鉄道唱歌 北陸編 第27番 屋代・篠ノ井を過ぎ、川中島へ 千曲川と犀川を渡る

まずは原文から!

屋代(やしろ)篠井(しののい)うちすぎて
わたる千曲(ちくま)と犀川(さいかわ)の
間(あいだ)の土地をむかしより
川中島(かわなかじま)と人はよぶ

さらに読みやすく!

屋代(やしろ)篠井(しののい)うちすぎて
わたる千曲(ちくま)と犀川(さいかわ)の
間(あいだ)の土地をむかしより
川中島(かわなかじま)と人はよぶ

さあ、歌ってみよう!

♪やーしろしののい うちすぎてー
♪わーたるちくまと さいかわのー
♪あいだのとーちを むかしよりー
♪かわなかじまとー ひとはよぶー

(しなの鉄道線)
軽井沢駅→信濃追分駅→御代田駅→小諸駅→大屋駅→上田駅→坂城駅→千曲駅→屋代駅→篠ノ井駅

(信越本線)
篠ノ井駅→川中島駅→長野駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記

屋代駅(やしろえき)は、長野県千曲市(ちくまし)の中心駅となります。

千曲市のこの辺りは北国街道(ほっこくかいどう)の宿場町・稲荷山宿(いなりやましゅく)があった場所でもあります。

つまり屋代駅から西へ千曲川(ちくまがわ)を渡ったところに稲荷山(いなりやま)という地名があり、そこに善光寺街道(ぜんうじかいどう)の稲荷山宿が存在することになります。

篠ノ井駅(しののいえき、長野県長野市篠ノ井)は、篠ノ井線(しののいせん)との分岐点であります。
ここで「しなの鉄道線」の区間は終わり、ここから再びJR信越本線という流れになります。
信越本線は群馬県の横川駅(よこかわえき、群馬県安中市)で一旦途切れていたため、久しぶりの信越本線となります(しかし、少し先の長野駅で再び途切れることになります)。

先述の通り、篠ノ井駅から長野駅まではJR信越本線の区間となりますから、再び「青春18きっぷ」または「北海道&東日本パス」が使えるという扱いになります。
ただし、長野駅から北は「北しなの線」の区間になるため、また別途きっぷ購入の準備が必要になります。

篠ノ井駅を過ぎると、 千曲川(ちくまがわ)を渡ります。
ここで「川中島(かわなかじま)」という領域に入ります。
そして川中島駅(かわなかじまえき、長野県長野市川中島町)を過ぎると、今度は犀川(さいかわ)という川を渡り、川中島から出て長野市街地の方面へ向かいます。

犀川(信越本線の車窓より)(長野県)

犀川(さいかわ)は、松本平(まつもとだいら)から流れてくる川であり、松本市よりも上流での呼び名を梓川(あずさがわ)といいます。
梓川(あずさがわ)は、特急「あずさ」号の由来となっています。

松本平(まつもとだいら)は、松本市がある平野部分の名称になります。
長野県では、主な平野部のことを「~平(だいら)」と呼びます。
例えば、長野市の平野部は「善光寺平(ぜんこうじだいら)」、佐久市の平野部は「佐久平(さくだいら)」、伊那市(いなし)の平野部は「伊那平(いなだいら)」または「伊那谷(いなだに)」といいます。
これらの4つの平(たいら)は、長野県歌「信濃の国」の第1番でも歌われており、「肥沃(ひよく。作物が沢山採れること)の地」と言及されています。
長野県に旅行に行く際には、こうした知識も抑えておくとよいでしょう。

そして千曲川(ちくまがわ)と犀川(さいかわ)にある間の土地にある土地を、「川中島(かわなかじま)」といいます。
昔は川と川に挟まれた場所のことを、「」という風に呼んでいたのです。
たとえば、広島県の「広島」という名前も、太田川(おおたがわ)など複数の川に囲まれた三角デルタの広い土地のことを、「広島」という風に呼んだのです。

また、源頼朝(よりとも)が1160年の「平治の乱」の戦いに敗れ、伊豆に流罪になった時に訪れた「蛭ヶ小島(ひるがこじま。現在の静岡県伊豆の国市)」も、元々は「川と川に挟まれた場所」だったからだそうです。
ただし、現在では周辺の川も(何らかの様々な理由で)無くなってしまっており、「島」という感じではなくなってしまっています。

川中島は、「川中島の戦い」で有名です。
川中島の戦いは、武田信玄上杉謙信が5回にわたって行われた戦国時代の戦いです。

これは次回解説します。

そして千曲川は、新潟県に入ると信濃川(しなのがわ)という風に名前を変えて、越後国(えちごのくに)・新潟の海に注ぎます。
信濃川は、日本で「一番長い川」です。
また本サイトでは何度も解説していることですが、「日本一流域面積が大きい川」は関東地方の利根川(とねがわ)なので、注意しましょう。

このように、川の名前が「県を境に変わる」という事はよくあることです。

例えば、山梨県大月市を流れる桂川(かつらがわ)も、神奈川県に入ると相模川(さがみがわ)、またの名前を馬入川(ばにゅうがわ)という風に名前が変わります

話を長野県に戻しますが、川中島のさらに南東の山の麓には、松代(まつしろ)という場所があります。
松代にはお城もあり、山の一歩手前にある、昔の時代においては山々に囲まれた、いかにも自然の防御力に優れていそうな場所です。

松代(まつしろ)は、かつて松代大本営(まつしろだいほんえい)が置かれた場所でもあります。
松代大本営(まつしろだいほんえい)は、太平洋戦争(大東亜戦争)の末期に日本が完全に敗北寸前になり、東京を占領された時に備えて、天皇陛下が一時的に内陸部に逃れるための場所として造られた拠点のことです。
ただし結局、日本はポツダム宣言を受け入れて終戦となったため、松代大本営が使われることはありませんでした。

次回は、「川中島の戦い」の解説をします!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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