鉄道唱歌 東海道編 第40番 瀬田の唐橋と石山寺 「急がば回れ」の語源、そして源氏物語ゆかりの地

まずは原文から!

瀬田(せた)の長橋(ながはし)横に見て
ゆけば石山(いしやま)觀世音(かんぜおん)
紫式部(むらさきしきぶ)が筆(ふで)のあと
のこすはこゝよ月の夜に

さらに読みやすく!

瀬田(せた)の長橋(ながはし)横に見て
ゆけば石山(いしやま)観世音(かんぜおん)
紫式部(むらさきしきぶ)が筆(ふで)のあと
のこすはここよ月の夜に

さあ、歌ってみよう!

♪せーたのながはし よこにみてー
♪ゆーけばいしやま かんぜおんー
♪むらさきしきぶが ふでのあとー
♪のこすはここよー つきのよにー

(東海道線)
米原駅→彦根駅→能登川駅→近江八幡駅→野洲駅→守山駅→草津駅→南草津駅→瀬田駅→石山駅→大津駅→山科駅→京都駅→山崎駅→高槻駅→茨木駅→吹田駅→新大阪駅→大阪駅→尼崎駅→芦屋駅→三ノ宮駅→神戸駅

※鉄道唱歌に関連する駅と、新快速列車が停車する駅などを表記
※この区間は「琵琶湖線」「京都線」「神戸線」などの愛称あり

草津駅(くさつえき、滋賀県草津市)を過ぎ、南草津駅(みなみくさつえき、滋賀県草津市南草津)も過ぎると、瀬田駅(せたえき、滋賀県大津市)を過ぎてゆきます。

瀬田駅(滋賀県大津市)

そして、琵琶湖から流れる瀬田川(せたがわ)の橋を渡ると、列車の窓の左側には「急がば回れ」の語源のなった「瀬田の唐橋(せたのからはし)」があります。ここは歌詞にある通りですね。
そして、瀬田川を渡ると、滋賀県の県庁所在地である大津市(おおつし)に入ります。

瀬田の唐橋(写真は東海道新幹線の窓からです)
瀬田の唐橋(滋賀県大津市)

前回、近江八景(おうみはっけい)についての概要を少し解説しました。
今回からは、近江八景の合計8つの名所を、順番に観光していくことになります。

近江八景(おうみはっけい)とは、前回も解説しましたが、簡単にいえば大津市をはじめとする琵琶湖周辺の8つの景色の美しい観光名所(と、その情景を現したもの)です。

今回は近江八景の
瀬田の夕照(せたのせきしょう)」
石山の秋月(いしやまのしゅうげつ)」
について解説します。

瀬田の唐橋(せたのからはし)は、滋賀県大津市にある、瀬田川にかかる橋のことです。
瀬田川(せたがわ)とは、琵琶湖から流れ出て、京都府に入ると「宇治川」と名前を変え、大阪府に入って桂川(かつらがわ)・木津川(きづがわ)と合流して淀川(よどがわ)となる川です。

瀬田の唐橋は、「急がば回れ」の語源になった橋です。
「急がば回れ」とは、近くて楽な道を選ぶよりも、敢えて遠回りした方が自身のためになる、という意味の慣用句・ことわざです。

かつて長浜~矢橋(やばせ)~大津~堅田(かただ)といった地域間を移動するには、琵琶湖を船でいった方が早かったのでした。
しかし、船での移動は危険であり、また「比良おろし」という比良山地から吹き付ける強力な風があったため、琵琶湖の水上の移動は危険とも言われていました。
それならば、多少遠回りになっても、瀬田の唐橋で迂回していった方が安全であり確実である、という教訓のものに生まれたのが「急がば回れ」という言葉です。

これは日常生活でも同じことがいえます。

例えば資格取得試験勉強などにおいても、傾向と対策だけ掴んでわずか数週間で受かるのと、不器用ながらも本当に地道に基礎から半年くらいかけて合格するのでは、身につきようや理解度、記憶の定着が全く異なります。
確かに、要領よく準備すれば短期間での合格も可能です。しかし、突貫的に覚えた知識は、忘れるのも早いです。しかし、遠回りでも基礎からじっくり長期間かけて覚えた知識は、記憶の定着度合いが全然違います。

イチロー元野球選手の言葉に、「遠回りこそ最大の近道」というものがあります。
まさにそれを体現しています。「裏技」的なものを求めて近道を探し続けるよりも、遠回りで長期的にじっくり取り組むほうが、トラブルが起きたときや時代の変化があったときにも色んな分野に応用がききます。

かつては瀬田の唐橋を制する者は、天下を制すると言われていました。
瀬田の唐橋は、壬申の乱(じんしんのらん)の戦いの舞台になった場所でもあります。
壬申の乱とは、飛鳥時代の西暦672年に起きた皇族同士の勢力・権力争いによって引き起こされた争いです。

かつて飛鳥時代、奈良の仏教勢力から逃れるために大津に都(みやこ)を移した天智天皇(てんちてんのう)が亡くなられた場合、誰を後継者にするかで問題が起きました。
元々は天智天皇の弟である大海人皇子(おおあまのおうじ)が天皇になる予定でした。
しかし、天智天皇はやはり愛する我が子が可愛かったのか、息子の大友皇子(おおとものおうじ)を天皇にすると言い出したのです。
これでは、本来天皇になるはずだった弟の大海人皇子は怒るに決まっています。

そして天智天皇は崩御(ほうぎょ。亡くなること)となり、大海人皇子は自分をさしおいて天皇になる大友皇子打倒にむけて軍事力の拡張に奔走します。
まず大海人皇子は、奈良県の吉野→三重県の名張(なばり)→三重県の伊賀(いが)→岐阜(美濃)と移動し、次々に多くの兵士を味方につけ、軍備を拡張していきます。
一方、大友皇子はなかなか兵士を味方につけられず、軍備拡張は進まなかったといいます。

やがて岐阜(美濃)に入った大海人皇子は、不破関(ふわのせき。現在の関ヶ原)を越えて、大津にある都(朝廷)方面を目指し突撃します。

これを迎え撃つ朝廷側の大友皇子は、瀬田の唐橋で待ち構え、橋を落として大海人皇子側が攻めてこれないようにしたといいます。
しかし、これは大海人皇子の軍に突破されてしまい、大友皇子は敗北して、自害となりました。

一方、この「壬申の乱」に勝った弟の大海人皇子は、当初の予定通り、無事に天武天皇(てんむてんのう)として即位しました。
その後、都(みやこ)を大津から、再び奈良県の飛鳥(あすか)に戻したようです。

石山駅(滋賀県大津市)

石山寺(いしやまでら)へは、京阪列車(けいはんれっしゃ)比叡山坂本線(ひえいざんさかもとせん)で行くことができます。
石山寺は、紫式部(むらさきしきぶ)によって源氏物語(げんじものがたり)のアイデアが考え出された場所として知られます。
石山寺は奈良時代に聖武天皇の勅願(ちょくがん)により良弁(りょうべん)という僧侶によって建てられました。
勅願(ちょくがん)というのは、天皇による命令のことをいいます。

奈良時代、聖武天皇は人々を疫病や凶作、争いから救うために、全国に国分寺(こくぶんじ)というお寺を建てていました。昔は都道府県ではなく「国」という単位だったので、全国の各国に対してそれぞれ国分寺が建設されていきました。
奈良の大仏で有名な東大寺(とうだいじ)は、そんな全国の国分寺の頂点に位するお寺です。

その東大寺の大仏を造る際に必要な金(ゴールド)が足りなかったため、先ほど述べた僧侶である良弁に対して、奈良の吉野にある金峯山寺(きんぷせんじ)に金がザックザク出るようお祈りをさせたりしました。また石山寺も、そうした金がザックザク出ることを祈って建てられました。
ではなぜ石山の地にお寺を建てたのかというと、良弁の夢に出てきた神様から「石山にお寺を建てよ。そうすれば、金にガッポリ恵まれるであろう」というお告げがあったからだそうです。

すると、東北地方で見事に金がたくさん産出されたそうです。
そのため、石山寺は金運アップにもご利益があるとされています。

石山寺は紫式部(むらさきしきぶ)がその筆の着想を得た場所として知られています。
着想とは、アイデアのことです。石山寺は源氏物語始まりの地とも言われています。
紫式部(むらさきしきぶ)とは、かつての京都に勤めていた女性の詩人です。
もちろん、紫式部の「式部(しきぶ)」とは本名ではなく、あくまで宮中における役職になります。本名は伝わっていません。
紫式部は、あの藤原道長(みちなが)の保護を受けて、小説を書き続けてきました。つまり、予算的な援助を得て小説を書き続けてきたわけです。
現在であればYouTuberやブロガーとして広告収入を得ながら小説を書いたりできますが(ただし稼げるかは本人の努力次第)、一昔前なら出版社に応募して採用されたら出版、という狭き門でした。さらに当時は、宮中に気に入ってもらえなければ小説で食べていけない時代でしたから、現在はよい時代になったものです。
紫式部は、それだけ宮中から(藤原道長から)重宝されていたということです。

源氏物語(げんじものがたり)」は、紫式部による小説であり、光源氏(ひかるげんじ)というイケメン美男子を中心として、それを取り囲む女性たちの恋の物語です。
現代の少女漫画でもそうですが、一人のイケメンを複数の女性が取り囲む(もちろんイケメンの本命は主人公の女の子)、という構図は変わらないようです。
女の子はモテる男が好きでありながら、そのモテ男の本命は自分、という恋愛の構図は今も昔も変わりません。
(ただ、源氏物語ではその恋が叶わなかったという雰囲気もあります)
また、光源氏はイケメンですが、そのモデルは同じくイケメンだった藤原道長だったとも言われています。
紫式部と藤原道長が恋愛関係であったかは定かではありませんが、小説を書くためにかなりの手厚いサポートがあったことはいえるでしょう。
そして、「勇気100%」という曲でお馴染みの「光GENJI」も、言うまでもなくイケメン光源氏が名前の由来です。

そんな源氏物語は、ここ石山寺で書かれました。

歌詞に
紫式部が筆のあと のこすはここよ月の夜に」とありますが、これは
紫式部が源氏物語を書いた場所はここ石山寺である。そう、秋の夜の月が照らすこの場所である。

などのような意味になります。
石山寺は近江八景(おうみはっけい)の「石山の秋月(いしやまのしゅうげつ)」の場所であり、まるで秋の夜の月のとともに紫式部が書いた筆のあとをここ石山寺に残しているんだなあ、などの感慨深い意味となるでしょう。

いかがだったでしょうか。
瀬田の唐橋石山寺は距離的に近いので、セットで観光できます。
皆さんが滋賀県大津市を訪れた際に、「急がば回れ」の舞台と、紫式部の筆の舞台をしみじみと感動するための一助になれば幸いです。

石山駅(滋賀県大津市)

次回は、近江八景の1つ「粟津の晴嵐(あわづのせいらん)」と、この地で無念にも散った旭将軍(あさひしょうぐん)・源義仲(よしなか)についての解説をしていきます!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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