鉄道唱歌 奥州・磐城編 第62番 東京都に入り、窓横の千住大橋も過ぎる 常磐線の旅も終盤へ

まずは原文から!

車輪(しゃりん)のめぐり速(すみ)やかに
千住大橋(せんじゅおおはし)右に見て
環(たまき)の端(はし)の限りなく
ふたゝびもどる田端驛(たばたえき)

さらに読みやすく!

車輪(しゃりん)のめぐり速(すみ)やかに
千住大橋(せんじゅおおはし)右に見て
環(たまき)の端(はし)の限りなく
ふたたび(再び)もどる(戻る)田端駅(たばたえき)

さあ、歌ってみよう!

♪しゃりんのめぐり すみやかにー
♪せんじゅおおはし みぎにみてー
♪たまきのはーしの かぎりなくー
♪ふたたばもどるー たばたえきー

(常磐線)
仙台駅→(※注1)→岩沼駅→相馬駅(旧・中村駅)→原ノ町駅→浪江駅→双葉駅(旧・長塚駅)→富岡駅→木戸駅→広野駅→久ノ浜駅→いわき駅(旧・平駅)→内郷駅(旧・綴駅)→湯本駅→泉駅→勿来駅→大津港駅(旧・関本駅)→磯原駅→高萩駅→日立駅(旧・助川駅)→常陸多賀駅(旧・下孫駅)→水戸駅→友部駅→石岡駅→土浦駅→松戸駅→北千住駅→南千住駅→日暮里駅(※注2)

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
※注1 仙台駅→岩沼駅は東北本線の区間
※注2 当時は田端駅が終端

松戸駅(まつどえき、千葉県松戸市)を出ると、江戸川(えどがわ)を渡り、東京都に入ります
第3番で赤羽駅を過ぎて荒川を渡って埼玉県に入って以来、再び東京都に戻ってきたことになります。
鉄道唱歌奥州・磐城編の鉄道の旅も、ラストスパートになります。

東京都に入ると、「男はつらいよ」というドラマで有名な「柴又帝釈天(しばまたたいしゃくてん)」に近い金町駅(かなまちえき、東京都葛飾区金町)を過ぎます。
また、漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所(こち亀)」で有名な亀有駅(かめありえき、東京都葛飾区亀有)も過ぎると、いよいよ江戸四宿(えどよんしゅく)の一つである千住宿(せんじゅしゅく)に近い、北千住駅(きたせんじゅえき、東京都足立区千住)に着きます。

北千住駅からは、ここまで各駅停車だった常磐線の車両は東京メトロ千代田線に分岐していきます。

千住宿(せんじゅしゅく)は、江戸四宿(えどよんしゅく)の1つの重要な宿場町として栄えました。
中山道の板橋宿(いたばしじゅく)、甲州街道の内藤新宿(ないとうしんじゅく)、東海道の品川宿(しながわしゅく)と合わせて、江戸四宿とよばれます。

北千住駅を出ると、隅田川の橋を渡ります。
ここで歌詞にあるように、千住大橋(せんじゅおおはし)が窓の右側に登場することになります。

私は以前まで列車が千住大橋そのものを通過するものだと勘違いしていたのですが、あくまで鉄道が渡る橋と千住大橋は別物になります(鉄道の橋の数百メートル西にある橋が千住大橋です)。

歌詞にあるように、日暮里・上野方向に向かって「右側に登場する橋」が千住大橋になります(千住大橋は江戸時代からの伝統的な橋であり、瀬戸大橋のように鉄道と一体化して併設となってるわけではありません)。

文字や表現の制約上、本記事のタイトルが若干誤解あるようだったら申し訳ございません(それでもなんとかタイトルは工夫して書いたつもりです)。

千住大橋(せんじゅおおはし)は、かつて松尾芭蕉が「おくのほそ道」の旅に出た場所として知られます。
江戸時代に江戸に最初にかけられた橋であり、最初は単に「大橋」という名前でした。
しかしその後、「両国橋(りょうごくばし)」がかけられ、大橋は「千住大橋」に改められました。

千住大橋
千住大橋の元々の名称である「大橋」の表記

なお、現在も隅田川にかかる両国橋(りょうごくばし)の名前の由来は、下総国(しもうさのくに)と武蔵国(むさしのくに)の両方の国にかかる橋という意味であり、両国駅(りょうごくえき、東京都墨田区)のある地名の由来にもなっています。

そして、徐々に東京都の都心部へ戻っていきます。

歌詞に「環(たまき)の端の限りなく」とありますが、当時は田端駅(たばたえき、東京都北区)が終点になっていたことに関係しています。
当時はまだ完全な環状線ではなく、田端駅→赤羽駅→池袋駅の経路は「∧字型」でした。
つまり、常磐線から南下して来た列車(例えば、磐城炭鉱常陸炭鉱で採れた石炭を運ぶ貨物列車など)が横浜方面に行くには、一旦赤羽駅まで北上し、池袋駅まで南下し、その後は「C」の字のように目白・目黒を経由して品川駅まで行き、そこから横浜方面へ行くというルートでした。

その後、1905年には三河島駅(みかわしまえき、東京都荒川区)と日暮里駅(にっぽりえき、東京都荒川区)を直接結ぶルートに変更されました。
そのため、三河島駅から日暮里駅までは非常に急なカーブとなっています。
さらに、1925年には上野駅~東京駅~品川駅が開通し、常磐線から南下してきた列車はより短いルートで横浜方面まで行くことが可能となりました。

まだ上野止まりだった頃も、秋葉原まで貨物列車が来ていましたが、その当時の秋葉原水運の街だったことも知られています。秋葉原は神田川に接しているので、ここで船に荷物を載せ換え、神田川を東に進んで隅田川と合流し、そこから東京湾に向けて船が出ていたわけですね。現在の秋葉原にも水運の街だった頃の名残が残っています。

日暮里駅まで来たら、ゴールの上野駅まではあと僅かです!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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