鉄道唱歌 山陽・九州編 第25番 防府に到着!当時の山陽線の終わり そして菅原道真公のあと

まずは原文から!

出船(でぶね)入船(いりぶね)たえまなき
商業繁華(しょうぎょうはんか)の三田尻(みたじり)は
山陽線路(さんようせんろ)のをはりにて
馬關(ばかん)に延(の)ばす汽車(きしゃ)のみち

さらに読みやすく!

出船(でぶね)入船(いりぶね)たえまなき
商業繁華(しょうぎょうはんか)の三田尻(みたじり)は
山陽線路(さんようせんろ)のおわり(終わり)にて
馬関(ばかん)に延(の)ばす汽車(きしゃ)のみち

さあ、歌ってみよう!

♪でーぶねいりぶね たえまなきー
♪しょうぎょうらんかの みたじりはー
♪さんようせんろの おわりにてー
♪ばかんにのーばす きしゃのみち

(山陽本線)
神戸駅→兵庫駅→鷹取駅→須磨駅→舞子駅→明石駅→加古川駅→姫路駅→相生駅(旧・那波駅)→岡山駅→倉敷駅→福山駅→尾道駅→糸崎駅→三原駅→海田市駅→広島駅→西広島駅(旧・己斐駅)→五日市駅→宮島口駅→岩国駅→柳井駅→徳山駅→防府駅(旧・三田尻駅)

※鉄道唱歌に関係ある主要駅のみ表記
※鉄道唱歌のできた当時(1900年)は、防府駅(旧・三田尻駅)から先は開通していなかったため、徳山港から船で門司(九州)へ

防府駅(防府市)に到着

かつては「三田尻」と呼ばれていた

歌詞二行目にある三田尻(みたじり)とは、防府(ほうふ)、つまり現在の山口県防府市(ほうふし)のことをいいます。

防府駅(旧・三田尻駅)(山口県防府市)

防府駅(ほうふえき、山口県防府市)は、明治時代の1898年の開業当時は三田尻駅(みたじりえき)といっていました。

かつて周防国の国府があった、防府

防府(ほうふ)の由来はかつて周防国(すおうのくに)の国府(こくふ)があったことに由来します。

「周防国」とは

周防国(すおうのくに)は、現在の山口県の東部のエリアをいいます。

これは奈良時代の律令制(りつりょうせい)における、現代でいう都道府県のようなエリア分けのことをいいます。

周防国の領域

周防国(すおうのくに)の領域には、主に

  • 岩国市(いわくにし)
  • 柳井市(やないし)
  • 光市(ひかりし)
  • 周南市(しゅうなんし)
  • 防府市(ほうふし)
  • 山口市(やまぐちし)※一部を除く

などの地域が含まれます。

「国」「国府」とは

(くに)とは、先述の通り、現在の都道府県にあたる、日本古代からのエリア分けをいいます。

国府(こくふ)とは、現代でいうところの都道府県庁のようなものであり、その国の政治の中心機関となった場所です。

菅原道真公にゆかりある、防府天満宮

あらぬ罪を着せられ、大宰府へ左遷

防府は、菅原道真(すがわらの みちざね)公にゆかりある防府天満宮(ほうふてんまんぐう)で有名です。

平安時代の西暦900年、あまりにも天才ぶりに嫉妬をかった菅原道真公は、身に覚えのない罪を着せられてしまい、九州・福岡の大宰府(だざいふ)に左遷(させん)となってしまいました。

左遷(させん)とは、罰として不自由かつ不便な場所に飛ばされてしまう仕打ちのことです。

あえて「左遷」という措置となった理由は?

では、なぜ死刑にならずに、流罪(るざい)や左遷(させん)という処置が取られるのか、についてです。
それは、あえて僻地(へきち)で惨めな思いをさせるという、これはこれで残酷な仕打ちになるからでしょう。

ただ、大宰府(だざいふ)は古代から北九州の政治の中心地域でした。
加えて、また現代でも交通の便のいい場所なので、言うほどそこまで不便な場所ではない、と感じます。
もし本当に不便な場所であれば、例えば島流し(しまながし)など、もっと惨めで何もない場所に飛ばされてしまいうわけです。

大宰府については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

菅原道真公も通った、西国街道

菅原道真公は、西国街道(さいこくかいどう)という京都から九州までの街道を通って大宰府に向かいました。

防府天満宮は、菅原道真公が途中で防府に立ち寄ったことに由来します。

「日本最初に創建された天神様」

菅原道真公が大宰府で亡くなったのは西暦903年ですが、防府天満宮はその翌年の、西暦904年に造られたのでした。
そのため、かなり早い段階で創健された神社であるといえます。

したがって、防府天満宮は「日本最初に創建された天神様」というそうです。

天神様」とは、言うまでも無く菅原道真公のことを神様として慕って言う呼び名です。
福岡ならではの繁華街である「天神」の由来も、菅原道真公に由来します。
それは、福岡天神の那珂川(なかがわ)の近くには、水鏡天満宮(すいきょうてんまんぐう)という、同じく菅原道真公を祀(まつ)る神社が存在しているからです。

福岡の天神については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

鉄道唱歌の時代は、歌詞ここ防府駅(三田尻駅)で止まっていた

さて、山陽線の旅は、鉄道唱歌の時代(西暦1900年)には歌詞にあるように、ここ防府駅(当時は三田尻駅)で止まっていました。
防府駅から下関駅まで開通したのは、この少し後の、1901年のことでした。

歌詞最後の「馬関(ばかん)」とは、当時の下関の呼び名です。

ちなみに参考までに、

  • 新山口駅(旧・小郡駅)・厚狭駅までが開業したのは、西暦1900年
  • 翌年の1901年には、下関駅(当時は馬関駅)まで開業

となっています。

話を戻しますが、上記の理由により、鉄道唱歌の旅では、

  • 防府駅(旧・三田尻駅)から一旦徳山港まで戻る
  • そこから船で、北九州の門司(もじ)まで行く

ということになります。

次回は、徳山~門司(九州)への行程になります!

ちゅうい!おわりに

この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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