まずは原文から!
まもなくきたる赤羽(あかばね)は
品川(しながわ)ゆきの乘替塲(のりかえば)
目白(めじろ)目黒(めぐろ)の不動(ふどう)へも
よれや序(ついで)の道(みち)なれば
さらに読みやすく!
まもなくきたる赤羽(あかばね)は
品川(しながわ)ゆきの乗替場(のりかえば)
目白(めじろ)目黒(めぐろ)の不動(ふどう)へも
よれや序(ついで)の道(みち)なれば
さあ、歌ってみよう!
♪まもなくきーたる あかばねはー
♪しながわゆきのー のりかえばー
♪めーじろめぐろの ふどうへもー
♪よーれやついでの みちなればー
(東北本線)
上野駅→田端駅→王子駅→赤羽駅→蕨駅→浦和駅→大宮駅
(高崎線)
上尾駅→桶川駅→鴻巣駅→吹上駅→熊谷駅→深谷駅→本庄駅→神保原駅→新町駅→倉賀野駅→高崎駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
王子を出て、赤羽に到着
王子駅(おうじえき、東京都北区)をさらに北上すると、東北本線としては東京都の北限であり、また埼京線(さいきょうせん)との分岐駅である赤羽駅(あかばねえき)に到着します。

赤羽駅は、東北本線では東京都最北端でとなります。
また、荒川(あらかわ)を越えると埼玉県に入りますが、緯度的には東京都23区では日暮里・舎人(とねり)ライナーの見沼代親水公園駅(みぬまだいしんすいこうえんえき)の方が北となります。
かつて目白・目黒・品川へのメインルートだった赤羽駅
かつて赤羽駅は、歌詞にある通り品川方面、つまり
- 目白(めじろ)
- 目黒(めぐろ)
方面への分かれ道でもありました。
当時はまだ、
- 駒込(こまごめ)
- 巣鴨(すがも)
- 大塚(おおつか)
方面、つまり山手線(やまのてせん)の路線が無かったので、いわゆる「環状線」という感じではなかったのです。
現代のように山手線が環状となったのは、鉄道唱歌より3年後の1903年のことです。
赤羽(あかばね)という名前は、関東ローム層の土から出来た赤い埴輪(あかいはにわ)から生まれました。
ただしこれには諸説あり、赤羽はアイヌ語由来という説もあります。
北海道のみならず、東日本や東北地方になると「アイヌ語由来なのでは?」とされる地名は、結構多いです。
目黒の不動尊「瀧泉寺」
目黒区にある不動尊は、瀧泉寺(りゅうせんじ)といいます。
目黒の不動尊は、以下のような伝説が伝わります。
かつて、慈覚大使(じかくたいし)・円仁(えんにん)という、下野国(しもつけのくに:栃木県)出身の僧侶がいました。
その慈覚大使・円仁が、近江国(おうみのくに:滋賀県)にある比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の、伝教大師(でんきょうだいし)・最澄(さいちょう)の元に行く途中でした。
慈覚大使(じかくだいし)・円仁(えんにん)とは、現在の栃木県出身の平安時代の僧侶です。
- 宮城県・松島にある「瑞巌寺(ずいがんじ)」
- 山形県の「立石寺(りっしゃくじ)」
といった寺院を建てた僧侶としても知られます。
伝教大師(でんきょうだいし)・最澄(さいちょう)とは、比叡山延暦寺を建てて、天台宗(てんだいしゅう)という宗派を開いた僧侶です。
伝教大師・最澄は、唐(当時の中国の王朝)に海を越えて渡り、当時としては最新の仏教を学んで日本に持ち帰り、比叡山延暦寺を開きました。
比叡山延暦寺は、先述の円仁を始め、多くの偉大な僧侶を輩出したことで知られます。
その円仁が、比叡山延暦寺へ向かう途中、目黒のこの地域に立ち寄りました。
その時、円仁の夢の中に、不動尊(ふどうそん)という、それは見た目は怖い(けど優しい)神様が登場し、円仁に対して以下のように伝えました。
「我をこの地(目黒)にて崇拝せよ。さもすれば、お主を幸せでハッピーな方向・人生に導くであろう。」
円仁が恐怖でハッと目が覚めたとき、その恐ろしい(けど慈悲深く優しい)神様のお姿を、彼の記憶を元に造ったのが、本尊(ほんぞん)の不動尊像になります。
そして、円仁はこの地域に堂宇(どうう。ここでは「お寺」のこと)を建立しようとしました。
そして円仁が獨鈷(どっこ)というアイテムを投げると、なんと泉(いずみ)が滝のように湧き出たといいます。
それが瀧泉寺(りゅうせんじ)の名前の由来です。
獨鈷(どっこ)とは、仏教(密教)における、煩悩(ぼんのう)を捨て去るためのアイテムのことです。
「煩悩(ぼんのう)」とは、例えば、
- 「あー女の子にモテてえ~」
- 「あー金持ちになりてえ~」
- 「あーあれもこれも欲しいなあ~」
みたいな、人々を不幸せや欲求不満などに導くような本能のことです。
人間はこうした煩悩や物欲(ぶつよく)に支配されると、常に欲求不満と満たされない感覚に支配され、不幸になりやすくなります。
すると、常に他人と比較してしまい、落ち込んだり、また他人の失敗や不幸を喜んだりするようになるのです。
逆にいえば、
「我々は毎日食べるものがあって、住む場所があって、寝る場所があればいいじゃないか。それだけで幸せじゃないか。」
と、最低限の幸せに満足できることに気付けば(悟れば)、煩悩から解き放たれる、といった感じの考え方です。
いわゆる「足るを知る(たるをしる)」の精神であり、「マズローの欲求段階説」みたいな考え方ですね。
他にも存在 江戸五色不動尊
また、不動尊は「目黒(めぐろ)」の他にも、
- 「目白(めじろ)」
- 「目青(めあお)」
- 「目黄(めき)」
- 「目赤(めあか)」
の五つの色の不動尊が存在し、江戸五色不動尊(ごしきふどう)と呼ばれます。
このうち、「目黒」と「目白」は山手線の駅名になっています。
山手線で唯一他の乗り入れ路線がない、目白駅
目白駅(めじろえき)は、新大久保駅(しんおおくぼえき)と並んで、東京メトロや他社の鉄道路線との乗り換えがない、単独駅となります。
また、皇族の方々への教育を目的として明治時代に建てられた学習院大学(がくしゅういんだいがく)も目白駅近くにあります。
(1877年当時の名称は「学習院」。現在の名称になったのは1949年から。)
東北新幹線の騒音不満緩和のために作られた「埼京線」
話を赤羽駅に戻します。
赤羽駅からは、東北本線の他に埼京線(さいきょうせん)が分岐しています。
埼玉県における東北新幹線の建設は、騒音などの問題から反対されていました。
元々は上野~大宮間の区間は地下に建設するつもりだったのですが、地盤や予算などの問題で実現しませんでした。
地下に建設することは不可能となったので、やむをえず現代のような高架方式(こうかほうしき)で建設されることとなりました。
しかし、高架方式は埼玉県の沿線の住民から猛反対に遭ってしまいました。それは騒音を懸念する声が多かったからです。
建設を許可・賛成してもらう条件として、
「通勤ラッシュを緩和するため、新たな路線、つまり埼京線を建設すること」
というアイデアが住民に対して提案されたのでした。
これならば、住民にとってもメリットが生まれます。
高度経済成長期の東京はとにかく人口が爆発的に増大し、それに従って東京~埼玉間の通勤ラッシュも甚大なものになっていました。
それを少しでも緩和するため、埼京線が造られました。
これによって東北新幹線の建設反対運動もなくなり、平和的に現代に至るわけです。
赤羽駅を過ぎると、荒川(あらかわ)を渡り、次は埼玉県に入っていきます!
ちゅうい!おわりに
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
この記事が良いと思った方は、よかったら次の記事・前回の記事も見てくださいね!
コメント