んで雇い、甘楽町(かんらまち:上州富岡駅のやや東:上州福島駅があるあたり)にあった窯(かま)を使って、レンガを焼き上げていったのでした。こうして豪華なレンガ作りの富岡製糸場が出来上がっていったのでした。
富岡製糸場で働いていた「工女」たち
富岡製糸場では、工女(こうじょ)と呼ばれる女性たちが働いていました。
つまり「工場で働く女性」ということですね。なぜ女性達が働いていたのかは後述するように様々ですが、一つに家計を支えるためというものがあります。娘も働かなければ家計がたちゆかない、というような当時の時代背景もあったことでしょう。そして工女たちの中には、元・武士である「士族」の娘さんたちが非常に多くいらっしゃいました。
明治時代になると、たとえ江戸時代までは元・武士であっても、明治時代になって士農工商が廃止されてからは様々な「武士の特権」を失ってしまい、困窮していく士族が多かったのです。慣れない商売をやっても上手くいかない元・武士(士族)も多くいました。なので武士の娘さんたちは、そうした父親を支えるという意味でも、いわゆる「花嫁修業」よりも「働く」ことの方が優先された時代だったのかもしれません。
ともあれ理由は様々で一概には言えませんが、全国各地から群馬県・富岡の地へ集められてきた工女たちは、富岡製糸場において、製糸についての技術を学び、製糸に関する一通りの技術を習得してゆきました。
その後、彼女たちは地元に戻るなどして、各地の製糸工場で製糸のための指導に当たることになったのでした。
つまり、富岡で学んだその技術を、地元の地域に伝えて広めることに、大きく貢献したというわけです。
しかしながら、本場である群馬県の他の地域では、富岡製糸場を模範とする「器械による先進的な製糸技術」はなかなか広まらなかったといいます。
それは伝統的な「座繰り」による製糸方法が、既に昔から広く受け入れられていたことにありました。やはり昔ながらのやり方に固執してしまっていて、なかなか機械の導入によるトレンド的な方法は進まなかったのでしょうね。
富岡製糸場での労働はハードだった?
工女(こうじょ)たちは、当時の富岡製糸場のハードな労働をあえて選んでいたという、様々な理由があります。
いわゆる現在の「労働基準法」にあたる、1916年に施行された法律「工場法」では、基本的に1日12時間労働制でした。
当時としてはこれが普通だったのでしょうが、今(=1日8時間)と比べればかなりハードです。
そして富岡製糸場は後述する通り、明治時代後半に民間企業の運営となってからは、かなりハードでブラック企業に近い感じになってしまっていました。
しかし女工たちには、実家での「ハードな農作業」や機織り(はたおり)等の長時間労働、さらには家事など(=起きている間はずっと労働)に追われるという日々よりも、むしろ富岡製糸場での(わずか月2日でも)一応休める「公休日」や、短くとも同世代の女性たちと過ごせてしかも自由時間もある「工場勤め」の方が、むしろ良いと感じる女工たちも多かったようです。
これは現代で例えるならば、専業主婦よりもむしろ「働く」ことを望む女性と、なんらかの共通点があります。
つまり、当時の女工たちは、ハードな主婦業や家事よりもあえて富岡製糸場で「働く」ことを選んだわけですね。
変な噂により、なかなか集まらなかった工女
工女たちは、富岡製糸場の建設を進めることと並行して募集されました。富岡製糸場が完成する年の1872年3月に、政府の呼び掛けによって工女募集が行われたのでした。
しかし、
「工女になると西洋人に生き血を飲まれる」
などの根拠のない噂話が広まっていたことなどから、初めはなかなか思うように働いてくれる女性は集まりませんでした。これは西洋人が飲んでいた赤ワインを、生き血と誤解したことから生じた噂でした。また、当時は鎖国をやめてから急に多くの外国人が日本に住むようになった時代でもあったため、外国人に対する警戒心(偏見)やアレルギー等もあったことでしょう。もし赤ワインを飲んでいたのが日本人であれば、そこまで大きな噂が広がることもなかったことも考えられます。
つまり、変な風評被害があったわけです。
政府は「生き血を取られる」などという変な噂話を打ち消す必要があるとともに、なるべく富岡製糸場の意義・必要性や、そこで技術を習得した工女の重要性、工場で働く女性たちの素晴らしさなどを説くための宣伝・告知を、たびたび出すことになりました。
富岡製糸場は1872年7月に主要部分の建設工事が終わるのに合わせて開業される予定でしたが、予定よりもスタート(操業開始)が遅れてしまいました。
その理由の一つに、こういった働く女性不足の問題があったと推測されています。
徐々に増えていった女工たち 「富岡日記」
富岡製糸場がスタートした当初は、先述の工女不足の問題もあって、わずか210人あまりの工女しか集まりせんでした。最初はそんな女性たちによって、全体の半分の器械を使って操業するに過ぎませんでした。
やはり「国の一大プロジェクト」たる富岡製糸場で、これから生糸の大量生産をしっかりやっていこうというときに、女性わずか210人ではさすがに少なすぎです。しかもせっかく導入した機械も半分しか稼働させられなかったので、富岡製糸場のポテンシャルをフルに生かしきれているとは到底いえません。
そんな深刻な人手不足のなかで、富岡製糸場はスタートしたわけです。
しかし年が明けて、1873年1月の時点で、工女は400人を突破し、さらに3ヶ月後には500人を突破するなど、どんどん増えてはいきました。そんな働く女性たちは、先述の通り主に士族(元・武士)たちの娘さんたちが集められていました。
この時新しく入ってきた有名な工女に、「富岡日記」で知られる和田英(わだ えい)という女性も含まれていました。和田さんは旧姓・横山(よこやま)であり、長野県・松代(まつしろ)出身の武士の娘さんです。わずか17歳の若さで富岡製糸場で技術を学び、技術者として働いてきました。その時の経験・記憶を元に書かれたのが「富岡日記」です。横山英さんは23歳のとき長野・松代の元・武士である和田さんと結婚されています。
富岡製糸場はブラック企業だった?
富岡製糸場はしばしば「ブラック企業だった」ともいわれています。それは当時は12時間労働は普通に行われていたことや(=法的に違反ではなかった)、また後の世に様々な「過酷な労働環境に苦しむ女工の物語」などが知られていることも関係しています。
富岡製糸場は最初こそ官営であり、つまり国の経営によって行われてきたため、8時間労働かつ定期的な休みがあったなど、かなり良心的な労働条件でした。他にも様々な待遇があったとされています。ここまでは現代の価値観で考えても普通であり、とてもブラック企業とはいえませんね。
しかし1891年に民間に払い下げられ、「官営」ではなく民間企業の三井(みつい)の経営になってからは、1日12時間労働は当たり前で、かつ休みが月にたった2日になるなど、まさしくブラック企業になったといえます(ただし先述の通り、それでも家より「労働」を選んだ工女も多かったのです)。
それは当時は労働基準法にあたる、労働者を守る法律が今ほどは充実していなく、雇う側が強くて、労働者が弱いという背景もありました。労働基準法とは、不当な長時間労働や不払い労働を無くし、労働者の権利を守り、人々が働きやすくするための法律です。明治時代には、1911年に施行された工場法というものがあり、これが労働基準法の前身といわれます。
資本家は、確かに労働者を安く長時間働かせまくった方が儲かります。しかしこれでは、労働者は搾取されるだけになってしまいます。そした長時間労働を防ぎ、労働者の権利を守るために、労働基準法が存在しているのです。
上州富岡駅を出て、さらに上信電鉄の旅へ
富岡製糸場の観光を終え、上州富岡駅からはさらに上信電鉄の旅に出ます。そして上州一宮駅・南蛇井駅(なんじゃいえき)などを過ぎてゆき、終点・下仁田駅(しもにたえき)へ向かってゆきます。
珍駅名・南蛇井駅
上州一ノ宮駅を過ぎてさらに下仁田方面へ向かうと、珍駅名の一つ・南蛇井駅(なんじゃいえき、群馬県富岡市南蛇井)に到着します。
なんじゃいえきって何じゃい・・・って感じですよね(^^;
前回紹介した秩父鉄道・小前田駅(おまえだえき、埼玉県深谷市小前田)と並んで、
「オマエダ!」「何じゃい!」
みたいな駅名あそびが出来そうです!♪
この珍しい駅名の由来は、かなり諸説あるようです。
下仁田駅に到着
やがて、上信電鉄の最西端・下仁田駅(群馬県甘楽郡下仁田町)に到着します。
本来は、ここから長野県方面へと線路が続くはずでした。
下仁田駅の周辺には、とても美しい景色が広がります!
この後、高崎駅周辺でゆっくりしてから、帰路につきました。
今回はここまでです!
お疲れ様でした!
【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
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