鉄道唱歌 北海道編 北の巻第16番 夕張炭鉱の繁栄と、その衰退

まずは原文から!

見つゝ分け入る炭山(たんざん)は
北海(ほっかい)富源(ぶげん)のその一つ 
積み出す石炭もろともに 
我等(われら)も歸(かえ)るもとの驛(えき)

さらに読みやすく!

見つつ分け入る炭山(たんざん)は
北海(ほっかい)富源(ぶげん)のその一つ 
積み出す石炭もろともに 
我らも帰る元の駅

さあ、歌ってみよう!

♪みーつつわけいる たんざんはー
♪ほっかいふげんの そのひとつー
♪つみだすせきたん もろともにー
♪われらもかえるー もとのえきー

(石勝線)
追分駅→川端駅→滝ノ上駅→新夕張駅(旧・紅葉山駅)

(夕張支線/2019年廃止)
紅葉山駅→鹿ノ谷駅→夕張駅

※鉄道唱歌に関係ある主要駅のみ表記

北海道夕張市(ゆうばりし)は、かつて炭鉱で大いに栄えた街でした。

なぜ炭鉱で栄えたのかというと、明治時代~1960年代までの日本はとにかくエネルギー源として大量の石炭が必要だったからです。

現代の我々の主力エネルギー源は、石油やガソリン、電気などですよね。これらがなければ、我々の生活は成り立たないといっても過言ではありません。しかし、明治時代の主力エネルギー源は石炭です。何を動かすにも、これがないと話になりません。

明治時代当時の日本は欧米列強に負けない国を造るため、大量の石炭が必要でした。また、北海道を農業・軍事力・鉱山の面で強い土地にするため、明治時代に本格的に開拓が行われました。

幌内線(ほろないせん)や歌志内線(うたしないせん)のところでも解説したように、北海道には数多くの石炭が採れる炭鉱が多く存在していたため、そこで採れた石炭を運ぶための貨物列車が必要で、次々に多くの鉄道路線が建設されました。かつて幌内方面から小樽方面までを結んだ、明治時代の1880年代にできた「官営幌内鉄道(かんえいほろないてつどう)」も、またこの「夕張線」もその一つであり、また夕張市の炭鉱も北海道の資源産出地として欠かせない存在の一つでした。
当時は現在のように長距離トラックや航空輸送が主流ではありませんでしたから、貨物列車で運ぶことが重要だったわけです。

炭鉱が発展すると、そこで働く人の数も増えます。人の数が増えれば、街の人口が増加し、そして街が発展するわけです。

しかし戦後、特に1960年代の高度経済成長期以降、主力エネルギーがどんどん石油に変わり、また安い輸入品の台頭で北海道で採れた大半の石炭は売れないものとなり、北海道の他の炭鉱と同様に夕張の炭鉱も徐々に衰退していくことになります。
また、夕張炭鉱では次々に起こる事故が問題視されるようになりました。
まず、炭鉱は地下深く掘った穴(坑道)で作業をするわけですから、穴が崩れ落ちてしまう、いわゆる落盤(らくばん)という事故があります。また、炭鉱の奥深くまで酸素が届かない・酸素を送れないことで酸素欠乏症にかかってしまうといった事故、そして炭鉱を掘った際に大量の地下水が溢れ出てしまい逃げ場がなくなる事故、さらに石炭は燃料ですから火が石炭に燃え移ってしまい火災が発生する事故など、次々に炭鉱に絡む事故が社会的に問題視されるようになりました。今でいう、きつい・汚い・危険・帰れない・給料安い・結婚できない・・・などの10K職場です。現代なら、こんな職場は間違いなくブラック企業確定ですよね。しかし昔はこうした労働災害は普通に起こっていたことなので、いちいちブラック企業認定していると、きりがなかったわけです。
現在もこうしたブラック企業はまだ一部あるとは思いますが、現代の職場では労働基準法、労働契約法、労働安全衛生法などの法律によって、こうした違法かつ危険で労働者の安全や健康を損なうような職場環境は禁止されているため、100年前の労働災害が当たり前だった時代からしたら、現代の我々は恵まれたような職場環境にあるわけですね。

話を元の夕張炭鉱の話題に戻します。
さらに、石油が主流になり石炭が売れない、安い輸入品に負けて石炭が売れない、その結果危険な割に給料が上がらない、となると、次第に誰もそんな職場で働きたくなくなります。特に1960年代~1980年代はサラリーマン(会社員)が勝ち組・高収入(平均年収500万)・全盛期の時代でしたから、そうなると鉱山で働く人はどんどんいなくなり、みんなホワイトカラーに就職・転職するようになると、炭鉱業はどんどん衰退していきます。

以上のような事情もあり、かつて栄えた夕張炭鉱はどんどん衰退していきました。

炭鉱業が閉鎖されると、元々そこに住んでいた人も町からいなくなってしまうため、夕張線の利用客も激減し、夕張支線は2019年に廃止となりました。

1990年までに全ての鉱山が閉山して無くなってしまい、もはや夕張市は炭鉱都市としてはやっていけなくなりました。
そこで、今度は観光都市として多くの観光客を呼び込もうと、観光事業に膨大な投資をします。しかし、当初こそはうまくいったものの、1990年代以降のバブル崩壊もあって、観光客は思うように集まらず、投資した膨大な金額は回収できず負債が大変なことになり、返しきれなくなって2007年に財政破綻してしまいました。企業でいうと、倒産のイメージです。

こうなってしまうと、「地方公共団体の財政の健全化に関する法律」という法律における「財政再建団体」に指定されることとなります。法律の話なのでちょっと難しいですが、要は夕張市のこれからのお金(税金、予算)の使い道について、国の厳しい監視下に置かれながら、負債を無くして財政を元の健全な状態にしなくてはならない団体になった、ということです。そのため、夕張市は「これからお金を何にどんなことに使うか」「無駄な金を使ってないか」「これまで赤字や負債を出してきた要因は何だったか」についての計画書や報告書などを作成して、国に提出しなければなりません。少しでも赤字や負債が改善する見込がないと、国から厳しい指摘を受けることになります。

赤字や負債を何が何でも改善しなければなりませんから、夕張市はこれ以降、ありえないレベルでの質素倹約を余儀なくされることになります。市の職員の人数も半分以下に削減され、市長の年収も全国の市長で最低レベルとなりました(鈴木直道市長(当時)の年収は約250万円。後述)。その上、少しでも予算を賄うために税金がありえない程に高くなり、税金が高いのにそれに見合うだけの対価(行政サービス)が受けられない。そうなると、市民の怒りは爆発します。夕張市は国に認められた「財政再建団体」なので、ある程度はこうした厳しい事情は市民も理解していたでしょうが、それに耐えきれない人々は夕張市から引っ越して出ていってしまい、夕張市の人口はさらに激減、北海道では歌志内市(うたしないし)に次いで人口が少ない自治体(1万人以下)にまで陥ってしまいました。

先ほど少し触れましたが、ちょうどこの時期(2011年~2019年)に活躍した夕張市の市長が、2022年現在北海道知事をされている鈴木直道(すずき なおみち)さんです。彼は財政健全化のために、批判も相当あったでしょうが上記のような様々な施策を実行に移されました。これは批判を恐れない実行力がないと、なかなかできるものではありません。この時の夕張市での実行力が評価されて、若くして北海道知事に就任することができたのかもしれませんね。

夕張市には「夕張メロン」や「かつての炭鉱で栄えていたときの遺構」など、たくさんの観光的魅力があると思います。また、財政に関しても、街全体の人々の血の滲むような努力の甲斐あって少しずつ改善に向かっているそうです。本記事を読まれた方が、少しでも夕張市の歴史や観光的魅力などについて関心を持っていただければ幸いです。

鉄道唱歌の歌詞の話に戻りますが、「積み出す石炭もろともに 我らも帰る元の道」とあります。現在では石炭を運ぶ貨物列車の運用はありませんが、新夕張駅からまた再び石勝線を経由して、追分駅に戻り、そこから室蘭本線を南下して苫小牧方面に進むことになります。

夕張川(北海道夕張市)

次は、早来駅に止まります!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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