まずは原文から!
霰(あられ)たばしる篠原(しのはら)と
うたひし跡(あと)の狩場(かりば)の野
たゞ見る薄(すすき)女郎花(おみなえし)
殺生石(せっしょうせき)はいづかたぞ
さらに読みやすく!
霰(あられ)たばしる篠原(しのはら)と
うたいし跡(あと)の狩場(かりば)の野
ただ見る薄(すすき)女郎花(おみなえし)
殺生石(せっしょうせき)はいずかたぞ
さあ、歌ってみよう!
♪あーられたばしる しのはらとー
♪うたいしあとのー かりばののー
♪ただみるすーすき おみなえしー
♪せっしょうせきは いずかたぞー
(東北本線)
宇都宮駅→西那須野駅→那須塩原駅→黒磯駅→黒田原駅→新白河駅→白河駅→泉崎駅→矢吹駅→須賀川駅→郡山駅→日和田駅→本宮駅→二本松駅→安達駅→松川駅→福島駅
※鉄道唱歌に関係ある主要駅のみ抜粋
「日光」と並ぶ、栃木県の観光名所・那須高原
那須(なす)は、日光と並んで栃木県の代表的な観光名所の1つです。
いわゆる那須高原には、たくさんの別荘があり、また天皇陛下の別荘である「那須御用邸(なすごようてい)」もここにあります。
なぜ那須高原が、別荘地に選ばれやすいのか
では、なぜ那須が行楽地および別荘地として発展したのか。
その理由の1つに、「避暑(ひしょ)」があります。
那須高原は、標高が約300m~1200mの比較的高い位置にあります。標高が高いので、夏の気温も若干低くなります。
また、1950年代~1980年代は、高度経済成長期を含む日本全体が経済的に成長した時期であり、多くのお金持ち・裕福層の人々にとって、那須に別荘を持つことは1つのステータスでした。
例えば、「うちは今年の夏は、家族と那須の別荘で過ごすんだよね♪」と仲間内で会話すれば、それ自体がその人が社会的に高い地位にあり、また高所得者・成功者であることの証左(しょうさ)となっていました。
これは、長野県の軽井沢(かるいざわ)も同じ別荘地として同じことがいえます。
軽井沢も、標高が約1000mほどあるので、夏は涼しくなり、避暑地として有名です。
他にも別荘地として有名なのは神奈川県の大磯(おおいそ)や、静岡県沼津市(ぬまづし)などがあります。
夏は海風が吹いて涼しく、冬は晴れの日が多くて暖かく、さらに海や山のある風光明媚な景色を持つ場所が、別荘地や保養地として選ばれる傾向にあるようです。
歴史的に水不足に苦しめられてきた、那須地域
那須は歴史的に深刻な水不足に悩まされてきた土地だったようです。
その有様は、「手にすくう水なし」と表現されたほど、水に困った土地だったようです。
水道・浄水場・ダムなどのインフラがある現代とは違い、昔は川・池・沼などの水が貴重でした。
しかし、こうした自然に恵まれない土地は、必然的に常に水不足に悩まされてしまいます。
那須の水不足を解消するために作られた、那須疎水
こうした水不足を解消するために、明治時代にいわゆる「那須疎水(なすそすい)」とよばれる人工的な川が作られることとなりました。
疎水(そすい)とは、いわゆる人工的に作った川のことであり、その水は周辺の地域の飲料水・生活用水として活用されることとなります。
那須疎水を流れる水は、恐らく那須の北部を流れる那珂川(なかがわ)から水を取ってきてるのではないかと思われます。
京都の琵琶湖疎水(びわこそすい)は、琵琶湖から水を取ってきて、その水を京都の街に供給するために明治時代に作られたものです。また、トラック輸送などが一般的でなかった当時は大量の荷物を運ぶために、いわゆる「水運(すいうん)」といって舟に大量の荷物を載せた方が効率がよかったため、琵琶湖疎水は水運のためにも使われてきた歴史があり、それは「蹴上(けあげ)インクライン」として現代も遺構が残っています。
琵琶湖疎水については、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。
鉄道唱歌 東海道編 第51番 琵琶湖疎水と南禅寺 京都の水運と飲料水の歴史
京都の琵琶湖疎水、那須疎水、そして福島県の安積疎水(あさかそすい)と合わせて、「日本三大疎水」と呼ばれます。
歌詞の「霰たばしる篠原」とは?
さて、鉄道唱歌の歌詞の話に戻ります。
歌詞には「霰たばしる篠原と」とあります。
これは、源実朝(みなもとのさねとも)という人物が、金塊和歌集(きんかいわかしゅう)という歌集にて詠(よ)んだ歌とされています。
もののふの
矢並(やなみ)つくろふ
籠手(こて)のうへに
霰(あられ)たばしる
那須(なす)の篠原(しのはら)
-源実朝・金塊和歌集より
・・・難しいですね。
私(筆者)は国語が苦手なのですが、以下なんとか頑張って説明させていただきます。
原文となる、「金塊和歌集」を読み解いていこう
「もののふ」とは、いわゆる武士のことです。
「矢並」とは、いわゆる集めた矢の並びのことです。
「籠手(こて)」とは、いわゆる防具のことです。
「たばしる」とは、激しく飛び散るという意味で、霰が激しく飛び散ると様子を表します。
「篠原」とは、いわゆる竹林もしくは竹藪のことをいいます。「篠(しの)」は竹を意味します。
訳すと、以下のようになるでしょうか?
「武士たちが矢を集めて、さらに防具の上にたくさんの霰が飛び散る、那須の竹林」
・・・なんか全然違う気がしますね。
イメージとしては、那須のこの地域のすすき、女郎花(おみなえし)、篠原(竹や笹の葉など)が広がる原野で、狩りをする武士(もののふ)が、防具や矢などを整えて、いざ行かんとするところに、多くの霰(あられ)が落ちてきた様子になるでしょうか。
作者・源実朝とは?
さらに補足説明を続けます。
源実朝(みなもとのさねとも)は、鎌倉時代の三代目征夷大将軍です。
「金塊和歌集」にみられるように、歌人としても多く実績を残された方でもあります。
しかし、鎌倉・鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の別当(べっとう)だった公曉(くぎょう)という人物に、残念ながら暗殺されてしまいました。鶴岡八幡宮の大銀杏(おおいちょう)の後ろに隠れていた公曉によって、階段(石段)から降りてきたところを襲われたわけです。
このことは鉄道唱歌・東海道編 第7番でも歌われていますね。以下の記事でわかりやすく解説していますので、ご覧ください。
鎌倉幕府三代目の将軍だった源実朝が暗殺されたことで源氏による将軍職の系統は途絶え、その後は北条氏の執権政治の世の中となっていくわけですね。
「金塊和歌集(きんかいわかしゅう)」は、先述の通り、源実朝によって鎌倉時代に編纂された歌集です。
もう少しわかり次第、この記事ももう少しまともな内容に更新します。
那須高原の「殺生石」
さて、「殺生石(せっしょうせき)」というキーワードが登場します。
殺生石(せっしょうせき)は、那須高原の奥の標高約850mのあたりにある大きな石(岩)のことです。
火山によるガスなど、様々な有害物質が恐れられてきたため、殺生石という名前になったそうです。
しかし、この殺生石、2022年3月になんと割れていることがわかりました。真っ二つに割れてしまったわけです。
割れた原因については様々な憶測が飛び交いましたが、那須町の見解では「自然現象によって割れた」とのことです。
那須塩原駅を出て、黒磯・黒田原・新白河方面へ
次は、那須塩原駅を出発し、黒磯(くろいそ)・黒田原(くろだはら)・そして福島県の白河(しらかわ)方面に向かいます!
注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
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