鉄道唱歌 東海道編 第8番 源頼朝の墓 源頼朝とはどんな人物だったのか

まずは原文から!

こゝに開きし頼朝(よりとも)が
幕府(ばくふ)のあとは何(いず)かたぞ
松風(まつかぜ)さむく日は暮れて
こたへぬ石碑(せきひ)は苔(こけ)あをし

さらに読みやすく!

ここに開きし頼朝(よりとも)が
幕府(ばくふ)のあとは何(いず)かたぞ
松風(まつかぜ)さむく(寒く)日は暮れて
こたえぬ(応えぬ)石碑(せきひ)は苔(こけ)あおし(青し)

さあ、歌ってみよう!

♪こーこにひらきし よりともがー
♪ばくふのあとはー いずかたぞー
♪まつかぜさーむく ひはくれてー
♪こたえぬせきひは こけあおしー

(東海道線)
新橋駅→高輪ゲートウェイ駅→品川駅→大森駅→川崎駅→鶴見駅→東神奈川駅→横浜駅→大船駅→藤沢駅→大磯駅→国府津駅(→小田原駅・熱海駅)

(横須賀線)
大船駅→鎌倉駅→逗子駅→横須賀駅→久里浜駅

※鉄道唱歌に関係ある主要駅のみ抜粋(便宜上、ターミナル駅等も表記)
※鉄道唱歌の当時の「神奈川駅」と、現在の「東神奈川駅」は別の駅
※小田原駅・熱海駅は鉄道唱歌の当時のルートには含まれない

源頼朝の墓 鎌倉にひっそりと眠る

前回解説した鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の北東数百メートルの地点には、源頼朝の墓があります。

源頼朝の墓(神奈川県鎌倉市)

歌詞の意味としては、

ここ(鎌倉)に開いた頼朝の、
幕府の跡はこの辺りなんだろうか。
松風が寒く吹きつけ、日はもう暮れ果てる。

(幕府が何処にあったのかを)応えることのない石碑は、苔(こけ)で青くなっている

など、だいたいこの様な意味となります。

石碑とは源頼朝の墓のことであり、「苔(こけ)で青い」というのはそれだけ長い年月があったことを示します。

鎌倉幕府を開いた、源頼朝

源頼朝(みなもとの よりとも)は、言うまでもなく鎌倉幕府を開き、1192年に征夷大将軍に就任した人物です。

若い頃に平氏に敗れ、20年間を伊豆で過ごした頼朝

源頼朝は、まだ10代の頃の1160年に起きた「平治の乱(へいじのらん)」において平氏との戦いに敗れてしまい、伊豆半島の「蛭ヶ小島(ひるがこじま)」という場所に流されてしまいます。
蛭ヶ小島の最寄駅は、伊豆箱根鉄道(いずはこねてつどう)駿豆線(すんずせん)の韮山駅(にらやまえき、静岡県伊豆の国市)になります。

静岡県伊豆の国市・蛭ヶ小島の、富士山を向く源頼朝と北条政子の像

伊豆・蛭ヶ小島については、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

【静岡】伊豆・三島の旅 源頼朝ゆかりの地をめぐる

なお「島」という地名ですが、あくまで陸地(平野部)になります。
なぜ「島」がつく名前になっているかというと、当時は川と川に囲まれた場所だったからだそうです。昔は、川と川に囲まれた土地を「島」と呼んでいたのです。しかし現在は地形が変わってしまい、その川は存在しないようです。また、その川のうちの1つが、現在も伊豆の国市を流れる狩野川(かのがわ)だったとも言われます。なお、狩野川(かのがわ)とは伊豆の国市を北上して左に折り返し、末は静岡県沼津市(ぬまづし)の中心部を流れ、駿河湾に注ぐ川のことです。

伊豆・狩野川(伊豆箱根鉄道・大仁駅の付近より)(静岡県伊豆の国市)

また、なぜ当時は「流罪(るざい)」「島流し」という刑があったのかというと、殺すことよりも敢えて何もない土地に追いやり、惨めさや孤独さを味わせるという、ある意味死ぬよりも残酷な仕打ちだったからでしょう。

しかし、私も静岡県伊豆の国市の蛭ヶ島公園に行きましたが、とても気候のよい場所で、富士山も綺麗な、とてもよい平野でした。冬でも厚着だと暑いくらいに温暖な、とても天気のいい場所です。

源頼朝は、この地で約20年もの期間を過ごします。先ほど述べたように、もしかしたらかえって居心地のよい場所だったのかもしれません。
そして、この蛭ヶ島で後の妻となる北条政子(ほうじょう まさこ)と出会います。
伊豆半島のこの地域は、北条氏の支配下にあった場所でもあったのです。
そして源頼朝は長期間この地域で、平氏との戦いのチャンスを伺っていたともいわれます。

「以仁王の挙兵」で立ち上がり、平氏への反撃を試みる頼朝

そして約20年後の1180年。ついに平氏打倒の機会が訪れます。「以仁王(もちひとおう)の挙兵」です。以仁王は、平氏に不満を持つ全国の源氏に対して挙兵を呼びかけますが、ここでも敗れてしまいます。

神奈川県の真鶴(まなづる)付近で行われた「石橋山の戦い」で敗れた源頼朝は、真鶴半島(まなづるはんとう)から船を出し、海を渡って千葉県の房総半島に向かいます。

源頼朝が上陸した、房総半島・安房勝山駅付近の海(千葉県安房郡鋸南町)

房総半島に上陸した頼朝は、「人を味方につける交渉力」に長けていたため、平氏に不満を持つ武士たちを次々に味方につけ、その勢いは徐々に平氏を圧倒していくようになります。

「富士川の戦い」を経て、どんどん勢いづく源氏

その後、静岡県富士市の富士川で行われた「富士川の戦い」では、平氏軍はたくさんの鳥がバタバタと飛んでいく音に驚いてしまい、源氏が攻めてきたと勘違いして次々に逃げていきました。

富士川(静岡県富士市)

富士川の戦いについては、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

鉄道唱歌 東海道編 第18番 富士山の麓をゆき、源平の戦いの富士川を渡る

源氏軍の勢いにより、ますます劣勢に追い込まれた平氏は、関西地方・中国地方と、西へ西へと逃げていきます。
兵庫県で行われた「一ノ谷の戦い」では弟の源義経(よしつね)の活躍により勝利します。

そして、1185年、山口県下関市の壇ノ浦(だんのうら)で行われた「壇ノ浦の戦い」で敗北し、平氏は滅亡、源氏の勝利に終わりました。

平氏を滅亡させ、弟・義経とも対立

しかしその後、功労者であるはずの源義経と政治的に意見が合わず対立し、源義経は東北地方に逃亡し、当時東北地方で絶大な財を築いていた奥州藤原氏に匿(かくま)われます。

この時点での源頼朝にとって、日本で自分に従わない者は奥州藤原氏だけになっていました。また、奥州藤原氏のもつ巨大な財力を恐れてもいました。

奥州藤原氏を「源義経を匿った敵」という名目で岩手県の平泉(ひらいずみ)を攻めて、約100年間の栄華を誇った奥州藤原氏は滅亡、源義経も衣川館(ころもがわやかた)で自害に追い込まれました。1189年のことです。

奥州藤原氏義経については、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

鉄道唱歌 奥州・磐城編 第33番 平泉に到着! 金色堂、安倍氏、奥州藤原氏など戦いや栄華の歴史

1192年に征蝦大将軍に任命される 鎌倉幕府を開いた頼朝

そして正式に1192年に当時の天皇より征夷大将軍に選ばれました。
そして晩年は1199年に神奈川県の相模川(さがみがわ)にて、馬から転落してしまい、亡くなってしまいました。頼朝が馬から落ちた川、ということで相模川は「馬入川(ばにゅうがわ)」とも呼ばれます。

相模川(神奈川県)

相模川(馬入川)については、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

鉄道唱歌 東海道編 第11番 再び東海道本線に戻り、相模川を渡る 茅ヶ崎・平塚・大磯を行く

源頼朝から学ぶ、成功のための秘訣

源頼朝が成功できた理由は、大きく分けて2つです。

長期間にわたってずっとチャンスを伺って努力し続けたこと
人を味方につける交渉力に長けていたこと

源頼朝は、伊豆に流罪になってから、約20年もの年月をチャンスを伺いながら過ごしています。
この間に武術を学び、鍛え、また人を統率するスキルも磨いていたのでしょう。また、妻・北条政子からの温かいサポートもあったことでしょう。
そして機会が訪れたら、一気に攻めたて、平氏を滅ぼして鎌倉幕府を開くに至ったのです。

「ローマは一日にしてならず」「千里の道も一歩から」という言葉がありますが、何事も最初からうまくいくことは絶対にありえません。
また、今日努力したから明日結果が出る、ということも絶対にありえません
長い年月をかけて地道に取り組んでいくうちに、5年・10年というスパンで取り組めば、やがてうまくいくことは多いものです。

これは仕事でも試合でも試験でも同じことがいえます

「昔うまくいかなかったことが、今だったらうまくいくかも知れない」
ということはよくあります。
例えば、昔強力だったライバルは現在は引退していなくなっている場合もありますし、昔は知識や経験がなくて太刀打ちできなかった資格も、社会経験を積んだ現在ならば合格できる可能性もあります。
昔は金を出さないとビジネス書を買えなかったのが、現在ではYouTuberが星の数ほどビジネスで勝つスキルを公開しているため、誰にでもチャンスのある時代になりました

そして源頼朝は、人を味方をつける交渉力に長けていました。つまり、コミュニケーション能力が非常に高かったということですね。
現在でも、社員からの信頼が高い経営者は尊敬されますよね。

残念ながら私(筆者)は、人を味方につけるのが下手です。これは私にはないスキルであり、源頼朝の凄いところでもあります。

源頼朝は京都に入ったときも巧みなコミュニケーション能力でうまく取りまとめました。
しかし、頼朝のいとこの木曽義仲源義仲)は、戦いをすれば滅茶苦茶強かったのですが、いざ京都に入ると現地の人々とうまくいかず、自己中心的な振る舞いも目立ったといい、トラブル続きで果ては滋賀県の粟津(あわづ)で滅ぼされてしまいます。

義仲については、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

鉄道唱歌 東海道編 第41番 粟津と木曽義仲 朝日将軍と呼ばれた武将の悲劇の最期

私(筆者)も社会人になりたての頃は、学力面や能力面等で自信はあったものの、コミュニケーションが下手で、人をうまく味方につけられず、人間関係がうまくいきませんでした。

私はどちらかというと源頼朝タイプというよりは義仲タイプかもしれません。

源頼朝や義仲をはじめ、過去の人物や過去の出来事に学ぶことは多いと思います。

次回は、鎌倉仏教などについて述べていきます!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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