鉄道唱歌 奥州・磐城編 第27番 仙台に到着!伊達政宗が築いた城下町

鉄道唱歌 奥州・磐城編の歌詞を、わかりやすく解説してゆきます!
仙台市の観光・歴史などについて、やさしく解説してゆきます!

↓まずは原文から!

東北一の都會とかいとて
其名そのなしられし仙臺市せんだいし
伊達政宗だてまさむねの築きたる
城に師團しだんは置かれたり

さらに読みやすく!

東北一の 都会とて
その名知られし 仙台市せんだいし
伊達政宗だてまさむねの 築きたる
城に師団しだんは 置かれたり

さあ、歌ってみよう!

♪とうほくいちの とかいとて
♪そのなしられし せんだいし
♪だてまさむねの きづきたる
♪しろにしだんは おかれたり
(東北本線)
福島駅→伊達駅(旧・長岡駅)→越河駅→白石駅→岩沼駅→仙台駅→岩切駅→国府多賀城駅→塩釜駅→松島駅→鹿島台駅→小牛田駅→石越駅→花泉駅→一ノ関駅→平泉駅→盛岡駅

※鉄道唱歌に関係ある主要駅のみ抜粋

仙台駅に到着

岩沼市いわぬまし名取市なとりしを過ぎて北上すると、窓の景色はそれまでとは打って変わった大都会の様相を呈してきます。

東北地方最大の都市にして、宮城県の県庁所在地である仙台市の中心駅・

  • 仙台駅せんだいえき(宮城県仙台市)

に到着です。

仙台駅(宮城県仙台市)

仙台駅(宮城県仙台市)

東北地方最大の都市・仙台市

宮城県仙台市せんだいしは、人口約108万人を擁する、東北地方最大の都市であり、宮城県の県庁所在地です。
そして、初代仙台藩主・伊達政宗だてまさむねの築いた城下町としても知られます。

仙台は地下鉄もあり、東京のような都会的な過ごし方ができます。

目の前に広がる大都会・仙台

仙台駅を降りると、駅前はきらびやかな大都会の景色となり、

おおーっ!!めっちゃ都会だ!!

といった具合に感動すると思います。

仙台駅周辺はありとあらゆる商業施設が充実しているため、とにかく買い物や飲食、宿泊などの用事には一切の不便はありません。

さらに地下鉄などの交通網も充実しており、移動の便利も抜群です。

仙台と広島は「似ている」!?

また、個人的は仙台市は、広島県広島市と街の雰囲気や規模感が似ていると思っています。

それもそのはず、仙台はいわゆる「札仙広福さっせんひろふく」という、日本の東名阪とうめいはん(東京・名古屋・大阪のこと)に次ぐ重要4大都市に数えられているからです。

札仙広福さっせんひろふく」とは、札幌・仙台・広島・福岡の重要4大都市をまとめたものです。

札幌と福岡はよく比較されますし、仙台と広島はよく比較されます(ライバル関係にもあり、よく色々な分野で対決させられることも)。

仙台も広島も、100万人規模の大都会

仙台も広島も約100万人の大都会ですから、同規模の街としてよく比較されるのはわかります。

伊達政宗と毛利元就もうりもとなりが対決したらどうなるか、というテーマもネット上ではよく散見されますからね。

広島の本通りが仙台のクリスロード、のような印象もあります。
どちらも飲食店や商業施設が充実しており、退屈することはありません。

初代仙台藩主・伊達政宗が築いた城下町

そして仙台は、江戸時代の初代仙台藩主として君臨し、東北地方一体を治めたことで有名な武将・伊達政宗の築いた城下町として知られます。

仙台城跡(宮城県仙台市)

仙台城跡(宮城県仙台市)

初代仙台藩主・伊達政宗

伊達政宗だてまさむねは、江戸時代の初代仙台藩主にして、仙台城(別名・青葉城)を築いた有名武将です。
仙台の歴史的英雄でもあります。

豊臣秀吉の時代には、秀吉の味方について天下統一の手伝いをしたり、また江戸幕府が開かれると仙台藩の初代藩主に選ばれました。

今で言うと、宮城県の県知事に選ばれたようなものです。

仙台城には馬に乗った伊達政宗の勇姿を再現した像があり、カッコいいですよね。

とても強かった伊達政宗

伊達政宗は「右目に眼帯をした武将」のイメージがありますが、幼少期に右目の病気にかかり、またコンプレックスも多い幼少時代を過ごしていたといいます。

また派手好きだったことも知られ、いわゆる「伊達メガネ」などの語源になったとも言われています(諸説あり)。

性格は極めて破天荒であり、豊臣秀吉や徳川家康からも警戒されていた、というエピソードもあります。

あまりに行動力があって、しかも強いわけですから、敵に回すと脅威になりますからね。

仙台城跡(宮城県仙台市)

仙台城跡(宮城県仙台市)

約62万石・全国3位の石高を誇った仙台藩

仙台藩は、約62万石を有する、財政的にとても豊かな藩でした。

これは江戸時代における、全国3位でした。

  • 1位は加賀藩かがはん(現在の石川県)の、約102万石
  • 2位は薩摩藩さつまはん(現在の鹿児島県)の、約76万石

であり、仙台藩はその次になります。

当時の大半の藩の平均値は数万石~20万石程度でしたから、この62万石というのがいかに大きいかわかります。

石高こくだかが多いほど、それだけ藩の財力が大きいことになります

石高とは?

ここで石高とは、シンプルにいえばどれだけ多くのお米が取れて、どれだけ多くの兵や人々を養えるか、についての指標となります。

仙台藩は、自身の領地の中で積極的に新田開発を行い、とにかく多くのお米が取れるようにしました。

それらの大量のお米は、舟で太平洋経由で江戸に輸送・出荷され、江戸の人々に食され、多くの利益を上げたのでした。

仙台城跡(宮城県仙台市)

仙台城跡(宮城県仙台市)

明治時代、「第二師団」が置かれた仙台城

また、城は明治時代に入ってから多くが取り壊されましたが(1873年の廃城令)、軍事的に価値のある城は取り壊されずに残されました。

仙台城もその一つであり、仙台城には「第2師団」という、当時の大日本帝国陸軍の師団が置かれました。

なお、「師団しだん」とは、軍隊の細かいチーム分けをした単位のことをいいます。

鉄道唱歌に関係あるところでは、当時の大日本帝国陸軍の師団は以下の通りです。

青葉山に位置する、仙台城跡

仙台城は、青葉山あおばやまという山の上にあり、仙台城跡からは、仙台市の景色を眺めることができます。

仙台は「もりまち」といわれており、そこには緑で美しい仙台市の景色、また町を流れる広瀬川の眺めがあります。

また、そして仙台駅周辺や仙台市街地中心部の大きなビルが建ち並ぶ様子も素晴らしいです。

仙台城跡からの、仙台の風景。緑が多く、「杜の都(もりのみやこ)」と呼ばれる。手前を流れる川が広瀬川。右側が仙台駅周辺。左奥が岩手県方面。(宮城県仙台市)

仙台城跡からの、仙台の風景。緑が多く、「杜の都(もりのみやこ)」と呼ばれる。手前を流れる川が広瀬川。右側が仙台駅周辺。左奥が岩手県方面。(宮城県仙台市)

仙台城(青葉城)が復元されない理由 なぜ仙台城は復元されないのか?

現在の仙台城(青葉城)は、あくまで城跡しろあとであり、いかにも「お城」といった「天守」は失われたまま存在していないわけです(後述するように、はじめから天守は「無かった」とする説も)。
全国各地の多くのお城は戦後に復元されているものも多いですが、なぜ仙台城の天守は「復元」されないのでしょうか。

仙台城復元されない理由は、単に「お金がかかるから」だけではありません。

そこには、他にも歴史的・法的・地理的・文化的な、様々かつ複雑な事情が絡み合っています。

文化財保護法による「厳格な復元基準」を満たせないこと

日本の法律である文化財保護法(当サイトのこちらの記事でも解説)においては、歴史的建造物の「復元」のためには、以下のような厳密な条件が課されています。

その条件は厳しく、特に、

  1. 正確元の位置で、
  2. しかも十分な史料に基づいて、
  3. ほぼ完全に再現できていること

といった要素が、とても重要となってきます。

しかし、仙台城については、設計図や写真、記録などの物的根拠がほとんど残っていません。
そして、先述の通り、「想像による復元」は、原則として認められていないわけです。

すなわち、たとえ市民の希望があったとしても、仙台城の場合は法的に「復元」として認められるハードルが高くなっています。
そのため、国の支援や、補助金を受けることも難しいのです。

戦災と、廃城令による資料の喪失

1945年の仙台空襲において、仙台城の主要な重要建築物は焼失してしまいました。
また、仙台城は明治時代の「廃城令」によって、多くの建物が取り壊されてしまいました。

これらの様々な要因により、建築当時の構造やデザインなどを知る手がかりとなる資料が失われてしまいました。
これにより、復元をするための「根拠」が極めて乏しくなってしまったのです。

仙台城のある地形と、構造上の制約

仙台城は、青葉山における急峻きゅうしゅんな地形に築かれてきます。
また、本丸跡の一部は、地盤が崩落している箇所もあります。
このような厳しい地形にあると、現代の建築基準法から考えても、地震土砂災害のリスクがかなり懸念されます。

そのため、この場所に大規模な建築物を再建するためには、多大な補強工事が必要となってきます。

莫大な費用と、都市インフラへの影響

コストもまた、決して軽視できません。

例えば大手門復元だけでも、約15億円以上の費用がかかる、と見積もられています。

しかし、その一方で、

  • 市民の税負担の問題
  • 税金の使い道の優先順位の問題(例えば、高齢者子育て・育児などにもっと税金を回すべき、などの意見)

などの諸問題もあるわけてす。
そのため、行政としてもなかなか簡単には仙台城の復元に踏み切れない、というのが現実となっています。

実は、天守は「元々存在しなかった」可能性も

多くの人が「仙台城の天守を見たい」と願っています。
しかし、実は仙台城には、

そもそも天守が存在しなかった

という説が有力です。

というのも、江戸時代の絵図や記録には、天守があったことの記述がほとんどないためです。

幕府への配慮・コスパ重視の観点から!?

これは、伊達政宗による

  • 幕府への配慮(大掛かりな城を作ることで、幕府を刺激・警戒させないため)
  • 大掛かりな城を作るよりも、「政庁(政治の中心機関)」としての機能を優先させる)

などの理由から、インパクトのある天守をあえて築かなかったとも考えられています。

このような事情から、現時点では、仮に天守を建てたとしても、単なる「創作」に近くなってしまうわけです。

したがって、今のまま仙台城天守を作ったとしても、

  • 伊達政宗とは全く無関係のもの
  • 文化財としても、そもそもの価値が問われてしまうもの

が出来あがってしまうという懸念があるわけです。

しかし、一部では復元は進行中:未来への希望

しかしながら、現在では仙台市と市民による団体の方々が協力して、大手門復元計画が進められています。
すなわち、2036年(伊達政宗の没後400年にあたる)を目標に、

  • 発掘調査
  • 資料収集

が少しずつ行われていっているわけです。

その結果、柱跡はしらあとかわらなどといった様々な物証が、復元のための根拠として蓄積されていっています。

また、現地には「大手門脇櫓おおてもんわきやぐら」が2010年に復元されており、往時おうじの雰囲気を一部体感できるようになっています。

現在の仙台城跡の魅力

もちろん復元されていなくとも、現在の仙台城跡では、先述の伊達政宗の騎馬像や、石垣いしがき土塁どるい堀跡ほりあとなどが残っています。
そのため、歴史の息吹いぶきを十分に感じられるスポットになっています。

仙台城の復元は、現在も歴史と現代社会のはざまで、慎重な議論が続けられているというわけです。

次回は、仙台の名物の話題

次は、仙台の名物についての話題となります!

ちゅうい!おわりに

この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。
そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。
再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。
何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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