鉄道唱歌 奥州・磐城編の歌詞を、わかりやすく解説してゆきます!
岩切・多賀城・塩釜の地理・歴史などを、やさしく解説してゆきます!
↓まずは原文から!
岩切おりて乘りかふる
汽車は鹽竈千賀の浦
いざ船よせよ松島に
さらに読みやすく!
岩切おりて 乗りかうる
汽車は塩釜 千賀の浦
いざ船よせよ 松島に
さあ、歌ってみよう!
♪いわきりおりてー のりかうるー
♪きしゃはしおがま ちかのうらー
♪いざふねよせよー まつしまにー
福島駅→伊達駅(旧・長岡駅)→越河駅→白石駅→岩沼駅→仙台駅→岩切駅→国府多賀城駅→塩釜駅→松島駅→鹿島台駅→小牛田駅→石越駅→花泉駅→一ノ関駅→平泉駅→盛岡駅
※鉄道唱歌に関係ある主要駅のみ抜粋
仙台駅を出て、塩釜方面へ
仙台観光を終え、再び東北本線に乗り、仙台駅を出発します。
利府線との分岐駅・岩切駅
すると、現在では利府線との分岐駅である
- 岩切駅(宮城県仙台市宮城野区岩切)
に到着します。
利府線は、元々は東北本線の本来のルートでした。
つまり、
- 岩切駅→利府駅→品井沼駅
のように、かつては小牛田方面へ向かって斜め45度の直線状のルートだったのです。
しかし、この区間は勾配がきつく、戦時中の軍事輸送のボトルネックになったことから、1944年に勾配のゆるい現在の松島経由の海線に変更されたわけです。
ただし、元々あった山側の区間を全部廃止してしまっては、近隣住民の反発にあってしまうことも考えられました。
そのため、
- 岩切駅~利府駅
の区間のみを残して、「利府線」となったのでした。
そして、利府駅から先の、元々あった東北本線の部分は、廃止されたのでした。
かつては塩釜方面への分岐駅だった、岩切駅
そして、古くから重要な港町だった塩釜までは、岩切駅から
- 塩釜線
という貨物支線に乗り換えて向かっていたのでした。
また、塩釜は後述する「鹽竃神社」という重要な神社が存在する街です。
そのため、神社へ参拝する人達を乗せるために、貨物のみならず、旅客(一般の人々も乗せること)も扱っていたのでした。
千賀の浦から出発する、松島の船旅
塩釜線に乗って塩釜で列車を降りたら、千賀の浦と呼ばれる塩釜の港を出発して、松島の海めぐりをするわけです。
歌詞には
岩切おりて乗りかふる
汽車は塩釜千賀の浦
いざ船よせよ松島に」
とあります。
これは
岩切駅で塩釜線に乗り換えて、塩釜へ向かおう。
そして、塩釜の千賀の浦から船を出して、
松島の海めぐりへ行こう。」
といった具合の意味になります。
現代では、岩切駅で降りる必要性がないわけです。
なので、なぜこのような歌詞になっているのか、疑問に思った方も多いと思います。
しかし、上述したような
- 東北本線と塩釜線の歴史
- 利府線の歴史
などを知っていれば、歌詞の意味はわかるようになります。
かつて陸奥国の国府があった、多賀城市
宮城県多賀城市は、かつての陸奥国の国府があった場所です。
陸奥国とは、簡単にいうと現在の東北地方の東半分にあたります。
つまり、福島県、宮城県、岩手県、青森県が陸奥国の領域に含まれます。
一方、東北地方の西半分、つまり秋田県や山形県を領域とする地域は「出羽国」と呼ばれます。
陸奥国と出羽国を合わせて、「奥羽」と言ったりします。
国府とは、簡単にいえば現在の県庁のようなものです。
昔は現在のような都道府県ではなく、「国」という行政区域に分けられていました(江戸時代は「藩」)。
その国における政治的な中心機関を「国府」というわけです。
つまり、多賀城市は陸奥国における中心地域であったということができます。
かつて蝦夷征伐の拠点となった、多賀城
また、日本の長い歴史において、東北地方にいた「蝦夷」とよばれる人々は、朝廷に反発したり、朝廷と対立したりしてきました。
東北地方は朝廷(京都)から地理的にすごく離れているのだから、自分達くらい自由にさせてほしかったのかもしれません。
しかし、朝廷にとっては蝦夷の人々に下手に力を付けられては困るため、自分達に従わない蝦夷の存在は脅威となってきました。
そのため、朝廷は東北地方を軍事的に制圧し平定するため、主に平安時代、様々な武士が送られてきたりしました。
坂上田村麻呂(700年代後半~800年頃まで)や、源義家(1000年代後半)といった人物がそうです。
なお、坂上田村麻呂は、蝦夷を征伐するための武将として、史上初の「征夷大将軍」に任命されています。
鎌倉時代以降の征夷大将軍といえば源頼朝や徳川家康などの将軍さまが思い浮かぶと思いますが、平安時代の征夷大将軍は「蝦夷を征伐・統制するための武士のリーダー」という意味になります。
源義家は、1083年に起こった「後三年の役」で、朝廷に味方をして戦いました。
八幡太郎の異名があります。
なお、東北の防衛の拠点は多賀城から、後に現在の岩手県奥州市にある胆沢城に移されています。
「多賀城碑」とは?
「多賀の碑」は、宮城県多賀城市にある、陸奥国国府があった場所の近くにある、石碑に書かれた文字のことです。
「多賀城碑」と呼ばれます。
最寄り駅は、現在の東北本線・
- 国府多賀城駅(宮城県多賀城市)
になります。
さて、この石碑に何て書かれているのか・・・。
奈良時代の700年代に書かれており、しかも全て漢字で書かれているため、私(筆者)にはわかりません(^^;)
しかし、多賀城は国府のあった場所であり、また東北地方を治めるために重要な場所だったことから、それに関係する文章が書いてあることは間違いがないでしょう。
なお、この多賀城碑の石碑の文字については偽物説があったようですが、現在においてはそれは否定され、本物であることがわかっているそうです。
なお、多賀城碑は古くから色んな和歌において読まれてきたので、多くの人が名前や存在を知っていました。
なお、歌に出てくる観光地などの地名を「枕詞」といいます。
つまり、多賀城碑は多くの歌の枕詞になってきました。
あの松尾芭蕉も、多賀城碑について詠んだとされています。
かつて陸奥国の国府津が置かれた、塩釜港
宮城県塩釜市は、陸奥国の国府津があり、また陸奥国の一宮がある街です。
国府津とは、その国で最も重要な港のことをいいます。
神奈川県小田原市に、国府津という地名があると思いますが、これは相模国の国府津があったことに由来するとされています。
つまり、塩釜港(千賀の浦)は、陸奥国の国府津ということになります。
陸奥国の一宮・鹽竃神社
また、塩釜市は「鹽竃神社」という、陸奥国の一宮がある街でもあります。
一宮とは、その国で最も格式の高い神社のことをいいます。
つまり、鹽竃神社は陸奥国でもっとも格式の高い神社ということになります。
なお、「官幣大社」という神社のランク付けの仕組みもありますが、これは明治時代の「近代社格制度」という仕組みのランク付けとなり、「一宮」とはまた異なります。
つまり、「一宮=官幣大社」、とは必ずしもなりません。
鹽竃神社や越後国一宮の弥彦神社は、国幣中社となります。
また、静岡県三島市の「三嶋大社」は、官幣大社にして伊豆国一宮です。
なお、我が国で最も格式が高いとされている伊勢神宮は、官幣大社よりも上ということで、社格すらついていません。
「しおがま」の漢字表記について
「しおがま」という漢字の表記には、
- 「塩釜」
- 「塩竃」
- 「鹽竃」
- 「鹽竈」
などの表記揺れがあります。
塩釜駅には「塩釜」の表記であり、鹽竃神社は「鹽竃」の表記になります。
昔の漢字(旧字体)は画数が多く、難しい表記のものが多かったのです。
しかし時代と共に、利便性と学習の容易さを考慮して、漢字が簡略化されていったというわけです。
現在の東北地方の中心地や最大の都市は、言うまでも無く仙台市です。
しかし、
- かつての陸奥国の中心地である、多賀城市
- かつての陸奥国の中心的な港(国府津)や一宮もある、塩釜市があるこの地域(仙台・多賀城・塩釜)
は、やはり東北地方で重要な地域であうということができます。

塩釜駅(宮城県塩竈市)
次回は、松島の船旅「松島船あそび」へ
塩釜港(千賀の浦)から船を出して出港すると、いよいよ松島の海に向けて遊覧の旅となります。
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