鉄道唱歌 北陸編 第25番 上田に到着!真田家ゆかりの地 そして坂城を過ぎ、姨捨山も

まずは原文から!

上田(うえだ)をあとに走(はし)りゆく
汽車(きしゃ)は坂城(さかき)に早(はや)つきぬ
川(かわ)のあなたにながめやる
山(やま)は姥捨(おばすて)月見堂(つきみどう)

さらに読みやすく!

上田(うえだ)をあとに走(はし)りゆく
汽車(きしゃ)は坂城(さかき)に早(はや)つきぬ
川(かわ)のあなたにながめやる
山(やま)は姥捨(おばすて)月見堂(つきみどう)

さあ、歌ってみよう!

♪うえだをあとにー はしりゆくー
♪きしゃはさかきに はやつきぬー
♪かーわのあなたに ながめやるー
♪やーまはおばすて つきみどうー

(しなの鉄道線)
軽井沢駅→信濃追分駅→御代田駅→小諸駅→大屋駅→上田駅→坂城駅→千曲駅→屋代駅→篠ノ井駅

(信越本線)
篠ノ井駅→川中島駅→長野駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記

大屋駅(おおやえき、長野県上田市大屋)、信濃国分寺駅(しなのこくぶんじえき、長野県上田市国分)を過ぎると、列車はやがて上田駅(うえだえき、長野県上田市)に到着します。

長野県上田市(うえだし)は、長野市・松本市に次ぐ、長野県第3の都市です。
上田駅は、新幹線も止まる重要な駅です。

上田城はかつて、真田幸村(さなだ ゆきむら)をはじめとする真田家(さなだけ)の居城としても知られます。

上田城は戦国時代に徳川家から二度攻められましたが二回とも撃退したため、「落ちない城」としても有名です。
そのため、受験生から合格祈願必勝祈願に訪れることでも知られます。

真田幸村は、戦いの際には「六文銭(ろくもんせん)」という旗を掲げておりました。
六文銭(ろくもんせん)とは、三途の川(さんずのかわ)を渡るために必要な銭のことです。三途の川(さんずのかわ)とは、主に仏教において亡くなった人が「あの世」に向かうために渡る川のことです。
真田幸村は、戦いに赴くときは常に決死の覚悟で(三途の川を渡る覚悟で)、命を決して惜しまないという覚悟で挑んでいたことがわかります。

上田市のあちこちには、この真田幸村が掲げていた「六文銭」の模様が至る所につけられています。

戦国時代、上田という場所は甲斐国(かいのくに。現在の山梨県)や三河国(みかわのくに。現在の愛知県東部)などの領地を持っていた「徳川家」と、越後(新潟県)の「上杉家」との間で、地理的に板挟みな場所に存在している地域でした。
そのため、真田家は徳川側につくか、上杉側に着くかで迷っていました。

結局、上田の真田家がついたのは越後の上杉の側でした。
これに怒った徳川家は、上田に対して攻撃を仕掛けますが、2回にわたってこれを撃退しています。
そのため、上田城は「難攻不落の城」という風に言われるのです。

上田城(長野県上田市)
上田城本丸跡(長野県上田市)

しかし、上田の真田氏は1600年の関ヶ原の戦いの時に、徳川家に敵対する側(西軍)についてしまったがため、これで怒りを買って真田家は死刑を言い渡されます。
ここは幸村のお兄さんである信幸(のぶゆき)の嘆願(たんがん)により、なんとか死刑は免れましたが、その代わり真田幸村(子)と真田昌幸(父)の親子は、和歌山県の高野山(こうやさん)の麓(ふもと)にある、九度山(くどやま)という場所に流罪とされてしまいました。

九度山(くどやま)は、かつて弘法大師・空海が高野山(こうやさん)が女人禁制であるために、お母さんが高野山に入れないために、9回もお母さんに会いに行っていた場所のことです。
高野山が女人禁制だった理由は決して性差別的な意味ではなく、男性の修行僧が「女性の肌を見て興奮する」などの性欲に惑わされることなく、修行に集中するためでした。

真田親子は、その和歌山の九度山で非常に貧しい生活を余儀なくされ、食事もままならず、真田昌幸(父)はもう一度徳川と戦いたかったと言う欲望を残して無念にも亡くなりました。

そして息子の真田幸村は、その後の1614年~1615年に行われた徳川との戦いである「大坂冬の陣」「大阪夏の陣」で大活躍し、徳川家康の陣地を大幅に後退させるなどの奮闘ぶりを発揮しましたが、途中で力尽き、無念にも敗北してしまうことになるのです。

話が長くなりましたが、上田駅を出発すると、列車は千曲川に沿って北上していきます。

やがてテクノさかき駅(長野県埴科郡坂城町)、坂城駅(さかきえき、長野県埴科郡坂城町)、という風にずっと過ぎています。

埴科郡は「はにしなぐん」と読みます。

長野県には「~科(しな)」がつく地名が多いですが、それは昔、長野県が「信濃国(しなののくに)」と呼ばれていたことに由来しています。
(しな)」は植物の一種であり、長野県は昔からこの植物が多かったことから「科野(しなの)」→「信濃(しなの)」になったとされています。

そして千曲川(ちくまがわ)に向かって走り、川の向こうには冠着山(かむりきやま)がそびえることになります。

冠着山(かむりきやま)は、姨捨山(おばすてやま)とも呼ばれます。

姨捨山は昔、年老いて使えなくなったおばあさん達を連れて捨てていたという山のことです。
その理由として、昔は現代のように生活保護や年金制度などもなかったため、食糧難などに対抗するための策もあったからと言われています。

現代でこれをやれば、普通に「人権侵害だ!」となりそうですね。

現代日本では、独身の高齢女性の増加が問題になっています。それは高齢女性の「孤独」や「貧困」などの問題に繋がってきます。
現代日本人男性の平均年収は低下する傾向にあり、結婚して女性を養えるほどの経済力のある男性は昔と比べて減少しています。
その一方で、婚活女性を「高望みだ」とする、いわゆる「女叩き」の風潮がネットを中心に広まっています。30歳を越えた婚活女性が年収600万円以上の安定した公務員や会社員(なおかつ30代までの男性)を希望するのは、もはや高望みだと言われます。なぜなら、これだけのスペックを持つ男性ならば、20代の若い女性と充分結婚できるからです。

現代日本では男性も国家も、高齢女性を養ったり面倒をみたりする余裕や余力はもはやなく、みな自分のことで精一杯です。
そのため、高齢女性にとってももはや男性の経済力や国家を当てにすることはできないため、自ら稼いだり、節税や国の制度を利用するなどの「マネーリテラシー」が求められています。

話がちょっとズレましたが、こうした賢い知識を少しでもネット等で探たり自ら情報を集めようとする姿勢こそが、少子高齢化社会に生きる我々にとってうまく立ち回るためのノウハウとなります。

現代では少子化対策への政府・内閣への不満に加え、税金や保険制度の面などで政治に対する不平不満もあることと思います。
しかし、昔はネットや社会制度すらもままならかったのですから、姨捨山(おばすてやま)なるものが登場してもおかしくなかったのかもしれません。
話が本題とズレて申し訳ありませんが、少しでも「昔と比べ、現代の我々は恵まれた環境で暮らせている」ことを改めてご認識いただけるきっかけになれば幸いです。

話を本題に戻します。

月見堂(つきみどう)」は、姨捨山の麓にある、月を眺めるためには最適なお寺のことです。
姨捨山の麓(ふもと)には、「田毎の月(たごとのつき)」といって、田んぼごとに写る月がとても美しく、多くの詩人たちが歌に残しました。

こちらは次回解説します!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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