まずは原文から!
世界(せかい)にその名いと高(たか)き
馬關條約(ばかんじょうやく)結(むす)びたる
春帆樓(しゅんぱんろう)の跡(あと)とひて
昔(むかし)しのぶもおもしろや
さらに読みやすく!
世界(せかい)にその名いと高(たか)き
馬関条約(ばかんじょうやく)結(むす)びたる
春帆楼(しゅんぱんろう)の跡(あと)といて
昔(むかし)しのぶもおもしろや
さあ、歌ってみよう!
♪せかいにそーのな いとたかきー
♪ばかんじょうやく むすびたるー
♪しゅんぱんろうの あとといてー
♪むーかししのぶも おもしろやー
(現代意訳)
世界にその名のとても高い、
下関条約(当時は馬関条約)を結ぶこととなった、
春帆楼(しゅんぱんろう)という料亭の跡を探しながら、
当時のことに思いふけるのも趣(おもむき)があるなあ。
山口県下関市(しものせきし)は、 日清戦争の講和条約である下関条約(しものせきじょうやく)が結ばれた場所でもあります。
下関条約(しものせきじょうやく)とは、1894年に起こった日清戦争(にっしんせんそう)で勝った日本が清との間に結んだ条約です。
後述するように、かつて下関は馬関(ばかん)とも呼ばれていたので、馬関条約ともいいます。
この下関条約により、清は日本に対して約3億円の賠償金を支払うことになりました。
当時の日本の国家予算が約2億円でしたから、清が支払った賠償金の金額がいかに高かったかがわかります。
さらに、朝鮮半島の割譲や、リヤオトン半島、台湾など領地を日本に割譲することを決めました。
ここだけ聞くと、まるで戦いに勝ったことで日本は得られるものばかりの良いことずくめに思えます。
しかし、10年後に起こった日露戦争(にちろせんろ)でもロシアと戦って勝ち、賠償金こそ得られなかったものの南樺太の領土を得ることができたため、このせいで日本は「戦争をすれば勝って多くの領地や賠償金を得られる」などという誤ったイメージが日本国民の間に植え付けられてしまいました。
これにより、1930年代ともなると軍部の力(や発言力)が天皇陛下や政治家をも上回ってしまい、軍部が暴走した結果、1931年の満州事変(まんしゅうじへん)や1936年の二・二六事件(に・にろくじけん)、果ては1941年の太平洋戦争(たいへいようせんそう。「大東亜戦争(だいとうあせんそう)」とも)など、イケイケドンドンの暴走となって、日本は1945年に戦争に負けることになるのです。
先ほども述べましたが、この下関条約は馬関条約という風にも言われます。
かつて下関は馬関と言われていました。
それは赤間神宮(あかまじんぐう)にもその名前の残る赤間関(あかまぜき)という関所に由来します。
下関は、非常に入り組んだ地形に加えて日本海と瀬戸内海へ通じる唯一の貴重な海路だったため、防御の拠点となると同時に関所(せきしょ)が置かれていました。
海の通航をするためには関所にお金を払う必要があったので、関所にとっては貴重な収入源ともなるのです。
しかし、その代償として、関所があると人々の自由な往来に支障が出てしまい、経済の流通が阻害されることもあります。
「赤間関(あかまぜき)」の「馬」「関」っていう二文字を取ってら「馬関(ばかん)」となります。
なお、下関市の赤間神宮(あかまじんぐう)は、源平合戦のラストの壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)で、平氏に最期まで守られてきた安徳天皇を祀るための神社です。
安徳天皇は当時まだ幼少であり、三種の神器とともに海に入って崩御(ほうぎょ)されたといいます。
春帆楼(しゅんぱんろう)とは、この下関条約において、清の全権(代表者のこと)と日本の全権(代表者)が講和会議(賠償金や領土割譲など、戦後の日本への処置をどうするかを決める会議)をした場所、料亭のことです。
春帆楼(しゅんぱんろう)は、現代でも経営している豪華で高級な料亭です。東京にも店舗があります。
下関の名物といえばやはり「ふぐ」であり、春帆楼でも高級で豪華なふぐを堪能すること出来ます。
なお、下関ではフグのことを「ふく」という風にいいます。
日清戦争は、かつて1894年に起こった甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)という朝鮮半島で起こった内戦がきっかけで始まりましました。
この甲午農民戦争は、あくまで農民だけの戦いで恥じまった朝鮮半島での戦いであり、最初は清も日本も関係ない内乱でした。
しかしこの農民の反乱があまりにもすごく、朝鮮政府(当時は李氏朝鮮)だけでは手に負えなかったため、やむを得ず清の力を借りることとなりました。
しかし当時の朝鮮半島は、清と日本の両方の間に挟まれたような立ち位置にありました。
ここで清が朝鮮半島を助けたとなれば、日本のメンツは丸潰れです。
これに対して日本が黙ってるはずもなく、日本はついに出兵しました。
これが日清戦争の始まりです。鉄道唱歌の6年前、1894年のことです。
当時の清の艦隊は世界最強と言われていたのですが、日本は近代的な整備を混ぜ、開国から40年。
日本艦隊は軽快な動きで、鈍重な清艦隊に勝利したのです。
1853年のペリー来航、そして後の開国の時点では世界から100年ほど遅れていた日本ですが、わずか40年ほどでその遅れを巻き返し、「眠れる獅子」と恐れられていた清を打ち破ったのでした。
これにより、日本の世界からの評価はグンと上がることになります。
それまでの日本は「アジアの小国」と思われており、欧米諸国に日本人が行くと馬鹿にされたこともあったようでしたが、日清戦争に勝利したことにより日本の世界における地位は一気に向上しました。
逆に、そのアジア小国だったはずの日本に負けてしまった清は、その脆弱ぶりが世界に明るみに出てしまい、その後列強諸国により次々に領土侵略を許してしまうことになるのです。
そして日清戦争に勝利した日本は、山口県下関市の春帆楼(しゅんぱんろう)という料亭こで 講和条約を結ぶことになります。
その結果、当時の3億円という賠償金とリヤオトン半島の割譲、そして台湾などの領地の割譲を認めさせました。
当時の日本の国家予算は2億円でしたから、この賠償金がいかに高かったかがわかります。
しかし、この時の日本の日清戦争の勝利、また 10年後の日露戦争の勝利という、この時の勝利体験は、「戦争をすれば、勝って領土や賠償金が得られる」などという誤った勘違いを国民に植え付けさせ、後に太平洋戦争で負ける結果となるのです。
昭和恐慌(しょうわきょうこう)や満州事変(まんしゅうじへん)などが起こった後の1930年代以降は、天皇陛下の発言力よりも軍部の発言力が上回ってしまいました。
その結果、1923年の関東大震災や1929年の昭和恐慌と呼ばれる大不況、1931年の満州事変で国際的に批判を受けたことなどをきっかけに日本は国際的に危機的状況に陥りました。
そんな窮地の中で国民全体が戦争モードに入ってしまい、「戦争すれば他国に勝って賠償金や資源が多く採れる領土をゲットできて国を立て直せるんじゃない?」などという誤ったムードになってしまいました。
その結果、太平洋戦争で日本が負けて二度と戦争などしないほうがいい、となったのは我々もよく知っている通りです。
戦争だけは絶対にしたくないものです。
さて、鉄道唱歌(山陽・九州編)は第27番~第30番にわたって、関門海峡関連の話題について触れてきましたが、いかがだったでしょうか。
関門海峡は、日本海側・玄界灘と瀬戸内海側を結ぶ交通の重要拠点であり、また本州と九州を結ぶ交通の重要拠点でもあります。それだけに、様々な戦いや争いの舞台ともなってきました。
こうして関門海峡の地理や交通、そして歴史的な出来事に様々な重要な出来事について、皆さんが興味・感心も少しでも持っていただければ幸いです。
次回からは、いよいよ門司より九州編に入ります!
注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
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