鉄道唱歌 奥州・磐城編 第47番 浪江駅、そして双葉駅に到着 そして、震災の跡

まずは原文から!

浪江(なみえ)なみうつ稻(いね)の穗(ほ)の
長塚(ながつか)すぎて豐(ゆた)かなる
里の富岡(とみおか)木戸(きど)廣野(ひろの)
廣(ひろ)き海原(うなばら)みつゝゆく

さらに読みやすく!

浪江(なみえ)なみうつ(波打つ)稲(いね)の穗(ほ)の
長塚(ながつか)すぎて豊かなる
里の富岡(とみおか)木戸(きど)広野(ひろの)
広き海原(うなばら)みつつ(見つつ)ゆく

さあ、歌ってみよう!

♪なーみえなみうつ いねのほもー
♪ながつかすぎてー ゆたかなるー
♪さーとはとみおか きどひろのー
♪ひーろきうなばら みつつゆくー

(常磐線)
仙台駅→(※注1)→岩沼駅→相馬駅(旧・中村駅)→原ノ町駅→浪江駅→双葉駅(旧・長塚駅)→富岡駅→木戸駅→広野駅→久ノ浜駅→いわき駅(旧・平駅)→内郷駅(旧・綴駅)→湯本駅→泉駅→勿来駅→大津港駅(旧・関本駅)→磯原駅→高萩駅→日立駅(旧・助川駅)→常陸多賀駅(旧・下孫駅)→水戸駅→友部駅→石岡駅→土浦駅→松戸駅→北千住駅→南千住駅→日暮里駅(※注2)

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
※注1 仙台駅→岩沼駅は東北本線の区間
※注2 当時は田端駅が終端

原ノ町駅(はらのまちえき、福島県南相馬市)を過ぎると、「大都市近郊区間」の北端駅にあたる浪江駅(なみええき、福島県双葉郡浪江町)を過ぎていきます。
そして、福島第一原子力発電所が近隣にあり、現在も駅周辺が帰宅困難地域となっている双葉駅(ふたばえき、福島県双葉郡双葉町長塚)を過ぎていきます。
さらに富岡駅(とみおかえき、福島県双葉郡富岡町)・木戸駅(きどえき、福島県双葉郡楢葉町)・広野駅(ひろのえき、福島県双葉郡広野町)と、福島県の浜通り・太平洋沿岸地域を南下して進んでいきます。

この地域は、歴史的に、江戸時代以前は海沿いに仙台方面へ(徒歩または馬で)向かう、陸前浜街道(りくぜんはまかいどう)のルートでした。また、車も列車も飛行機もない時代でしたから、徒歩または馬で何日もかけて向かうため、途中で旅人が泊まるための宿場町もいくつかありました。
現在の双葉町にあたる長塚宿(ながつかしゅく)などがそうです。
他にも、富岡宿木戸宿広野宿などもありました。

そしてこの地域は、いわゆる福島第一原子力発電所のある地域であり、原発事故により2011年の東日本大震災において甚大な被害に遭った場所でもあります。
2022年現在も帰宅困難地域となっており、人が立ち入れない区域が存在します。

歌詞にある「長塚(ながつか)」とは、双葉駅の1890年代開業当時の駅名「長塚駅」のことです。かつては「長塚村」でしたが、合併を経て1956年に双葉町になりました。
そして、1959年に長塚駅から双葉駅に改められました。

では歌詞について少し解説します。
恐らくですが、この歌詞は掛詞(かけことば)になっていると思われます。

「(波うつ稲の穂が)長い」と、「長塚(ながつか)」という地名を掛けています。

里の富み(里が富む)」と、「富岡(とみおか)」という地名をかけています。

歌詞全体のイメージとしては、波のようにうねる細長い稲の穂がゆれ、そこに広く豊かな土地が広がり、さらにそこから広い海原が続く、といった作者の大和田建樹(おおわだ たけき)さんが表現したかった景色でしょうか。

浪江駅(なみええき)は、いわゆる大都市近郊区間(だいとしきんこうくかん)の北端部分になります。
大都市近郊区間内においては、どのようなルートを通っても同じ駅を二度通らない限り、最短の距離の金額で計算するという救済措置があります。
例えば東京駅から新宿駅へ行くのに、中央線快速で行った方が速いことを知らずに、山手線で大回りして新宿へ行ってしまい、距離が長いから山手線経由だと運賃が高くなる・・・といった不公平を防ぐための措置ですね(旅客営業規則第157条、選択乗車)。この場合、どちらのルートでも運賃は同じになります(安い方の運賃)。
しかし、大都市近郊区間内においては、途中下車できないというルールがあります。通常、片道100kmを超える乗車券では途中下車ができます。
しかし、同じく大都市近郊区間の北端である長野県の松本駅から福島県の浪江駅まで乗った場合、余裕で100km超えているのですが、すべてのルートが大都市近郊区間に収まっている場合、途中下車できません。なので、松本駅を出発しても、東京都区内の駅で降りて遊んだり宿泊することができません。
対応策として、松本駅から一つ遠い北松本駅を出発点にするか、あるいは浪江駅から一つ遠い桃内駅をゴールにすることで途中下車できるようになります。
もっとも、シンプルに長野→松本→東京都区内→浪江→仙台という経路にすれば、あまり意識しなくてOKです。

双葉町のこの地域は、歴史的に主に農業で栄えてきました。また、先述の通り、陸前浜街道の宿場町としても栄えてきたので、旅人をもてなすことで得られた利益もあったことでしょう。

しかし、1960年代に入ると、原子力発電所の誘致によってその就業構造は大きく変わります。つまり、農業などの伝統的な仕事で働く人よりも、原発で働く人が多くなるわけです。
なぜ原子力発電所が必要だったのかというと、当時は高度経済成長期で人口爆発により、どれだけ発電所を作っても各家庭に電気を届けられなかった、という時代のニーズがあったからでしょう。
令和の現代の電気代が高かったり電力逼迫(ひっぱく)などがあるのは、設備が老朽化して保守や改善のための費用がかかることや、円安が著しくなって発電に必要な石油や石炭などのエネルギーを輸入(購入)しにくいことが挙げられます。
しかし1960年代のこの時代により多くの電力が求められたのは、単純に発電のための施設が充実していなかったことや、高度経済成長期のために人口爆発で電力の供給が追いつかなかったことが挙げられるでしょう。
また、原発が必要だったのは、火力発電よりも二酸化炭素などの排出が少なく、膨大なエネルギーにより効率よく電気を作れるというメリットがあったからでしょう。

福島第一原子力発電所は、様々な地質調査などを経て建設されると、そこで働く人達が増えるので、双葉町大熊町あたりの人口が増加することになります。
人口が増えると、町への税収も増えるため、町の発展にもつながります。

しかし、2011年3月11日に東日本大震災という大惨事が起こります。
地震と津波で原子力発電を行う溶鉱炉を冷やすための冷却装置が破壊されてしまい、溶鉱炉を冷やすことができなくなります。冷やされなくなった溶鉱炉はありえない高温になり、溶けてしまいます(メルトダウン)。その結果、溶鉱炉の中の核分裂から生じた放射性物質放射性セシウムなど)が大量に放出されてしまい、海や土壌、空気などを汚染してしまいました。
そして、放射性物質から健康への被害を起こされることを考慮し、双葉町は「帰宅困難地域」に指定され、多くの人々がふるさとから離れることを余儀なくされました。

双葉駅も2020年3月に常磐線が復旧した後も、駅の周辺が放射性物質の量が安全値を下回らないとして、立ち入り禁止区間となっていました。
しかし、2022年8月に双葉町の一部分が帰宅困難地域の解除を受け、徐々にではありますが地域住民の皆様の不屈の精神と努力もあり、少しずつ復興と元の日常へ戻っていってるようです。

双葉駅を過ぎると、歌詞には出てきませんが、特急列車も停車する大野駅(おおのえき、福島県双葉郡大熊町)に着きます。大熊町は、福島第一原子力発電所の所在する自治体です。

そして、夜ノ森駅(よのもりえき、福島県双葉郡富岡町)、富岡駅竜田駅(たつたえき、福島県双葉郡楢葉町)、木戸駅Jヴィレッジ駅(福島県双葉郡楢葉町)、広野駅と続きます。
Jヴィレッジとは、1997年にできた、サッカーのトレーニング施設です。

広野駅を過ぎると、実は岩沼駅から常磐線に入ってから最初となる海の景色に出会えることになります。
こちらは、次回解説します!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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