鉄道唱歌 東海道編 第43番 琵琶湖・大津市南西部を観光 堅田・三井寺・唐﨑

鉄道唱歌 東海道編の歌詞(近江八景・堅田の落雁、三井の晩鐘、唐崎の夜雨)について、わかりやすく解説してゆきます!

↓まずは原文から!

堅田かたたにおつるかりがね
たえまにひび三井みいかね
夕ぐれさむき唐崎からさき
松にはあめのかゝるらん

さらに読みやすく!

堅田かたたにおつる かりがね
たえまにひびく 三井みいかね
夕ぐれさむき 唐崎からさき
松にはあめの かかるらん

さらに読みやすく!

♪かたたにおーつる かりがねのー
♪たえまにひびくー みいのかねー
♪ゆうぐれさーむき からさきのー
♪まつにはあめのー かかるらんー
(湖西線)
山科駅→大津京駅→唐﨑駅→比叡山坂本駅→おごと温泉駅→堅田駅→志賀駅→比良駅→近江舞子駅→近江高島駅→近江今津駅→マキノ駅→近江塩津駅

(京阪電鉄石山坂本線)
石山寺駅→唐橋前駅→京阪石山駅→粟津駅→京阪膳所駅→びわ湖浜大津駅→三井寺駅→大津市役所前駅→京阪大津京駅→近江神宮前駅→滋賀里駅→坂本比叡山口駅

※上記は全ての駅でなく、鉄道唱歌に関連する駅及びその他歴史上重要と思われる駅を筆者の独断と偏見で抜粋

今回も「近江八景」の探訪

琵琶湖から眺める比叡山(滋賀県大津市)

琵琶湖から眺める比叡山(滋賀県大津市)

今回の歌詞では、近江八景のうち、最後の三つである

  • 堅田の落雁かただのらくがん
  • 三井の晩鐘みいのばんしょう
  • 唐﨑の夜雨からさきのよさめ

が登場します。

「近江八景」とは?

ここで近江八景おうみはっけいについて改めて説明します。
近江八景とは、滋賀県大津市おおつしおよび琵琶湖びわこを中心とする景色の8つの景勝地、およびその情景をいいます。

鉄道唱歌は、作者である大和田建樹おおわだたけきさんにとって思い入れ深い場所に、多くの歌詞が当てられる傾向があります。
この近江八景についても、そして

  • この後に控えている、長大な京都観光編
  • 九州の太宰府編
  • 奥州・磐城編の「松島あそび
  • 関西・参宮・南海編の「奈良めぐり

などにしても、同じことがいえます。

近江八景の一つ「堅田の落雁」

堅田の落雁かたたのらくがん」というのは、 堅田に落ちる「カリ(雁)」という鳥が美しく舞い下りる風景の様子を言います。
想像したら美しいですよね。

昔は現代のような「インスタ映え」のようなものが無かったため、その代わり「浮世絵うきよえ」などの絵によって、その美しい様が描かれてきました。

かつて琵琶湖の水運で栄えてきた、堅田

堅田かたた(または「かただ」)は、かつてより琵琶湖の交通の要所として栄えてきた町でした。
つまり、琵琶湖を舟で移動する際に、重要な町でした。

滋賀県または近江国おうみのくには、海のない内陸県です。その代わり、琵琶湖という大きな湖があります。
その湖を活用した、舟を使って人や荷物を運ぶ「水運」が、かつてより栄えてきたのです。

現代のように鉄道も航空機も長距離トラックもなかった時代は、船で大量の荷物を運ぶやり方が一番効率が良かったのです。

琵琶湖のルートはショートカットだが、危険もあった 「急がば回れ」

そして、米原・長浜方面から大津・堅田方面へ移動するには、琵琶湖で船を使った方がショートカットになります。

しかし、琵琶湖の海上(湖上)は天気によって安全が大きく左右され、また「比良おろし」という、比良山地ひらさんちから舞い下りる強くて冷たい風が吹きます。
そのため、遠回りでも陸路と「瀬田の唐橋」を通った方が安全だったケースもありました。まさに「急がば回れ」ですね。

明治時代に鉄道ができ、琵琶湖の水運は衰退

話がややズレましたが、堅田かたたは、

  • 大津
  • 矢橋やばせ
  • 長浜(滋賀県長浜市)

などと同じように、水運の拠点として、かつてより栄えた街でした。

明治時代に入って鉄道が引かれてからは、その(貨物輸送などの)役割は鉄道の陸運に譲ってしまいました
しかし、現在でも大津港では遊覧船などで観光客を集めており、琵琶湖観光船琵琶湖汽船)で、琵琶湖を周遊することができます。

近江八景の一つ「三井の晩鐘」

三井の晩鐘みいのばんしょう」は、近江八景の一つで、三井寺みいでらつまり園城寺おんじょうじに鳴り響く鐘のことを言います。

晩鐘ばんしょうとは、夕方に鐘をつくならすことです。

夕暮れに響く三井寺の鐘の音って、なんだか想像するだけで「ほっこり」して風情ふぜいあると思いませんか?

与太王によって建立された、三井寺

園城寺おんじょうじつまり三井寺みいでらは、 滋賀県大津市にあるお寺です。

三井寺は、飛鳥時代の西暦672年におきた「壬申の乱」にて破れた大友皇子の息子さんだった与多王よたのおおきみによって建てられたお寺です。

「壬申の乱」とは?

ここで「壬申の乱じんしんのらん」とは、飛鳥時代に大津にみやこを築いていた天智天皇てんちてんのう崩御ほうぎょ(亡くなられること)された際に、後継者の天皇を誰にするかで争われた戦いです。

当初は天皇の弟であった大海人皇子おおあまのおうじが天皇になるはずでした。
しかし、天智天皇が亡くなる直前になって、息子の大友皇子おおとものおうじを天皇にすることに方針を変更してしまったのでした。
これを不服とした大海人皇子が、大友皇子に戦いを仕掛けることになりました。

ここに「壬申の乱」が始まり、瀬田の唐橋において両者の軍は激突します。

大海人皇子が勝利、大友皇子は敗れる

結果として、敗北した大友皇子は自害となりました。
戦いに勝った大海人皇子は、当初の決まり通りに天武天皇てんむてんのうとして即位されました。

三井寺は、この壬申の乱に敗北して自害となった大友皇子の魂をとむらうため、息子の与多王よたのおおきみによって建てられました。

天武天皇から、「園城寺」の名前を賜る

また、壬申の乱のときはあくまで敵同士で戦った天武天皇からも、三井寺は正式に公認されたといいます。そして天武天皇じきじきに「園城寺」の名前をたまわりました。
なぜ園城寺という名前を天皇から賜ることになったのかについては、与多王が父のことを想い、自らの荘園をなげうってまで建てた精神に対して、天武天皇が感銘を受けたからだといいます。

この時代には、何度も都は遷された

また、天武天皇のように、かつては敵として戦った相手でも、自分の権力のためにやむを得ず死なせてしまった人物に対しては、鎮魂の意味でお寺を建てるということは、よくあることでした。

天武天皇はそれまで大津にあったみやこを、その後に奈良県の飛鳥あすかに再び戻しています。

昔は今以上に死者の「恨み」や「祟り」などを恐れていました
そのため、自分の権力ために犠牲になった大友皇子の「恨み」や「祟り」などにより、飛鳥の都に天変地異や疫病の蔓延が起こることだけは回避したかったのかもしれません。

近江八景の一つ「唐崎の夜雨」

唐崎に降り注ぐ、切ない雨

唐崎の夜雨からさきのやう」とは、近江八景の一つであり、滋賀県大津市の唐崎からさきに降り注ぐ雨のことを言います。

夜雨とは?

ここで「夜雨やう(または、「よさめ」)」とは、読んで字のごとく、夕方や夜に降り注ぐ雨のことをいいます。
夕暮れ時に降り注ぐ雨って、なんだか寂しげで切ないですよね。現代でも、失恋系の曲の歌詞に登場しそうです。

近江八景「唐崎の夜雨」(滋賀県大津市)

近江八景「唐崎の夜雨」(滋賀県大津市)

「唐崎の松」

唐﨑の松からさきのまつは、石川県金沢市の兼六園けんろくえんにも、その種から生まれた松の木が植えられています。

唐崎に存在する「浮御堂満月寺」

唐﨑には、松尾芭蕉にも愛されたという「浮御堂満月寺うきみどうまんげつじ」があります。

松尾芭蕉は、江戸時代に「野ざらし紀行」という、伊勢・近江・関西地方を巡る旅を行っており、唐﨑にも訪れたときに歌をんだそうです。

湖西線・唐崎駅(滋賀県大津市)

湖西線・唐崎駅(滋賀県大津市)

ここまでで、鉄道唱歌の「近江八景」の旅は終わりとなります

次は、大津京・逢坂山の話題へ

次は、近江大津宮おうみおおつのみやについて解説します!

ちゅうい!おわりに

この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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