鉄道唱歌 東海道編 第19番 蒲原・由比・興津・清水の海沿いを行く 

まずは原文から!

世に名も高き興津鯛(おきつだい)
鐘(かね)の音(ね)ひゞく清見寺(せいけんじ)
清水(しみず)につゞく江尻(えじり)より
ゆけば程(ほど)なき久能山(くのうざん)

さらに読みやすく!

世に名も高き興津鯛(おきつだい)
鐘(かね)の音(ね)ひびく(響く)清見寺(せいけんじ)
清水(しみず)につづく(続く)江尻(えじり)より
ゆけば程(ほど)なき久能山(くのうざん)

さあ、歌ってみよう!

♪よになもたーかき おきつだいー
♪かねのねひびくー せいけんじー
♪しみずにつーづく えじりよりー
♪ゆーけばほどなき くのうざんー

(東海道線)
沼津駅→富士駅→富士川駅→興津駅→清水駅→静岡駅→安倍川駅→焼津駅→藤枝駅→島田駅→掛川駅→袋井駅→磐田駅(旧・中泉駅)→天竜川駅→浜松駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ抜粋

富士駅を過ぎると新蒲原駅(しんかんばらえき、静岡県静岡市清水区蒲原)、蒲原駅(んばらえき、静岡県静岡市清水区蒲原)、由比駅(ゆいえき、静岡県静岡市清水区由比)と進んで行きます。

この辺りから徐々に 戦国時代に静岡県あたりを支配していた今川氏や、徳川家康のゆかりの地が多くなってきます。
徳川家康は現在の愛知県岡崎市の出身ですが、幼少期は今川家の人質となっていました(人質とはいっても、そこまで惨めな生活だったわけでなく、むしろある程度は充実した少年時代を送っていたようです)。その時代に静岡県のこのあたりで過ごしていたので、徳川家康にとっては思い入れの深い場所だったとも言えるでしょう。

また、青春18きっぷユーザー初心者の場合は、この区間にくると富士山も後ろに流れてしまい、ここから先もずっと普通列車のみでの過酷な移動となります。しかしこの辺りは東海道線でも珍しい、海のそばを走る、海の見える景色となります。せっかくなので海の景色を楽しんでいきましょう。
また清水に着いた辺りで窓左後ろ側に、再び富士山を眺めることができます。

この辺りには東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)の宿場町蒲原宿(かんばらしゅく)、由比宿(ゆいしゅく)がありました。
そしてこれらの宿場町を通り過ぎると、またまたこれは東海道の難所にさしかかります。
その難所は、山側に薩埵峠(さったとうげ)という峠、さらに海沿いには「親知らず」なる断崖絶壁があります。

薩埵峠(さったとうげ)は交通の難所であることから、逆に言えば防御や敵の侵入を防ぐには適した場所でした。そのため、古代より関所として、また戦いの舞台としてよく使われてきました。
交通の難所ということは、逆に言えば敵の侵入を防ぐために防御に適した場所ということでもありますからね。

薩埵峠で行われてきた戦いとしては、かつて戦国時代に今川氏武田氏が戦った「薩埵峠の戦い」が有名です。
今川氏とは、当時の静岡県あたり(駿河国といいます)を戦国時代に支配していた一族です。
また、武田氏とは当時の山梨県(甲斐国といいます)を支配していた一族のことです。
もし武田氏が薩埵峠を攻略できれば、駿河国の領域を攻めることが可能になります。
逆にいえば、今川氏が薩埵峠で武田氏を食い止められなければ、自身の領域に武田氏の侵入を許してしまうことになります。
当時の武田氏は戦国時代最強と呼ばれた武田信玄(たけだ しんげん)がトップだったこともあり、武田氏の力はあまりも強かったので、今川氏は敗れてしまうのです。
また、それ以前にも今川氏は1560年の「桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)」で織田信長に敗れており、すでに勢いが衰えていました。
この戦いに敗れた後、今川氏は駿府(現在の静岡市)にある今川館(いまがわやかた)に引き返しますが、ここで籠城(ろうじょう)を図るも、武田氏に攻められ滅ぼされてしまうのです。

一方、列車の左側(海側)は「親知らず」という、子供を親が簡単に突き放してしまうほど狭くて苦しい海岸でした。子供が親の顔が見れなくなるほど険しい断崖絶壁なので、「親知らず」というわけです。
また、新潟県の糸魚川(いといがわ)にも「親知らず」という断崖絶壁はあります。これも北陸道の難所で、明治11年の天皇の行幸(「ぎょうこう」、又は「みゆき」)の際にはあまりの険しさに避けられ山側を通られるほどでした。

現在では鉄道は海沿いの(人類の文明によって作られた)線路の上を走っていくので、本当に現在の交通はたやすくなったものです。
逆に言えば、現代の我々は峠道や海岸の断崖絶壁を通る必要性はないのです。
まさに、東海道編第63番でも歌われているように、「人に翼の汽車の恩」です。
しかし、昔の人の旅を偲(しの)びたい場合は旧東海道の薩埵峠を通って行く、という選択肢もありでしょう。スーツさんは自転車で薩埵峠を越えられましたね。
(「親知らず」の断崖絶壁は危険なので通らないでくださいね!)

興津駅(静岡県静岡市清水区)

興津鯛(おきつだい)」は、徳川家康が好んで食べたとされる鯛(たい)です。
それは甘鯛(あまだい)という名のタイの一種であり、徳川家康が死ぬ際に「ああやっぱりもう一度鯛を食べたい」と思ったそうです。

興津駅前の案内板より(静岡県静岡市清水区)

清見寺(せいけんじ)」は、徳川家康が幼少期に今川家に人質に取られていた時代に過ごしていたお寺です。
徳川家康が今川家の人質として「竹千代(たけちよ)」という名前だった時に、このお寺でよくお勉強をされていたようです。
しかし今川家は先ほども述べた通り、1560年の桶狭間の戦いで織田信長にやられてしまい、以降急速に衰退したため、 徳川家康はその後人質から解放され自立しました。

興津宿公園(静岡県静岡市清水区)
興津宿公園(静岡県静岡市清水区)より

興津には、大正時代に内閣総理大臣を務められた西園寺公望(さいおんじ きんもち)の別荘である坐漁荘(ざぎょそう)がありました。
別荘は一般的に、海や山がきれいな 夏は涼しく冬は暖かい場所が選ばれます。
興津というのは、まさに海が近い、風光明媚な景色が綺麗な場所です。したがって 興津は別荘として選ばれるには申し分のない、素敵な場所であったことでしょう。

興津宿公園(静岡県静岡市清水区)より

静岡市清水区(しみずく)は元々は清水市という自治体でした。そして、2003年に静岡市に合併されました。
つまり、今は静岡市の一部になっており清水区となっています。
現在の東海道線清水駅(しみずえき、静岡県静岡市清水区)は、開業当初は「江尻駅(えじりえき)」という名前でした。
清水区はご存知の通り、あの「ちびまる子ちゃん」の舞台となったことで知られます。

清水駅(静岡県静岡市清水区)

なお、静岡弁で有名な言葉に「ずら」という言葉があります。しかしこれは現代ではなかなか使われていないようです。
私が実際に富士宮市で地元の方にお伺いしたのですが、「ずら」という言葉はやはり使われてないようです。60代の方ですら使われてないらしく、本当に高齢でお年を召された方しか使われていないようです。

久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)」は静岡市駿河区にある、徳川家康が自分の死後に自身の遺体をそこに葬るように遺言で指定されていた神社です。
そして実際に、徳川家康の死後、彼の遺体は1年間、久能山東照宮に葬られました。
その後、徳川家康の遺体は栃木県の日光に移され、日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)に祀られています。

清水駅からは、三保の松原(みほのまつばら)方面へバスで向かうことができます。

次は、三保の松原の解説をします!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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