鉄道唱歌 奥州・磐城編 第51番 勿来の関に到達 八幡太郎(源義家)ゆかりの地

まずは原文から!

道もせに散る花よりも
世に芳(こう)ばしき名を留めし
八幡太郎(はちまんたろう)が歌のあと
勿來(なこそ)の關(せき)も見みてゆかん

さらに読みやすく!

道もせに散る花よりも
世に芳(こう)ばしき名を留めし
八幡太郎(はちまんたろう)が歌のあと
勿来(なこそ)の関(せき)も見みてゆかん

さあ、歌ってみよう!

♪みちもせにーちる はなよりもー
♪よにこうばしきー なをとめしー
♪はちまんたろうが うたのあとー
♪なこそのせきもー みてゆかんー

(常磐線)
仙台駅→(※注1)→岩沼駅→相馬駅(旧・中村駅)→原ノ町駅→浪江駅→双葉駅(旧・長塚駅)→富岡駅→木戸駅→広野駅→久ノ浜駅→いわき駅(旧・平駅)→内郷駅(旧・綴駅)→湯本駅→泉駅→勿来駅→大津港駅(旧・関本駅)→磯原駅→高萩駅→日立駅(旧・助川駅)→常陸多賀駅(旧・下孫駅)→水戸駅→友部駅→石岡駅→土浦駅→松戸駅→北千住駅→南千住駅→日暮里駅(※注2)

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
※注1 仙台駅→岩沼駅は東北本線の区間
※注2 当時は田端駅が終端

いわき駅・泉駅から南下 勿来駅へ

泉駅(いずみえき、福島県いわき市)を過ぎて南下すると、勿来駅(なこそえき、福島県いわき市勿来町)を過ぎて、いよいよ福島県茨城県の県境を通過し、再び関東地方へ戻ってくることになります。
長かった東北地方への滞在も、ここまでで終わりということになります。

奥州三大関所の1つ「勿来の関所」

その県境にあった関所のことを、いわゆる「勿来の関(なこそのせき)」といいます。
勿来(なこそ)は「来る勿れ(なかれ)」、つまり「来るな」という意味になります。

勿来の関(なこそのせき)は、いわゆる「磐城国(いわきのくに)」と、「常陸国(ひたちのくに)」の国境をなす関所のことです。

磐城国(いわきのくに)」は、現在の福島県の浜通り地域(太平洋沿岸)のことをいいます。

常陸国(ひたちのくに)」は、現在の茨城県の地域のことをいいます。

常磐線(じょうばんせん)の名前は、常陸国と磐城国の頭文字からきています。つまり、茨城県と福島県の浜通りを結ぶ鉄道路線ともいえます。

関所(せきしょ)とは、古くから国境(現在でいうところの県境)に置かれた、不審者を取り締まるための施設です。国と国を移動する者に対して、危険物は持っていないか、また犯罪を犯す心配はないかを調べられます。
また、江戸時代には神奈川県の箱根の関所においては、江戸に鉄砲などの武器が持ち込まれないようチェックされたり、参勤交替で人質に取った嫁が江戸から逃げたりしないかを取り締まられました。これは関所の取り締まりの目的として「入り鉄砲に出女(いりでっぽうにでおんな)」といわれました。

勿来の関は、いわゆる「奥州三大関所」とよばれたうちの1つです。

もう1つは「白河の関(しらかわのせき)」で、栃木県と福島県の中通りの県境に置かれた関所です。能因法子(のういんほうし)や松尾芭蕉などの俳人に詠まれたほか、源頼朝が平泉を平定するときも一行が白河の関を通過しました。

さらにもう1つは、「鼠ヶ関(ねずがせき)」といい、日本海側の新潟県と山形県の県境に置かれました。
松尾芭蕉も、「おくのほそ道」の旅において鼠ヶ関を通過したほか、源頼朝に追われた源義経が平泉に逃げる際にも変装して(?)鼠ヶ関を通過したとされています(諸説あり)。
源義経が石川県の「安宅の関(あたかのせき)」を通過したのは知られている話です。

勿来の関も、これまで多くの歌人や俳人によって詠まれてきた関所なので、多くの人々にそれらの歌によって存在が知られてきました。

歌詞にある「八幡太郎(はちまんたろう)」、つまり源義家(よしいえ)もその一人です。

勿来の関で詩を詠んだ、「八幡太郎」こと源義家

歌詞にある「八幡太郎(はちまんたろう)」とは、先述の通り、平安時代の武将である源義家(よしいえ)のことをいいます。

源義家(よしいえ)、通称「八幡太郎」は、平安時代の1050年~1060年代に行われた「前九年の役」や、1080年代に行われた「後三年の役」で戦った人物です。

八幡太郎(はちまんたろう)」という通称は、源義家が幼少期に現在の京都府八幡市(やわたし)にある石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)で元服(げんぷく)したことに由来するとされています。元服とは、成人を迎える儀式をいいます。石清水八幡宮は、源氏をはじめ数多くの武将に強く信仰されていたことで知られます。
余談ですが、石清水八幡宮の竹は、エジソンが電球を大量生産するのに用いられた竹(フィラメント)でもあります。

全国の八幡神社

なお「八幡宮(はちまんぐう)」は、鎌倉の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)、福岡の筥崎宮(はこざきぐう)、大分県宇佐市の「宇佐神宮(うさじんぐう)」とともに知られます。

どれも鉄道唱歌に登場しますね。

八幡(やはた)の神様は、いわゆる「戦いの神様」のことで、多くの武家から信仰されました。

京都府八幡市(やわたし)は、京都府と大阪府のほぼ県境にある街です。
鉄道唱歌東海道編第54番で、「山崎おりて淀川を わたる向う(むこう)は男山(おとこやま)」とありますよね。
あの「男山(おとこやま)」は八幡市にある山です。

源義家が戦った、東北地方の様々な戦い

平泉のところでも説明しましたが、八幡太郎こと源義家について少し復習しましょう。

前九年の役」では、源義家は東北の安倍氏に苦戦していた父親(源頼義)の命を間一髪で救うなどサポートしました。そして、源頼義とともに、秋田の清原氏と協力して、安倍貞任(あべのさだとう)をはじめとする安倍氏を滅ぼしました。

後三年の役」では、清原氏の身内争いに介入し、「清原氏A」と「清原氏B」による清原氏同士の戦いを引き起こさせました。
(なお、清原氏A、Bという表現は便宜的な表現であり、正式な表現ではありません。ここ以外では通じないので気を付けてください)
源義家は清原氏Aの味方をして、秋田県横手市(よこてし)の城に籠城した清原氏Bを食糧不足に追い込み敗北させ、源義家のサポートによって勝利した清原氏Aが奥州藤原氏となるきっかけを作りました。

しかし、後三年の役はあくまで個人の身内争いに半ば勝手に介入した戦いであったため(報酬と戦果目的で意図的・陰謀的に引き起こした戦いという説もあり)、源義家が本来期待していた朝廷からの報酬は得られず、その後源義家は約10年ほど不遇な扱いを受けたといわれます。

道もせに散る花」とは、道も狭くなるほど花びらが散らかる、という意味です。「せ」は「狭」という意味になります。
そしてこれは、源義家(八幡太郎)がかつて勿来の関にかかったときに詠んだ歌でもあります。

そして、鉄道唱歌では「そんな花(道狭しと飛び散った花)よりも、世に芳ばしい名前を轟かせた八幡太郎(源義家)が歌に詠んだ、勿来の関も見ていこう」と歌っているわけです。

茨城県に入り、ここからは関東地方へ

勿来の関を過ぎて、県境を越えると茨城県となり、再び関東地方に入ります!

次は、北茨城市の大津港駅(旧・関本駅)に止まります!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

コメント