鉄道唱歌 奥州・磐城編 第52番 北茨城市に入り、平潟港の近くへ 五浦海岸と、岡倉天心の功績

鉄道唱歌 奥州・磐城編の歌詞(北茨城市、岡倉天心、五浦海岸)を、鉄道に詳しくない方にもわかりやすく解説してゆきます!

まずは原文から!

關本せきもとおりで(※)平潟ひらかた
みなとにやどる人もあり
岩の中道なかみちふみわけて
いそうつ波も聞きがてら

※おりで→「おりて」の誤植

さらに読みやすく!

関本せきもとおりて 平潟ひらかた
みなとにやどる 人もあり
岩の中道なかみち ふみわけて
いそうつ波も 聞きがてら

さあ、歌ってみよう!

♪せきもとおーりて ひらかたのー
♪みなとにやどるー ひともありー
♪いーわのなかみち ふみわけてー
♪いそうつなみもー ききがてらー
(常磐線)
仙台駅→(※注1)→岩沼駅→相馬駅(旧・中村駅)→原ノ町駅→浪江駅→双葉駅(旧・長塚駅)→富岡駅→木戸駅→広野駅→久ノ浜駅→いわき駅(旧・平駅)→内郷駅(旧・綴駅)→湯本駅→泉駅→勿来駅→大津港駅(旧・関本駅)→磯原駅→高萩駅→日立駅(旧・助川駅)→常陸多賀駅(旧・下孫駅)→水戸駅→友部駅→石岡駅→土浦駅→松戸駅→北千住駅→南千住駅→日暮里駅(※注2)

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
※注1 仙台駅→岩沼駅は東北本線の区間
※注2 当時は田端駅が終端

勿来駅を過ぎ、茨城県に入る 再び関東地方へ

勿来駅なこそえき(福島県いわき市)を過ぎ、福島県と茨城県の県境を超えると、いよいよ茨城県に入り、関東地方に入ります。

逆にいえば、ここまで道中長かった東北地方での行程も、ここにて終了となります。

しかし、ゴール地点の上野まで行程はまだまだ続きます。

茨城県・北茨城市へ

茨城県最北端の駅・大津港駅(北茨城市)

いよいよ茨城県に入ると、最初の駅である

  • 大津港駅おおつこうえき(茨城県北茨城市)

に着きます。

逆にいえば、大津港駅は茨城県の最北端(と同時に最東端)の駅でもあるのです。

北茨城市・大津港駅

歌詞にある「関本せきもと」とは、現在の大津港駅のことであり、旧・関本駅のことをいいます。

大津港駅は1890年代の開業当初は関本駅せきもとえきという名前でした。

かつて東回り航路の重要拠点だった、平潟(北茨城市)

そして、「平潟ひらかた」とは、江戸時代からの貿易港として非常に重要な地位をしめた港です。
いわば、「東回り航路ひがしまわりこうろ」の拠点・中継点となった港です。

東回り航路とは?

東回り航路ひがしまわりこうろとは、江戸時代に河村瑞賢かわむらずいけんという人物によって作られた、船によるルートのことをいいます。

昔は、舟で荷物を運ぶことが当たり前だった

例えば、現在の長距離輸送は、

  • 航空機だったり、
  • 高速トラックだったり、
  • 貨物列車だったり

しますよね。

しかし江戸時代には、そのような輸送手段はありませんでした。
そのため、船に載せて大量輸送するほうが、効率がよかったというわけですね。

東回り航路で大きな利益を挙げた、仙台藩

例えば、仙台藩は江戸に大量にお米を売ることで、莫大な利益を上げたのでした。

そしてこのことで、62万石にも及ぶ豊かな藩を作り上げたのでした。

「東廻り航路」のルート

では、そのお米はどんなルートで江戸まで運ばれたのか。
仙台の街を流れる広瀬川ひろせがわ名取川なとりがわを通じて、船は太平洋に出ます。

太平洋に出ると、東回り航路を通じて南へ船は進みます。
途中、ここ平潟によって荷物を降ろしたり、夜に泊まったり、夜が明けて平潟を出発して、江戸を目指します。

関東地方まで降りてくると、利根川に入って関東内陸部まで船を進める、というルートをとっていたわけです。

上記は東廻り航路の一例です。

一方、「西廻り航路」とは?

西廻り航路は、

  1. 秋田県の酒田さかたをスタートして、
  2. 西に日本列島を大回りし、
  3. 山口県の下関の関門海峡を通って、
  4. 瀬戸内海に入ります。
  5. そして、途中に岡山県倉敷市くらしきし玉島港たましまこうなどに寄り、
  6. 大阪(大坂)に至ります。

当時は大阪のことを「上方かみかた」と呼んでいました。

大阪(大坂)は、年貢米として収められた全国のお米が集められてくるため、「天下の台所」と呼ばれました。

西廻り航路は、大坂からさらに紀伊半島を大きく南へ迂回したのち、江戸方面へ至ります。

北茨城市の名所「五浦海岸」岡倉天心の功績

そして、北茨城市の観光名所として、「五浦海岸いづらかいがん」があります。

五浦海岸いづらかいがんとは、「関東の松島」とよばれる、海と島がとても綺麗な観光地(景勝地)です。

岡倉天心とは?

五浦海岸は、岡倉天心おかくらてんしんという明治時代の人物がこよなく愛したことで知られます。 

岡倉天心おかくらてんしんは、東京の上野にある国立大学である「東京芸術大学」の前身となる学校を、1890年にわずか27歳という若さで設立し、また校長(学長)になりました。

岡倉天心とともに尽力した、フェノロサ

そして、岡倉天心とともに日本美術の発展と向上に尽力した人物に、フェノロサというアメリカ人の方がいます。

フェノロサは日本の伝統的な美術の素晴らしさに気付き、大きな関心を持ち、日本美術のことを高く評価したのでした。

日本への思い入れが深く、亡くなられた後も分骨ぶんこつを、滋賀県大津市の法名院というお寺(湖西線・大津京駅の近くにあるお寺です)に収められたといいます。

岡倉天心の建てた「六角堂」

岡倉天心は、五浦海岸がとても気に入り、「六角堂」という建物を作り、思索に集中したといいます。
思索とは、仕事や事業のアイデアを考えるそとですね。

海や波の音や、風光明媚な五浦海岸の景色がとても彼にとってリラックスでき、また集中できたのでしょう。

震災で消失 しかし復元

六角堂は、残念ながら2011年3月11日の東日本大震災による津波によって、ほとんど大破し、流されてしまいました。

その結果、国内のみならず、多くの国の美術学関係の方々からお悔やみのメッセージがあったといわれます。
また、これによって岡倉天心が、いかに多くの人々から愛されていたのかがわかったといわれます。
六角堂は、2012年に原型に忠実な形で復元されました。

五浦海岸には、岡倉天心の偉大な功績をたたえ、「茨城県天心記念五浦美術館」があります。

歌詞の「港へ宿る人」とは?

歌詞には

岩の中道ふみわけて

とあります。

すなわち、当時は関本駅(現在の大津港駅)からの道のりが岩がちであり、なおかつやや険しかったようなのですね。

しかし現在では、道路がキレイに整備されています。
そのため、当時の交通事情の大変さと、現代のその改善ぶりが伺えますね。

歌詞全体の意味としては、

関本駅を降りたら、港へ停泊する人々がいる。
そのため、自分も岩の道を踏み分けて、磯(海)にうつ波も聞きに行ってみようではないか。」

などの意味になりるでしょう。

港へ宿る人」というのは、私も最初はどういう意味かわからなかったのですが、恐らく、列車を降りて平潟港に宿泊する人のことかもしれません。

平潟港は先ほども述べたように、東廻り航路の停泊地になります。
すなわち、船のメンテナンスなどはもちろん、船の長旅で疲れた人を泊めたり、食事を提供するお店や施設もあったはずです。

すなわち、いわゆる「宿場町」のようなものであり、食事・休憩・宿泊などのために列車を降りてから、平潟港の方面へ行き、一晩の宿をとる人もいたということでしょう。
そして、自分も列車から降りて、岩の中道を踏み分けて、海岸に寄せてくる波の音を聞きに行ってみよう、などの意味になるかもしれません。

次回は、磯原・高萩方面へ

次は、磯原町高萩市方面へ向かいます!

ちゅうい!おわりに

この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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