鉄道唱歌 山陽・九州編 第28番 朝夕問わず関門海峡をゆく船は、玄界灘を渡ってゆく

まずは原文から!

朝(あした)の帆影(ほかげ)夕(ゆう)烟(けむり)
西北(にしきた)さしてゆく船(ふね)は
鳥も飛(と)ばぬと音(おと)にきく
玄界洋(げんかいなだ)やわたるらん

さらに読みやすく!

朝(あした)の帆影(ほかげ)夕(ゆう)煙(けむり)
西北(にしきた)さしてゆく船(ふね)は
鳥も飛(と)ばぬと音(おと)にきく
玄界洋(げんかいなだ)やわたるらん

さあ、歌ってみよう!

♪あしたのほーかげ ゆうけむりー
♪にしきたさしてー ゆくふねはー
♪とーりもとばぬと おとにきくー
♪げんかいなだやー わたるらんー

(現代意訳)
朝に帆を出して夕方に煙を上げる、
関門海峡の西北方向に出ていく船は、
鳥も飛ぶことすらできないと言われるほど大きな海と噂に聞く、
玄界灘を渡っていくのだろうか。

今回も、前回に続いて関門海峡の話題となります。関門海峡とは、山口県下関市と、北九州の門司とを結ぶ、もっとも接近する場所でわずか1kmほどしかない、とても狭い海峡のことです。
なお、関門海峡の名前の由来は「下関」と「門司」に由来します。
でも「関門」というと、まるでゲートみたいですよね。「楽園への関門」みたいな。
実際、関門海峡は日本海側や玄界灘側と、瀬戸内海側と行き来するための関門のようなものです。船が両エリアを往来するのに、他に出入口はないわけですからね。

前置きが長くなりましたが、歌詞の説明に入ります。

「朝(あした)の帆影 夕煙」とありますよね。

ここでいう「あした」とは「朝(morning)」という意味であり 、「tomorrow」という意味ではありません。
古典や古語では、「あした」とは「朝」という意味になります。

つまり、朝の霧でかすむ関門海峡に、帆を進める船がたくさん行き交う、という意味になります。

そして、「夕煙」というのも、単に夕方の煙という意味だけではなく、夕暮れ時の関門海峡を煙を上げながら行き交うたくさんの船のことを言います。

もちろん、それらたくさんの船が関門海峡を行き交う様子は、なにも朝と夕方の時間帯のみに限った話ではありません。
それは、朝も夕方も夜も絶え間なく船が関門海峡を行き交い、やがてそのたくさんの船は「鳥も飛べないほど広大な」玄界灘や日本海側へ向かうのだろう、という意味になります。

関門海峡を出て西北方向へ行くと、福岡県の北側にある海域である玄界灘(げんかいなだ)を行くことになります。

玄界灘(げんかいなだ)は福岡県~佐賀県と対馬(つしま)の間にあたる海域のことですが、「鳥すら飛ぶこともできないほど大きな海」、ということになるでしょう。

では「なぜ玄界灘は鳥も飛べないのか」について様々な角度から色々考えたのですが、よくわかりませんでした(^^;

まず、一般的な鳥は数100kmを飛ぶことができます。(こんなに長く飛べるんですね・・・)
渡り鳥になると、1000km以上も飛ぶことができます。
玄界灘は北は対馬(つしま)にまで達するまでせいぜい100kmであり、途中に壱岐島という休憩スポットもあるので、飛んでいけないことはないと思います。
また対馬海峡は比較的穏やかな海流であり、それと空を飛ぶ鳥とも関係ないようです。

ただ、この「鳥は100kmは普通に飛べる」「渡り鳥は1000km以上は飛べる」「対馬までの距離は約100km」みたいな知識は、現代の我々のノウハウをもってこそ知ることができるのであって、昔の人々はここまで科学的にわかる術もないわけです。
昔の人々からすれば、そのような科学的ないし客観的データはないわけで、海も島も鳥もみな得体の知れない自然現象なわけです。加えて、玄界灘は壱岐島・対馬・朝鮮半島、延いては大陸との海運の拠点であり、現代と比較したら海上の気象予測もままならず、いつ嵐に襲われるかもしれない危険な航海は常に覚悟の上だったと思います(894年まで続いた遣唐使も、航海の危険を理由に廃止されています)。
それだけ危険で未知数な航海をしていた昔の人にとって、玄界灘は「鳥も飛ぶことができないほど大きな海だ」という印象を持たれてしまったのかもしれません。

また、前回も少し話しましたが、一旦開門海峡を左に(西に)出てしまうと、 次は青森県の津軽海峡に到達するまで太平洋側に出てくることはできません。
つまり、琵琶湖で福井方面から三重県まで結ばれなかったってことになります。

玄界灘(げんかいなど)とは、福岡県と佐賀県の北側にある海のことを言います。
玄界灘はかつては北九州における外国との入り口であり 、また外国からの戦争などに備えた防衛の拠点でもあった場所でもあります。

外国からみた玄関口であるということは、ほぼイコールで最初に外国から最も攻められやすい場所でもあるわけです。
なので、大宰府(だざいふ)のように、外国の身分の高い方々をもてなす設備が必要だったり、それと同時にある程度の防御力を備えたお城や柵などの防御施設、それに見合う自然の地形(入り組んだ地形や、海から離れたやや内陸部の立地など)が求められるわけです。

玄界灘は太古の昔には早速、大陸との交易がおったかのような証拠として、「漢奴倭国王(かんのなのわのこくおう)」と書かれた金印(きんいん)が見つかった場所があります。
これが見つかったのは、志賀島(しがのしま)という、福岡市のやや北にある島になります。江戸時代に、たまたま農業で耕していた方が偶然掘り起こしたそうです。

また、先ほども述べたように福岡の太宰府市には大宰府(だざいふ)という政庁(政治を行う偉い人達が働く場所)があり、ここで外国からやってきた身分の高い方々や貴賓(きひん)の方々のおもてなしをするなどの役割を果たしました。こうした場所には、それなりに設備投資をして予算をかけ、我が国の恥とならないよう豪華な建物や設備などになる傾向にあります。

またさらには、水城(みずき)や大野城(おおのじょう)といった、外国からの攻撃、つまり飛鳥時代の西暦663年に起きた白村江の戦い(はくすんこうのたたかい)から日本を守るために置かれた城などがあります。

また鎌倉時代には、蒙古襲来(もうこしゅうらい)、元寇(げんこう)といって1274年にモンゴル軍の襲来がありました。
その時に真っ先に攻められたのが北九州でした。
北九州にて防衛を固めていたことがわかります。

豊臣秀吉がかつて天下統一した後に、朝鮮出兵といって朝鮮半島に向けて軍備を進めていた時も、この玄界灘を拠点に名護屋城(なごやじょう)が置かれました。
名護屋城(なごやじょう)がなぜ豊臣秀吉によって佐賀県唐津市のこの場所が選ばれたとかというと、秀吉は名古屋の尾張中村(おわりなかむら。現在の名古屋駅あたり)に生まれたことから縁起がいいということで、 名護屋城にしたとも言われています。

玄関灘には、佐賀県の北西部に玄海町(げんかいちょう)という町もあります。

佐賀県唐津市(からつし)は、虹の松原(にじのまつばら)で有名です。この松原は静岡県の三保の松原とともに、また福井県敦賀市の気比の松原とともに、三大松原というふうにも言われています。

福岡県糸島市(いとしま)も、また壱岐島(いきしま)も、かつては大陸との交流や防衛など、北九州の重要拠点としての役割を果たしました。

このように、玄界灘は古代より日本では「外国に最も近い場所」の1つとして、大陸との交流や軍事的にも重要拠点だったことがおわかりいただけたと思います。

それと同時に、玄界灘は「大陸棚」が多く、とてもお魚がたくさん集まるので、漁場としても適していました。
大陸棚(たいりくだな)とは、浅い部分が続く海域のことです。浅い海では太陽の光が届きやすいので、魚のエサとなるプランクトンが増殖しやすく、結果的にお魚もたくさん集まり、玄界灘は漁場として優れてきた場所なのです。

次回も、関門海峡の話題となります!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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