鉄道唱歌 北陸編の歌詞を、わかりやすく解説してゆきます!
川中島の観光・歴史について、初心者の方にもやさしく解説してゆきます!
↓まずは原文から!
いどみし二人の英雄も
おもへば今は夢のあと
むせぶは水の聲ばかり
さらに読みやすく!
いどみし二人の 英雄も
おもえば今は 夢のあと
むせぶは水の声ばかり
さあ、歌ってみよう!
♪いどみしふたりの えいゆうもー
♪おもえばいーまは ゆめのあとー
♪むせぶはみずのー こえばかりー
軽井沢駅→信濃追分駅→御代田駅→小諸駅→大屋駅→上田駅→坂城駅→千曲駅→屋代駅→篠ノ井駅
(信越本線)
篠ノ井駅→川中島駅→長野駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
「川中島古戦場」の舞台となった、川中島へ
前回も解説しましたが、長野県を流れる
- 「千曲川」
- 「犀川」
に囲まれた間の土地のことを「川中島」といいます。
昔は、川と川に挟まれた土地のことを「島」と呼んでいたのです。
そしてここ川中島は、戦国時代に当時の日本で最強といわれた二人の武将が戦った、「川中島の戦い」で知られます。
川中島古戦場へは、JR長野駅より、「松代」行きのバスで約20~30分ほどで着くことができます。

川中島古戦場(長野県長野市)
戦国時代の最強同士が戦った「川中島の戦い」
「川中島の戦い」は、かつて
- 上杉謙信
- 武田信玄
が5回にわたって戦った、一連の争いです。
武田家と上杉家は、日本史においても特に有名なライバル同士であり、お互いに互角で、「川中島の戦い」ではどちらが勝ったのかははっきりせず、現代でも議論が続けられています。
もちろん、武田家としては武田信玄の勝利を主張しますし、上杉家としては上杉謙信の勝利を主張しています。
甲斐国(山梨県)を支配していた、武田信玄
武田信玄は、甲斐国、つまり現在の山梨県甲府市辺りを支配していた武将です。
ただ強いだけでなく、頭も非常に良くて、戦術を巧みに勉強しており、「戦上手」と言われていました。
「戦上手」「風林火山」で知られる、戦いの天才
それは「風林火山」という言葉に良く表れています。
それは
- 「攻めるときは風のように、戦う必要の無いときは下手に(山のように)動かない」
など、現代のスポーツやビジネスでも通用する方針をとっていたともいえます。
織田信長も恐れた、戦国最強の武将
あの織田信長も、武田信玄が生きている間は勝つことはできず、武田信玄は「戦国時代最強の武将」のようにも言われていました。
武田信玄は、赤い甲冑を身にまとっていた武将のイメージが強いです。
武田信玄については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

越後国(新潟県)を支配していた、上杉謙信
上杉謙信は、現在の新潟県(越後国)を支配していた武将です。
新潟県上越市の春日山を本拠地とし、新潟県のヒーローとしてのイメージも強いです。
上杉謙信もあまりにも戦いに強くて、また戦い方がうまくて、戦国時代に負けることを知らなかったのでした。
そのため、「無敗の神様(軍神)」のようにも言われていました。
毘沙門天の化身と呼ばれた、戦いの神
上杉謙信は、インド神話における戦いの神様である毘沙門天の化身として恐れられました。
また、本人も毘沙門天を強く信仰し、また自身が毘沙門天の化身だともしていました。
あの織田信長も、石川県の手取川で行われた「手取川の戦い」で、上杉謙信に敗れています。
「敵に塩を送った」エピソード
また上杉謙信は、武田軍のいる甲斐国(現在の山梨県)の貧困にあえぐ民を救うために、内陸部ではなかなか採れない塩を送ったエピソードで有名です。
これが、「敵に塩を送る」の語源になっています。
上杉謙信は、頭に白い頭巾を巻いた武将のイメージが強いです。
戦国時代の「最強」同士が戦った、川中島の戦い
川中島の戦いは、戦国時代の最強同士が戦った、いわば「最強vs最強」の戦いだったのです。

川中島古戦場より(長野県)
川中島の戦いは、なぜ起きたか
なぜ川中島の戦いが起こったのかと言うと、簡単にいえば北信濃の覇権を奪うためです。
もっといえば、現代の長野市一帯の支配権を獲得するために、川中島で戦った、というわけです。
長野の土地を巡って戦った
戦国時代、
- 山梨県一帯
- 諏訪地域
- 松本
あたりの地域にまで勢力を伸ばしてきた武田信玄は、さらに北上して、長野一帯(善光寺平)を支配しようかという勢いでした。
長野をもし攻略できれば、上杉謙信のいる新潟(越後)はすぐ目の前となり、ここまで武田軍の勢力が及ぶことになってしまいます。
上杉謙信としてはこれに危機感を感じ、北上してくる武田信玄を、何としてもここで食い止めなければなりません。
川中島で5回戦って、引き分けだった
この「川中島の戦い」は5回にわたって行われましたが、 結局勝敗が決することがありませんでした。
つまり、「引き分け」ということです。
この「川中島の戦い」で最も注目すべきは、4回目の戦いでした。
「第四次・川中島の戦い」では、武田信玄と上杉謙信が直接刀を交えるという、「一騎打ち」になったといわれています。
川中島の戦い 結局どちらが勝った?
さて、「川中島の戦い」では上杉と武田、一体どちらが勝ったのかについては、先述の通り未だに議論がなされています。
あなたは、どちらが勝ったと考えるでしょうか。

「むせぶは水の声ばかり」川中島古戦場(長野県)
川中島の戦い その後の世の中
そして「川中島の戦い」の後、武田信玄が(寿命で)亡くなって息子の武田勝頼の時代になったときに、ようやく織田信長は勢いづいてきました。
「長篠の戦い」で敗北した武田勝頼 その後、武田家の滅亡
1575年の「長篠の戦い」で、織田信長の率いる鉄砲隊が、武田勝頼の率いる騎馬隊を破ったことは有名ですよね。
武田勝頼は、その後も織田軍の猛攻によって、敗退と衰退を続けていったのでした。
やがては、山梨県東部の山岳地帯にまで追い詰められ、「天目山」という山で無念にも自害に追い込まれています。
長篠の戦いについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

武田家の滅亡については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

武田信玄が生きている間は、誰も彼を倒せなかった
武田信玄は、戦死ではなく、寿命で亡くなっています。
そのため、存命中は誰も武田信玄を倒すことができなかった、ということが想像できます。
また、武田信玄の死は、織田軍など敵にバレると大変なことになるため、当初はかなり秘匿にされたようです。
上杉家は、江戸時代に石高を大きく減らされ、米沢へ
一方、その後の上杉家は、1600年の「関ヶ原の戦い」において徳川の敵にあたる「西軍」についてしまったのでした。
そのため、江戸時代に入ってからは罰として石高(現代でいうところの財力や領地などのこと)を大きく減らされた上で、山形県米沢市へと左遷されていまいました。
これを、「転封」といいます。
衰退した米沢藩を見事に再建させた、上杉鷹山
当初の米沢藩では、石高を大きく減らされたにも関わらず、華やかだった上杉家の頃が忘れずに、贅沢三昧の暮らしを送り、藩の財政は圧迫してしまいました。
そこで、上杉鷹山という優秀すぎる人物が立ち上がりました。
彼は、徹底したコスト削減や生産の増大という努力により、ひっ迫していた米沢藩の財政を、見事に復活させたのでした。
という台詞が有名ですね。
米沢における上杉鷹山の活躍については、こちらの記事(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。
次は、長野へ
川中島の観光を終えたら、次はいよいよ長野の善光寺参りとなります!!
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