鉄道唱歌 山陽・九州編 第11番 岡山の後楽園 水戸と金沢と共に知られる三大公園

まずは原文から!

水戸(みと)と金澤(かなざわ)岡山(おかやま)と
天下に三(み)つの公園地(こうえんち)
後樂園(こうらくえん)も見てゆかん
國(くに)へ話のみやげには

さらに読みやすく!

水戸(みと)と金沢(かなざわ)岡山(おかやま)と
天下に三(み)つの公園地(こうえんち)
後楽園(こうらくえん)も見てゆかん
国へ話のみやげには

さあ、歌ってみよう!

(山陽本線)
神戸駅→兵庫駅→鷹取駅→須磨駅→舞子駅→明石駅→加古川駅→姫路駅→相生駅(旧・那波駅)→岡山駅→倉敷駅→福山駅→尾道駅→糸崎駅→三原駅→海田市駅→広島駅→西広島駅(旧・己斐駅)→五日市駅→宮島口駅→岩国駅→柳井駅→徳山駅→防府駅(旧・三田尻駅)

※鉄道唱歌に関係ある主要駅のみ表記
※鉄道唱歌のできた当時(1900年)は、防府駅(旧・三田尻駅)から先は開通していなかったため、徳山港から船で門司(九州)へ

後楽園は(こうらくえん)は、岡山市を代表する大きな庭園です。
後楽園と岡山城は隣接しているため、セットで観光することを示します

岡山の後楽園は、石川県金沢市兼六園(けんろくえん)、茨城県水戸市(みとし)の偕楽園(かいらくえん)とともに、日本三大庭園と呼ばれます。

このタイプの公園は、だいたい公園の真ん中に大きな池があって、その池の周りには(やなぎ)や(まつ)などの風流ある美しい木がたくさん植えられています。
そして、池の周りを歩いて回りながら鑑賞して楽しむことが一般的です。
こうした公園のことを回遊式公園(かいゆうしきこうえん)といいます。

岡山はもともと、池田氏(いけだし)という一族のお膝元でありました。
その池田さんが、街中に美しい観賞用の公園がほしいということで、岡山城のそばに造られたのが後楽園ということになります。

なお、「岡山」の由来は、「岡山」という小高い丘岡山城が建てられていたことに由来します。

岡山城(岡山市)

ここで、水戸の「偕楽園」と、金沢の「兼六園」についても少し解説しておきます。

水戸の偕楽園(かいらくえん)は、かつて水戸藩の9代藩主徳川斉昭(なりあき)という方が「みんなで楽しもう」ということで作った、それが「偕楽園」です。
偕楽園とは、みんなで楽しむという意味です。
偕楽園は目の前の千波湖(せんばこ)及び弘道館(こうどうかん)と並んで梅の花の名所とも言われています。

金沢の兼六園(けんろくえん)は、藩主の前田氏が金沢の街中に観賞用の公園を作るという意味で作られた公園です。
兼六園は、公園に必要な美しい要素を6つ兼ね揃えているので、兼六園と言われます。
なお兼六園には、明治時代に金沢から西南戦争に向けて行った人をとむらうための、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の像があります。

岡山藩(おかやまはん)は、関ヶ原の戦いで徳川家康の敵にあたる西軍についたため、江戸時代に幕府から信用されずに冷遇を受ける、いわゆる外様藩(とざまはん)です。

しかも、岡山藩の藩主には、関ヶ原の戦いで東軍の家康側に寝返ったことで有名な小早川秀秋(こばやかわ ひであき)も藩主についています。しかし2年ほどで亡くなっています。
なぜ小早川秀秋が岡山藩を安堵(あんど。分け与えられること)されたのかというと、関ヶ原の戦いの途中で自分たちの仲間に加わり、有益な情報を提供したことが評価されたからです。

ただこの時の小早川秀秋はよかったですが、現代の実社会でこういうことをやると「今回はうちの会社に味方してくれたからいいが、いずれうちの会社に不満を持った途端にまた裏切るのでは?」と会社側からも疑心暗鬼されてしまうので、よくこの時の小早川秀秋は徳川家康から信頼されたなあ、と個人的には思ってしまいます。
(もちろん、みだりに会社にとって健全な企業活動を行うのに必要な情報を正当な理由なく公然と知らしめる行為は、法律違反になります。注意しましょう。「不正競争防止法」など)

話がややズレましたが、その後の岡山藩は、池田氏の一族による支配が江戸時代全般にわたって続きました。
岡山藩は、後楽園の造営のみならず、いわゆる「新田開発(しんでんかいはつ)」などを積極的に行い、これまでにない良質な田んぼをどんどん作っていきました。
なぜかというと、簡単に言えば税収アップのためです。税収といっても、当時はいわゆる米による「年貢(ねんぐ)」であり、また「石高(こくだか)」などで表されます。
当時の全国の藩は、大名同士でこの石高の量を競い合い、特に向上心ある意欲的な大名はどんどん新田開発や農業の効率化に取り組みました。
もっとも石高の高かったのは、加賀百万石(かがひゃくまんごく)と言われた、金沢(かなざわ)の前田氏(まえだし)の約103万石です。
そして、薩摩の島津氏(しまづし)の約75万石、仙台の伊達氏(だてし)の約62万石と続きます。

また、現在の山形県米沢市(よねざわし)にあたる米沢藩も、上杉鷹山(うえすぎようざん)公のもと、それまでの常識をくつがえすように、農民ならず武士にも農業のノウハウを教えるなどして、農業を発展させ藩の税収を上げる努力をしてきました。

また、仙台藩も伊達氏(だてし)の主導のもと、仙台で採れた大量のお米は、江戸時代にできた「東廻り航路」を使って、太平洋側の海を通って江戸の街で大量に消費され、仙台藩は大きな利益を上げていました。
この当時は「東廻り航路」「西廻り航路」など海を使った貨物輸送が発展したため、自分の領地だけでなく他の地域により多く販売する(販路を拡大する)ことが(それまでと比べて)容易になっていたのです。
とはいえ、当時は「舟で運んでいる途中に米が海水にさらされてダメになった」などの問題も依然と多かったようです。

さらに江戸時代には、新しい農業の技術が次々に開発され、より効率的に農業ができるようになりました。
岡山では、「備中鍬(びっちゅうぐわ)」が有名ですね。

江戸時代には戦争のない平和な世の中だったため、非常に人口が増えました。人口が増えると、多くの米や食料も必要になります。
そのため、江戸時代には饑饉や自然災害もあったでしょうが、こうした苦難を乗り越えて、現代の我々が安全に、安く、大量にお米を食べられることに繋がっているのです。

もっとも、現代では少子高齢化による農業の後継者不足から、AIやドローンなどを使った農業の自動化・可視化(かしか)や、ITを使った農業の効率化などのノウハウも考え出されています。

だいぶ話がズレてしまい、鉄道旅行や鉄道唱歌の話題とは関係ないこともたくさん話ましたが、少しでも皆さんの「かしこさUP」「教養力アップ」に繋げていただけたならば幸いです。

次は、香川県や瀬戸内海、そして金刀比羅宮についての話題をしていきます!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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