鉄道唱歌 奥州・磐城編の歌詞を、わかりやすく解説してゆきます!
浦和・大宮の地理・歴史などを、やさしく解説してゆきます!
↓まずは原文から!
大宮驛に宮ありて
公園ひろく池ふかく
夏のさかりも暑からず
さらに読みやすく!
大宮駅に 宮ありて
公園ひろく 池ふかく
夏のさかりも 暑からず
さあ、歌ってみよう!
♪おおみやえきにー みやありてー
♪こうえんひーろく いけふかくー
♪なーつのさかりも あつからずー
上野駅→王子駅→赤羽駅→(荒川)→浦和駅→大宮駅→蓮田駅→久喜駅→栗橋駅→(利根川)→古河駅→間々田駅→小山駅→小金井駅→石橋駅→雀宮駅→宇都宮駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
荒川を渡り、浦和に到着
荒川の橋を渡り、埼玉県に入ると、
- 川口市
- 蕨市
といった埼玉県南部の各主要都市を過ぎて、埼玉県の県庁所在地であるさいたま市に入ります。
やがて、
- 浦和駅(埼玉県さいたま市浦和区)
に到着します。

浦和駅(埼玉県さいたま市浦和区)
かつては「浦和市」の駅だった浦和駅
浦和駅(埼玉県さいたま市)は、元々は合併前の「浦和市」の駅でした。
浦和市は、かつて埼玉県の県庁所在地がおかれていた場所です。
現在の「さいたま市」は、2001年の合併によってできた県庁所在地の市であり、
- 浦和市
- 大宮市
- 与野市
が合併してできたものです。
浦和に「浦は無い?」奥東京湾の歴史
歌詞に
とあるように、確かに現在の浦和に浦や海、海岸などはありません。
しかし、大昔(縄文時代)には、東京湾の海岸が現在のさいたま市あたりまで来ていました。
東京湾の水面の高さは時代によって変化するので、元々は「奥東京湾」といって現在の浦和あたりまで海岸がきていたのです。
現在のさいたま市の北部に「見沼」という地域があります。この見沼も、元々は奥東京湾の海岸の跡だったと言われています(諸説あり)。
見沼と奥東京湾については、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

かつての海岸線と、現代のものでは異なる
余談ですが、先ほど「東京湾の水面は、時代によって高くなったり低くなったりする」と書きました。
これは「江戸」という地名にもやや関係してきます。
というのも、徳川家康が江戸に幕府を開いた当時は、東京湾の水面が高かったため、江戸城手前まで海岸線が来ていました。このとき出来た入り江を「日比谷入り江」といいます。
この日比谷入り江の「戸口」ということで、「江戸」という地名ができたとも言われています(諸説あり)。
浦和の神社「調神社」
話を元に戻します。
浦和の神社として有名なのが「調神社」です。
現在の浦和駅から南西300mほどいった場所にあり、なんでも「うさぎ神社」として有名です。
境内では、可愛らしいうさぎの装飾が出迎えてくれます。
なお、「調神社」は、鉄道唱歌 北陸編 第6番でも歌われています。
詳しくは、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

浦和を過ぎ、大宮駅に到着
浦和を過ぎると、現在は高崎線と宇都宮線の分岐点である、
- 大宮駅(埼玉県さいたま市)
に到着します。
「大宮」という地名は、やはりこの地域に欠かせない象徴的存在である「氷川神社」からきています。
武蔵国一宮・氷川神社
氷川神社は、かつての「武蔵国」の「一宮」でした。
「一宮」「一ノ宮」という地名って、全国各地にたくさん存在すると思いませんか?
この「いちのみや」とは何なのか?について、簡単に説明します。
結論からいうと、その国(現在でいうところの都道府県)で最も格式の高い神社のことです。
昔は、古くは飛鳥時代や奈良時代から、日本の各地は「国」という行政区分で分けられていました。
現在でいうところの、都道府県で分かれているようなものです。
この「国」における政治の中心機関を、「国府」といいます。現在でいうところの「県庁」などのようなものですね。
また、それぞれの国には、最も格式の高い神社と、最も重要なお寺が置かれました。
その国で最も位の高い神社を、「一宮」といいます。
全国各地に「一宮」「一ノ宮」といった地名が多いのは、その地域に一宮となる神社が置かれていたケースがある可能性が高いです。
「尾張一宮」「上総一ノ宮」などの地名がその例ですね。
それぞれ尾張国の一宮、上総国の一宮が置かれていたいたことに由来するわけですね。
また、その国で最も重要なお寺のことを、「国分寺」といいます。
これは、奈良時代に聖武天皇が、それぞれの国に人々を疫病や争いから救うために建てたものです。
中央線にある国分寺(東京都国分寺市)が有名ですね。
こちらは、武蔵国の国分寺が置かれていることに由来しているわけです。
話を元に戻すと、大宮の氷川神社は、武蔵国の一宮というわけです。
なお、似たような神社の格付けに「官幣大社」という表現があります。
この神社の格付けは、明治時代の「近代社格制度」という枠組みでのランク付けになります。
「一宮」という表現は古くは奈良時代からあったものであり、似ているので混同しないようにしましょう。
中山道の宿場町・大宮宿
大宮は、かつて中山道の宿場町である大宮宿が置かれた場所になります。
江戸時代には、はるか西の京都まではるばると(徒歩または馬で)向かっていく、多くの旅人で賑わいました。
元々は氷川神社の中に、中山道のルートがあったそうなのです。
この理由は恐らく、大宮に寄ってきた旅人の皆さんが、氷川神社に参拝するための便宜のためではないかと思われます。
しかし、仕事で荷物を運ぶのが目的の人たち(参拝はしない人たち)もこの中山道ルートを通るため、
- 「神社の前を素通りするのはよろしくない」
ということで、神社の中に存在した元々のルートは別の場所に変更されたようです。
中山道の詳細は、次回また改めて詳しく解説します。
明治時代はじめ、大宮に駅は存在しなかった!?
大宮駅は、明治時代の1885年の開業です。
ただし、日本鉄道という当時の私鉄会社が現在の東北本線の原型を作った1883年当時には、大宮駅はありませんでした。
理由は、当時は汽車の性能の問題から
- 「駅間距離が短いのはよくない」
という事情があったからだそうです。
当時の蒸気機関車は、現在の電車のように一気に加速して、また一気に減速して・・・という動作が難しかったのです。
しかしこれが原因で、大宮の街は一時的に衰退することになってしまいました。
江戸時代は、「東海道」「中山道」などのように、江戸幕府が整備した街道を(徒歩または馬で)京都まで向かうのが一般的でした。
そしてその旅人たちが、途中に泊まるための宿場町が栄えていました(大宮の場合は「大宮宿」)。
しかし、明治時代に「鉄道」が一般的になると、従来の旧街道や宿場町はその役割を終えることとなり、どうしても衰退を余儀なくされます。
中山道「大宮宿」もその例外ではなく、さらに当初は大宮に「鉄道の駅」が設置されなかったことで、大宮の街自体が衰退を余儀なくされることになったのでした。
しかし、地元民による懸命の誘致活動により、開業から2年後の1885年に大宮駅は無事開業されることになりました。
また大宮駅は、高崎線と東北本線(宇都宮線)との分岐点でもあり、さらに現在では新幹線も泊まる駅なので、現在では大宮は鉄道における重要な街という位置づけにあります。
以上をまとめると、大宮は
- 神社参拝の街
- かつての宿場町
- 鉄道の街
- 交通の要所
として、非常に重要な街であるといえます。
次回は、蓮田・久喜・栗橋方面へ
次は、高崎線と分岐して、蓮田・久喜・栗橋方面に向かいます!
コメント