まずは原文から!
秋風吹くと詠(えい)じたる
關所(せきしょ)の跡(あと)は此(こ)のところ
會津(あいづ)の兵を官軍(かんぐん)の
討(う)ちし維新(いしん)の古戰場(こせんじょう)
さらに読みやすく!
秋風吹くと詠(えい)じたる
関所(せきしょ)の跡(あと)は此(こ)のところ
会津(あいづ)の兵を官軍(かんぐん)の
討(う)ちし維新(いしん)の古戦場(こせんじょう)
さあ、歌ってみよう!
♪あきかぜふーくと えいじたるー
♪せきしょのあとは このところー
♪あいづのへーいを かんぐんのー
♪うーちしいしんの こせんじょう
(東北本線)
宇都宮駅→西那須野駅→那須塩原駅→黒磯駅→黒田原駅→新白河駅→白河駅→泉崎駅→矢吹駅→須賀川駅→郡山駅→日和田駅→本宮駅→二本松駅→安達駅→松川駅→福島駅
※鉄道唱歌に関係ある主要駅のみ抜粋
歌詞冒頭のフレーズは、松尾芭蕉のものではない
「秋風吹くと詠じたる」
新白河駅(しんしらかわえき、福島県西白河郡西郷村)の前に松尾芭蕉の銅像があることから、この歌を詠んだのは松尾芭蕉とイメージするかもしれませんが、実は違います。
これは、能因法師(のういんほうし)という、平安時代のお坊さん・歌人が詠んだ歌です。
能因法師と、松尾芭蕉の詩の比較
そして、能因法師は松尾芭蕉に影響を与えた人物であります。
【能因法師の歌】
都(みやこ)をば
霰(あられ)とともに
立ちしかど
秋風(あきかぜ)ぞ吹く
白河(しらかわ)の関(せき)
【松尾芭蕉の歌】
心許(こころもと)なき
日数(ひかず)重(かさな)るまゝに
白河(しらかわ)の関(せき)にかゝりて
旅心(たびごころ)定まりぬ
この違いを覚えておくとよいでしょう。
「おくのほそ道」で、江戸時代に東北地方を旅した松尾芭蕉
松尾芭蕉(まつおばしょう)は、江戸時代に東北地方を旅行して回ったことで知られる俳人であり、旅人です。
この東北地方の一連の旅は、「おくのほそ道」として広く知られています。
出身地は現在の三重県伊賀市であり、関西本線・柘植駅(つげえき、三重県伊賀市柘植町)のある辺りです。
「おくのほそ道」の旅は、まず東京(江戸)の千住大橋(せんじゅおおはし)からスタートとして、日光街道を北上して宇都宮から日光に至ります。
その後さらに北上して、那須に寄ったあと、後述する「白河の関」を越え、福島の飯坂温泉(いいざかおんせん)などに寄り、宮城県の日本三景・松島(まつしま)に寄ります。
松島では、あまりにも景色の美しさに歌を詠むことができなかったとされています。
宮城県からは西へ山形県の方へ向かい、最上川(もがみがわ)に沿って日本海側の酒田(さかた)へ至り、さらに北上、秋田県の象潟(きさかた)を旅の最北端として、その後は日本海沿いに越後(新潟県)、北陸地方(富山県、石川県、福井県)を南下していき、近江国(おうみのくに。現在の滋賀県)に至ります。
そして岐阜県の大垣(おおがき)がゴールとなっています。
「白河の関」奥州三大関所の一つ みちのくへの入口
歌詞にある「関所」とは、いわゆる「白河の関(しらかわのせき)」のことをいい、いわゆる奥州三大関所の一つです。
【奥州三大関所】
・白河の関(しらかわのせき)
・勿来の関(なこそのせき)
・鼠ヶ関(ねずがせき)
白河の関(しらかわのせき)は、福島県(陸奥国)と栃木県(下野の国)の県境にある関所のことで、いわゆる内陸部にある関所です。
勿来の関(なこそのせき)は、福島県(陸奥国)と茨城県(常陸国)の県境にある関所で、いわゆる太平洋側にある関所です。
鼠ヶ関(かねずがせき)は、新潟県(越後国)と山形県(出羽国)の県境にある関所で、いわゆる日本海側にある関所です。
覚え方としては、
白河の関→内陸部
勿来の関→太平洋側
鼠ヶ関→日本海側
と覚えておけばよいでしょう。
なお、関所(せきしょ)は、昔の日本において、国と国の間を移動する通行人を厳しく制限した場所です。
昔は都道府県ではなく「~の国」であり、まさに現代の我々が外国に移動するイメージでしたから(鉄道も飛行機も高速道路もない大昔は、国と国の移動はそれだけで大変だった)、現在では、外国に入国する際に厳しい入国審査を受けるイメージでしょうか。
犯罪歴がないか、こらから犯罪をやる可能性はないか、危険物などを持ってないかを厳しくチェックされ、通行料を徴収されます。
関所は、国と国の間はもちろん、箱根の山や静岡県の浜名湖、三重県と滋賀県の間にある鈴鹿峠(すずかとうげ)といった峠道などの、いわゆる「越えにくい場所」に置かれる傾向にあります。
特に箱根の関所などでは、「入り鉄砲に出女(いりでっぽうにでおんな)」といって、江戸に鉄砲などの武器が入ってこないように幕府が厳しくチェックしました。
また、参勤交代の制度によって大名は江戸に妻を人質に取られているため、妻が江戸から出て(逃げて)いくのを防ぐために、関所を通る女性も厳しくチェックされました。
戊辰戦争の重大な局面・戦場となった、白河
そして、白河はいわゆる戊辰戦争(ぼしんせんそう)の舞台として、重要な局面であった場所です。
戊辰戦争(ぼしんせんそう)は、幕末に起こった旧幕府軍と新政府軍との戦いです。
1868年に京都で起こった「鳥羽・伏見の戦い」から始まりました。
江戸幕府15代将軍であった徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)は、大政奉還(たいせいほうかん)といって、政権を朝廷に還すこととなりました。
しかし、一部の誇り高き武士たちとしては、戦わずして朝廷に政権を還してしまったことになり、これでは武士のプライドはズタボロとなってしまいました。
これに納得いかない武士たち(旧幕府軍)は、新政府軍に対して徹底抗戦します。
しかし、近代的な武器を装備した新政府軍が優勢であり、旧幕府軍はどんどん北へ追いやられていきます。
そして、白河を舞台とした「白河口の戦い」では、南側から攻めてくる新政府軍に白河小峰城(しらかわこみねじょう)を占領されてしまい、旧幕府軍はさらに北へ逃げざるを得なくなってしまいます。
なぜなら、白河を攻略されると、新政府軍はここを拠点としてさらに北へ、また西の会津(あいづ)方面へ攻撃できてしまうからです。
同じく戊辰戦争での重要な戦場となった、会津若松
その後に起きた「会津戦争(あいづせんそう)」では、会津若松城(鶴ヶ城)に立て籠もる旧幕府軍に対して連日のように攻撃・砲撃がなされ、籠城に耐えきれなくなった城の人々は次々に倒れていきました。
約20日~30日にも及ぶ会津若松城への攻撃でついに旧幕府軍(会津藩)は降参し、さらに会津若松城の東にある「飯盛山」(いいもりやま)という山で「白虎隊(びゃっこたい)」とよばれる少年兵たちが次々に自害していきました(白虎隊の悲劇)。
会津の戦いのその後、戦いの舞台はさらに北へ移り、東北地方の旧幕府軍側の藩で結成した奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)も新政府軍の前にことごとく敗退し、または新政府軍に寝返るなどし、同盟は敗北します。
北へ北へ追いやられ、ついには北海道の箱館(はこだて)にて最終決戦を迎えながらも、最後まで新政府軍に抵抗した、土方歳三(ひじかた としぞう)率いる新選組(しんせんぐみ)も箱館の五稜郭(ごりょうかく)にて降伏して、戊辰戦争は終結、新政府軍(官軍)の勝利と旧幕府軍の敗北に終わり、明治維新(めいじいしん)の時代に入っていくわけです。
白河は、こうした一連の戊辰戦争の一つの局面として、重要な場所(古戦場)であったといえます。
白河を出発し、郡山方面へ
次は、白河を出発して郡山(こおりやま)方面へ向かいます!
注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
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