鉄道唱歌 山陽・九州編 第23番 岩国の錦帯橋 そろばんのような、流されない橋とは

まずは原文から!

岩國川(いわくにがわ)の水上(みなかみ)に
かゝれる橋は算盤(そろばん)の
玉(たま)をならべし如(ごと)くにて
錦帶橋(きんたいきょう)と名づけたり

さらに読みやすく!

岩国川(いわくにがわ)の水上(みなかみ)に
かかれる橋は算盤(そろばん)の
玉(たま)をならべし如(ごと)くにて
錦帯橋(きんたいきょう)と名づけたり

さあ、歌ってみよう!

♪いわくにがーわの みなかみにー
♪かかれるはしはー そろばんのー
♪たーまをならべし ごとくにてー
♪きんたいきょうと なづけたりー

(山陽本線)
神戸駅→兵庫駅→鷹取駅→須磨駅→舞子駅→明石駅→加古川駅→姫路駅→相生駅(旧・那波駅)→岡山駅→倉敷駅→福山駅→尾道駅→糸崎駅→三原駅→海田市駅→広島駅→西広島駅(旧・己斐駅)→五日市駅→宮島口駅→岩国駅→柳井駅→徳山駅→防府駅(旧・三田尻駅)

※鉄道唱歌に関係ある主要駅のみ表記
※鉄道唱歌のできた当時(1900年)は、防府駅(旧・三田尻駅)から先は開通していなかったため、徳山港から船で門司(九州)へ

宮島観光を終え、宮島口駅から鉄道旅を再開すると、今度は大竹(おおたけ)方面・岩国(いわくに)方面へ向かっていきます。
大体この辺りまでが広島市の西側の経済的影響範囲の及ぶ範囲であり、また広島市への通勤通学エリアの範囲であると言ってもいいかもしれません。

途中、前空駅(まえぞらえき、広島県廿日市市前空)、大野浦駅(おおのうらえき、広島県廿日市市塩屋)といった駅も通過しますが、このあたりに来ると窓の左にくる宮島がとても美しく感じられます。

やがて、山口県との県境をすぎてゆき、山陽本線における山口県最東端の街である岩国市(いわくにし)の岩国駅(いわくにえき)に到着します。

岩国駅(山口県岩国市)

山口県岩国市(いわくにし)は、山口県で最も広島市に近い場所であり、広島市へのアクセスも比較的よいため、県庁所在地の山口市よりはむしろ広島市と人とのつながりや経済的結びつきが強いともいえます。

山口県岩国市の名所といえば、何といっても錦帯橋(きんたいきょう)です。

錦帯橋(きんたいきょう)は、まるでそろばんの形のような、錦川(にしきがわ)にかかる5段連続アーチの特徴的な形の橋になります。

錦帯橋と錦川。左上は、岩国城
錦帯橋(岩国市)

なぜ錦帯橋そろばんのような5連続アーチのような構造になっているかについてですが、江戸時代の橋は現在のように丈夫で流されない橋が作れなかったので、何度も流されていました。
そのため、当時の岩国藩(いわくにはん)を支配していた吉川氏(きっかわし)によって流されない川を作る工夫として、考え出されたのが錦帯橋の5連続アーチ構造だったのです。
また江戸時代の橋を作る技術では、橋をかけても何度も洪水や大雨などで流されていたので、最初から橋をかけずに「渡し船(わたしぶね)」という方法がよく使われていました。

もちろん現代では、橋を丈夫にするだけではなく、川の流れを緩やかにするためにカーブを少なくしてまっすぐな川の形にしたり、また放水路を用いて、大雨洪水のときは川の水をそちらに逃がして流れの量を調節したりするなど、橋が流されないための仕組みや工夫がたくさん他にもなされています。

また 錦帯橋は「木曽の桟(きそのかけはし)」 と 山梨県大月市(おおつきし)の「猿橋(さるはし)」と共に、「日本三大奇橋」と言われています。

木曽の桟(きそのかけはし)とは、長野県の木曾路(きそじ)にある、いわば江戸時代までの中山道(なかせんどう)における、まだ車も鉄道もなかった時代に、崖っぷちに丸太で打ち込んで、申し訳程度につけられた非常に危険な橋のことです。
木曾の桟は命綱のような蔦(つた)を持って渡っていた危険な橋ですが、現在は鉄道(中央西線)や綺麗な道路ができているため、そんな危険な思いをしながら渡る必要はありません。

猿橋(さるはし)とは、山梨県大月市にある、まるで猿が虹のように渡るかのようにかけられた橋のことです。

またかつて岩国藩を支配していた吉川氏(きっかわし)の居城であった岩国城は、錦川(にしきがわ)が大きく蛇行する横山(よこやま)の頂上にあります。
これは横山の麓(ふもと)を大きくカーブして流れる錦川が、 天然のお堀の役目を果たしてくれるため、防御に優れた地形だからです。

吉川氏(きっかわし)は、あの広島出身のミュージシャン吉川晃司(きっかわ こうじ)さんのご先祖にあたります。
吉川晃司さんのご先祖は毛利元就の次男の吉川元春(きっかわ もとはる)です。
また、その吉川元春の次男が江戸時代に初代岩国藩主になった吉川広家(きっかわ ひろいえ)になります。

また岩国は米軍の岩国飛行場がある場所になります。ではなぜ岩国に米軍基地があるのかというとおそらく、あくまで私の予想ですが、岩国が若干瀬戸内海(せとないかい)から入り組んだ場所にあるという、交通の便がいい意味で悪い場所だからではないでしょうか(←日本語おかしい)。
交通の便が悪いということは、これは逆に言えば防御に優れた地形・場所ということを意味します 。敵が侵入しづらいからです。
つまりこういった入り組んだ地形というのは、かつては水軍とか海賊の拠点になりやすくかったりします。これを「天然の良港(てんねんのりょうこう)」といいます。
延(ひ)いては、明治時代には旧日本軍の基地になりやすく、さらに戦後には米軍との東アジアの平和を守るための共有施設になりやすいのです。

なお余談にはなりますが、私はアメリカ人がフレンドリーで大好きなので、東京の福生市や羽村市(横田米軍基地のあるところ)や横須賀(米軍基地があるところ)などの街に行くと、ランニングやウォーキングなどされているアメリカ人(米軍)の方がよく笑顔でフレンドリーに私に挨拶してくれるのでとても大好きです。

また岩国駅は岩徳線(がんとくせん)との分岐駅になります。
岩徳線(がんとくせん)は、その名の通り岩国徳山(とくやま)を真っ直ぐに山側を通って結ぶ路線です。
山陽本線は海側を南に大きく迂回する経路であるため、(あくまで)距離的には岩徳線の方が近くなります。
しかしながら、後述するようにダイヤ制約上や本数などの問題から、現実的には岩国~徳山間の移動は山陽本線の方が速かったりします。

岩徳線(がんとくせん)は現在の山陽本線よりもやや後にできた時代の路線であり、また先述の通り、かつての山陽道(さんようどう)、またの名を西国街道(さいこくかいどう)に沿った山沿いのルートであります。
なぜ岩徳線ができたのかについては調べてもわからなかったので、これはあくまで私の予想ですが、以下がもしかしたらそうなるかもしれません。

「明治時代に岩国~徳山間で山陽線の鉄道を引こうとする際に、かつての山陽道沿いに線路を建設すると勾配がきつくなるたるため、また当時の列車は坂道に弱く、また長大なトンネルを作る技術も現代ほど無かったため、山側を避けて少々遠回りになるが海側のルートを選択した。また、柳井(やない)という港町を経由するため、柳井の海産物を鉄道による貨物輸送で大きな利益を上げる効果も期待できた。しかし、山陽線を海側に建設したことでかつての山陽道の宿場町が衰退するリスクがあったため、それを回避・救済する目的で、現代の岩徳線が作られた。」

これはあくまで全国の他の地域の事例を元に予想したものです。
しかし、私が他の詳しい方に上記の内容を説明されたら、「ふーん、なるほどな」と腑(ふ)に落ちます。
地元の事情に詳しい方、上記の私の予想がどれだけ当たってるか、是非採点してください(笑)

話を戻しますが、先述のように岩徳線は、海側を通り大きく迂回する山陽本線のルートに比べて、山側を通るために、勾配がきつくトンネルがやや多いルートになります。
ややショートカットにはなりますが、実際に岩国~徳山間を速く着く(移動する)ことはないようです(昔のダイヤではあったようです)。
ただ、岩徳線は沿線人口の少なさや、 岩国~徳山間のショートカット路線としての役割を事実上果たしていないことから、 廃止の議論も度々されされており、赤字の額も結構な額(約5億円)にのぼるとされています。

岩国駅から山陽本線に乗って南へ進むと、南岩国駅(みなみいわくにえき)、 藤生駅(ふじゅうえき) 、通津駅(つづえき)、 由宇駅(ゆうえき) 、神代駅(こうじろえき)、 大畠駅(おおばたけえき) というふうに進んでいきます。
このあたりは、窓の左側に美しい瀬戸内海の景色が見えます。
海のはるか向こう側は、愛媛県の松山市(まつやまし)や今治市(いまばりし)のあたりになります。
また、屋代島(やしろじま)の景色も近づいてきて雄大です。

ほどなくして、列車は間もなく柳井(やない)に着きます!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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