鉄道唱歌 北海道編 南の巻第12番 尻別川の景色を進んでゆく

まずは原文から!

尻別川(しりべつがわ)の水の聲(こえ)
聞きつゝ上る岸づたひ
岩おもしろく山深く
若葉(わかば)紅葉(もみじ)のながめあり

さらに読みやすく!

尻別川(しりべつがわ)の水の声
聞きつつ上る 岸づたい
岩おもしろく 山深く
若葉(わかば)紅葉(もみじ)のながめあり

さあ、歌ってみよう!

♪しりべつがーわの みずのこえー
♪ききつつのぼるー きしづたいー
♪いわおもしーろく やまふかくー
♪わーかばもみじの ながめありー

(函館本線)
函館駅→桔梗駅→七飯駅→新函館北斗駅→大沼公園駅→駒ヶ岳駅→森駅→八雲駅→国縫駅→長万部駅→黒松内駅→比羅夫駅→倶知安駅→然別駅→余市駅→蘭島駅→塩谷駅→小樽駅

※鉄道唱歌に関係ある主要駅のみ抜粋

長万部駅を出発すると、倶知安駅(くっちゃんえき)を経由し、やがて小樽(おたる)方面を目指します。

前回、「南部陣屋(なんぶじんや)」についての説明をしていませんでした。

前番(北海道鉄道唱歌・南の巻第11番)の歌詞では、
♪南部陣屋の跡すぎて はや後志の黒松内
と歌われていましたね。

この歌詞によると、長万部駅を出発してから南部陣屋跡を過ぎ、胆振国(いぶりのくに)との国境を過ぎて後志国(しりべしのくに)の黒松内駅(くろまつないえき)に到着することになっています。

黒松内駅(北海道寿都郡黒松内町)

さて、南部陣屋とは一体なんでしょう・・・?

南部陣屋(なんぶじんや)」は、簡単に言うと「盛岡藩(もりおかはん、現在の岩手県盛岡市)」がかつて北海道を統治するために進出してきた基地のようなものです。

南部(なんぶ)」とはかつて江戸時代に盛岡藩を代々治めた家系である「南部氏(なんぶし)」のことであり、盛岡藩は別名で「南部藩(なんぶはん)」とも呼ばれていました。

その南部藩が、幕府の命を受けて北海道(蝦夷地)に進出し、北海道を農業的にも軍事的にも強くするために、そのための拠点が必要であり、それが「南部陣屋」というわけです。

陣屋(じんや)」とは、簡単なお城のことです。昔、江戸時代は「一国一城制」といって、大名といえどよほど石高の高い(現代でいえば財力のある)大名でもない限り、お城を持つことが許されませんでした。幕府からすれば、好き勝手にお城を作られて、そこを拠点に軍事力を強められ、幕府の脅威になられてはたまったもんじゃありませんからね。したがって、江戸幕府は各大名に対してお城を建設したり持つことは厳しく制限しました。

大名(だいみょう)とは1万石以上の武将のことをいいますが、その中でもお城を持つことが許されたのは3万石以上の大名だけです。それ以外の大名は、お城ではなく「陣屋」のみ許可されていたわけですね。

北海道のこの近辺では室蘭市南部陣屋が有名ですが、長万部町のこの辺りに南部陣屋があったかどうかについては、私(筆者)が散々調べた限りではわかりませんでした。もしかしたら鉄道唱歌のあった時期(1906年)にはこの辺りに南部陣屋があったのかもしれません。

長万部駅を出発すると、一気に険しくも自然豊かな山岳地帯に入ります。その景色は、あまりに美しいです。真冬の尻別川(しりべつがわ)の景色は、格別です。

一般に、山岳地帯に線路を引くには、なるべく勾配を避け平坦な地を確保しやすくるため、川の形に添って線路を引くことが多くなると思います。川沿いに線路を引くとカーブが多くなるデメリットがありますが、トンネル掘削技術がまだあまり進展していなかった20世紀初頭前後では、コスパを優先してトンネルを掘るよりも川沿いに線路を引くことを優先したのでしょう。

この区間の、真冬の車窓・雪景色

上記のカーブに加えて勾配のきつい区間となるため、列車にとってはスピードの出にくい区間となっており、特急列車などの速達列車は設定されていません。
したがって、特急列車は原則的に線形のいい、室蘭本線の「海側」のルートを通るようになっています。

そして、対するこの「山側」の函館本線のルートは、2030年の北海道新幹線札幌延伸に伴って廃止されることとなっています。
厳密には、函館駅~長万部駅間は第三セクターへの移行となり、長万部駅~余市駅間は代行バスでの運用となるそうです(あくまで未定)。

それまでに、尻別川の美しい車窓を眺めておきましょう!

そしてこの美しい景色の主役となる川が、いわゆる「尻別川(しりべつがわ)」です。尻別川の由来はアイヌ語で「山の川」だそうです。

シリ→山の
ペッ→川

そもそも「ペッ(別)」がアイヌ語で川という意味なので、北海道には「~別川」という、「別」がつく川の名前が多いです。

また、長万部駅~倶知安駅間には、ユニークで特徴的な駅名が多数登場します。
二股(ふたまた)駅」(山越郡長万部町)
熱郛(ねっぷ)駅」(寿都郡黒松内町)
昆布(こんぶ)駅」(磯谷郡蘭越町)
ニセコ駅」(虻田郡ニセコ町)
比羅夫(ひらふ)駅」(虻田郡倶知安町)
倶知安(くっちゃん)駅」(虻田郡倶知安町)
など、どれもユニークで一発で覚えやすいような駅名ですね!

昆布駅(北海道磯谷郡蘭越町)

二股」という地名は、全国的に二つの川が合流する地域につけられるとのことです。
二股駅の近辺では、知来川(チライがわ)と、長万部川が合流する地点があり、そこに由来するそうです。
道が分かれる地点につけられる地名「追分(おいわけ)」と似ていますね。

熱郛駅」「昆布駅」「ニセコ駅」「倶知安駅」はアイヌ語由来です。

比羅夫駅」は、かつて飛鳥時代にこの地域を制圧した阿倍比羅夫(あべのひらふ)という人物に由来しています。詳細は、次回解説します。

さて、前回の記事が長くなりすぎたために説明できていなかった、黒松内駅(くろまつないえき、北海道寿都郡黒松内町)の説明です。

黒松内駅(くろまつないえき)からは、その昔、寿都鉄道(すっつてつどう)という鉄道が延びていたようです。

黒松内から北西の海岸沿いに、寿都(すっつ)という港町があります。ここは北海道屈指の名高き港町であり、ここで採れた大量のお魚を一旦黒松内駅まで運び、そこから長万部・函館・本州方面だったり、札幌方面に運ぼうとしたわけですね。

うーん、どこかで聞いた話ですね。(^-^;
そう、国縫駅(くんぬいえき)のところでも話したと思いますが、瀬棚線(せたなせん)が国縫とせたな町を結んでいた、あのような感じですね。

1920年頃の当時、寿都(すっつ)は港町として大きく繁盛し、「寿都で採れた魚を全国で食べて貰おう!」という機運が高まり、また当時は現在のようにトラック輸送や高速道路も主流ではなく貨物列車による輸送が主流でしたから、「貨物列車が通る線路を引こうぜ!」という声が周辺のあちこちで高まりました。

そして、この地域の財力のある人々がお金を出し合って、寿都鉄道を作り上げました。
最初は私鉄・民間鉄道としての扱いでしたが、後に「国に買い取ってもらおう」と思っていたようです。

実は、現在はJRの路線であっても、こうした経緯で開始された路線って多いんです。
1880年代に現在の東北本線の元祖となる民間鉄道会社「日本鉄道」が大ブレイクして以来、全国各地の民間会社が「うちの地域にも鉄道を通そう!」といって、日本全国に民間の会社が鉄道を建設していきました。

最初は地元の財力のある人々がお金を出し合って建設した路線(民間鉄道路線)でも、明治・大正となり戦争に備えて国としての輸送力を強化するために、国が路線を買い取ったことで国鉄の管轄となり(鉄道国有化、1906年)、やがて国鉄時代を経てJRの路線として現在に至る路線は多いと思います。

しかし、その後寿都鉄道の国有化は実現しなかったようです。
また、瀬棚線のところでも解説したように、戦後、とりわけ1960年代頃になると高速道路も次々に建設され、トラック輸送が主流になり、貨物列車輸送はどんどん衰退していきました。

寿都鉄道もこの例外ではなく、さらに寿都における漁業も衰退したこともあって、戦後まもなく寿都鉄道の利用は激減、1968年には終焉を迎えることとなりました。

北海道には現在は多くの廃線跡が残されています。まとめると、廃線の原因は大抵以下のようなものです。

・かつては漁業や鉱山、炭鉱などで採れた物資を運ぶ貨物路線として栄えた
・しかし、戦後の自動車の普及と自動車網の発達で、貨物列車が使われなくなってきた
・漁業が衰退(人口減少や燃料高騰、輸入品の魚の方が安い、跡継ぎがいない問題など)
・鉱山や炭鉱が閉鎖(安価な輸入品への置き換わりや、危険な事故の多発など)

北海道にはこうした例は枚挙に暇がありませんが、最も有名なのは夕張市の財政破綻でしょう。

これについては、夕張編について解説していきます。

話がだいぶ逸れましたが、尻別川の川の景色はいかがだったでしょうか。

次は比羅夫駅に止まります!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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