鉄道唱歌 東海道編 第2番 高輪泉岳寺 赤穂義士たちの墓

まずは原文から!

右は高輪(たかなわ)泉岳寺(せんがくじ)
四十七士(しじゅうしちし)の墓どころ
雪は消えても消え残る
名は千載(せんざい)の後までも

さらに読みやすく!

右は高輪(たかなわ)泉岳寺(せんがくじ)
四十七士(しじゅうしちし)の墓どころ
雪は消えても消え残る
名は千載(せんざい)の後までも

さあ、歌ってみよう!

♪みーぎはたかなわ せんがくじー
♪しじゅうしちしの はかどころー
♪ゆーきはきえても きえのこるー
♪なはせんざいのー のちまでもー

(東海道線)
新橋駅→高輪ゲートウェイ駅→品川駅→大森駅→川崎駅→鶴見駅→東神奈川駅→横浜駅→大船駅→藤沢駅→大磯駅→国府津駅(→小田原駅・熱海駅)

※鉄道唱歌に関係ある主要駅のみ抜粋
※鉄道唱歌の当時の「神奈川駅」と、現在の「東神奈川駅」は別の駅
※小田原駅・熱海駅は鉄道唱歌の当時のルートには含まれない

新橋駅を出発して、浜松町駅(はままつちょうえき、東京都港区)、田町駅(たまちえき、東京都港区)を過ぎてゆきます。浜松町駅は、羽田空港へ向かう東京モノレールの駅でもあります。
そして、2020年に開業した比較的新しい駅である、高輪ゲートウェイ駅(たかなわゲートウェイえき、東京都港区)に止まります。

高輪ゲートウェイ駅(港区)
高輪ゲートウェイ駅(港区)

高輪ゲートウェイ(Takanawa Gateway)
この駅名は一般公募により決められたそうで、1位になった駅名はシンプルに「高輪駅(たかなわえき)」だったそうですが、あえて30位にランクインした「高輪ゲートウェイ駅」に決定しました。なぜそんな長い名前にしたの!?と当初は色々と物議を醸したそうですが、歴史を辿ってみると何故この駅名になったのかが納得できます。

昔、江戸時代には現在の高輪ゲートウェイ駅の西100mほどの位置に、「高輪大木戸(たかなわおおきど)」という大きな門のようなものがありました(現在でも遺構があり見学できます)。
高輪大木戸(たかなわおおきど)は、江戸に入っていくための境界線・関門(ゲートウェイ)のようなもので、ここをくぐらないと江戸の街には入っていけませんでした。当然、不審者や犯罪をやる恐れのある者は入ることができません。逆にいえば、ここをくぐることができれば不審者でも犯罪者でもない良識ある人間としてみなされた証明でもあります。

現代の我々も、東海道線を経由して南側から高輪ゲートウェイ駅をくぐり抜けて東京都内に入っていくのだと考えてみると、とてもそれは名誉なことであり素晴らしいことなのだと考えることはできませんかね?
おそらく「高輪ゲートウェイ駅」という駅名を考えた人は、こうした歴史的意味合いを鑑(かんが)みてこのような名前を考えられたのだろうと思います。

また、高輪ゲートウェイ駅は2020年の東京オリンピックに合わせて開業したものとも言われ、国立競技場の設計で有名な隈研吾(くま けんご)さんの設計で知られています。

高輪ゲートウェイ駅を降りてから西へ数百メートル行くと、赤穂義士(あこうぎし)の菩提寺(ぼだいじ)である泉岳寺(せんがくじ)に着きます。

赤穂義士(あこうぎし)とは、現在の兵庫県赤穂市にて仕えていた大石良雄(おおいし よしお)をはじめとする47人の武士のことです。

赤穂事件(あこうじけん)について解説すると難しいのですが、簡単にいうと当時の赤穂藩で一番エラい人(藩主)である浅野長矩(あさの ながのり)が、何らかの理由(諸説あり)で吉良上野介(きら こうずけのすけ)を切りつけ、その報復として浅野長矩が切腹に追い込まれた、という事件です。
さらにその後、自分たちのボスを殺された大石良雄(おおいし よしお)率いる47人の武士たちが、吉良上野介を敗北に追い込み、仇討ち(かたきうち)を果たしたという事件です。

忠臣蔵(ちゅうしんぐら)」という物語の元になった事件でもあります。

この時、仇討ちを果たした47人の武士を「赤穂浪士(あこうろうし)」「赤穂義士(あこうぎし)」のようにいいます。

なぜ浅野長矩が切腹させられたのかは、諸説あり原因はわかっていないそうです。様々な政治的な妨害工作のためもあるでしょうし、また赤穂市は塩田(塩を作る場所)が盛んでしたから塩田の生産量がよくなかったから、など色々と言われているそうです。この辺りは歴史に詳しい人の間で意見が分かれるので、これ以上深追いは避けるようにします。

高輪の泉岳寺は、こうした47人の武士の菩提寺(ぼだいじ。一家一族で主にお世話になっているお寺のこと)だったため、ここにお墓が作られたようです。

歌詞にある「千載(せんざい)」とは千年という意味であり、転じて「長い年月」という意味になると思います。したがって、歌詞は千年経った後もその姿は残り続けるだろう、という意味になるでしょう。

大石良雄率いる47人の武士たちは、主君である浅野長矩が切腹に追い込まれた後、吉良上野介に対する復讐を企てます。
その密かな隠れ家として選ばれたのが、京都の山科(やましな)です。山科とは、京都市街地と、滋賀県大津市・琵琶湖の間に挟まれた盆地にある街(現在の京都市山科区)です。
なぜ山科が選ばれたのかというと、交通の利便性の良さが挙げられます。
鉄道唱歌東海道編第45番でも、大石良雄らが山科に隠れ家を構えていたことを歌っていますね。

その一年後、大石良雄率いる赤穂浪士は、東京都墨田区にある両国(りょうごく)にあら吉良上野介の邸宅(吉良邸)に討ち入りを行い、見事に仇討ちを果たします。

次は、品川駅に止まります!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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