鉄道唱歌 北陸編 第37番 柏崎から東に進み、長岡へ 空襲から蘇った「不死鳥の街」

まずは原文から!

安田(やすだ)北條(きたじょう)來迎寺(らいこうじ)
宮内(みやうち)すぎて長岡(ながおか)の
町(まち)は名たゝる繁花(はんか)の地
製油(せいゆ)の烟(けむり)そらにみつ

さらに読みやすく!

安田(やすだ)北条(きたじょう)来迎寺(らいこうじ)
宮内(みやうち)すぎて長岡(ながおか)の
町(まち)は名ただる繁花(はんか)の地
製油(せいゆ)の煙(けむり)そらにみつ

さあ、歌ってみよう!

♪やすだきたじょう らいこうじー
♪みやうちすぎてー ながおかのー
♪まーちはなだたる はんかのちー
♪せいゆのけむりー そらにみつー

(信越本線)
直江津駅→(旧・春日新田駅跡)→犀潟駅→柿崎駅→米山駅→青海川駅→柏崎駅→安田駅→北条駅→来迎寺駅→宮内駅→長岡駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記

柏崎を出て、長岡方面へ

柏崎駅(かしわざきえき、新潟県柏崎市)からは越後線(えちごせん)と分岐してゆきます。
そして内陸部の方に向かって行き、海とは分かれて行きます。

安田駅・北条駅・来迎寺駅・宮内駅を過ぎゆく

そして歌詞にあるように、安田駅(やすだえき、新潟県柏崎市安田)・北条駅(きたじょうえき、新潟県柏崎市北条)・来迎寺駅(らいこうじえき、新潟県長岡市来迎寺)のように過ぎてゆきます。
やがて信濃川(しなのがわ)を渡って、宮内駅(みやうちえき、新潟県長岡市宮内)に到着します。
宮内駅(みやうちえき)は上越線(じょうえつせん)との合流点であります。
つまり、群馬県の高崎駅で分岐した上越線と、ここで久々に合流することになります。

安田駅(新潟県柏崎市安田)
北条駅(新潟県柏崎市北条)
来迎寺駅(新潟県長岡市来迎寺)
宮内駅(新潟県長岡市宮内)

長岡駅に到着

そして宮内駅を過ぎると、長岡駅(ながおかえき、新潟県長岡市)に到着します。

長岡駅(新潟県長岡市)
長岡駅(新潟県長岡市)

新潟県長岡市(ながおかし)は、新潟県で第二の都市として知られ、それだけにかなり大きな規模の都会になります。

新潟県はあまりにも広いので、上越(じょうえつ)・中越(ちゅうえつ)・下越(かえつ)というふうにに分かれています。
これは京都(かつての日本の首都)に近い側が「上」となることに起因します。
長岡市は「中越地方」にあたりますので、長岡市は中越地方で最大の都市ということになります。
一方、上越地方の中心都市は上越市(じょうえつし)、下越地方の中心都市は新潟市(にいがたし)になります。

「不死鳥の街」長岡市

新潟県長岡市は、「不死鳥の街」としても有名です。

長岡市は太平洋戦争(大東亜戦争)の1945年に、「長岡大空襲」といって甚大な被害を被った歴史があるのです。

しかしそのとき、残された長岡市の市民たちが不屈の精神で、長岡の復興に努めました。

それを象徴して、長岡市の旗は「不死鳥のマーク」がシンボルとなっています。

長岡市がなぜ空襲にあったのかというと、長岡市は交通の要衝(ようしょう)であったと同時に、歌詞にあるように石油もたくさん採れ、また多くの軍事工場があったことなどが理由として挙げられます。

当時の国際条約では民間への殺傷は禁止されていましたが、軍事工場や軍事目的に限れば破壊してもよいということになっていたので、主に空襲の対象・標的としては長岡市のように軍需工場がたくさんある都市が選ばれることになりました。

長岡市では、その不死鳥としての復興の象徴として、「長岡花火まつり」がとても有名です。

山本五十六の出身地・長岡市

そして新潟県長岡市はあの山本五十六(やまもと いそろく)の出身地として有名です。

山本五十六(やまもと いそろく)は、太平洋戦争(大東亜戦争)のときの軍人・指揮官であり、非常に頭がよく、優れた指揮官であったことから、日本国内のみならずアメリカからの評価も高いことで知られます。

山本五十六の像(新潟県長岡市)

なぜ山本五十六が「五十六(いそろく)」という名前になったのかというと、それはお父さんが56歳の時に生まれた子だったからだそうです。

山本五十六は、幼少期から成績優秀で、軍人としては異例の出世を続けてきました。

そして太平洋戦争開戦となる1941年、日本がいよいよアメリカと戦わなくてはならなくなったときに、山本五十六は「短期決戦」を主張しました。

それは、山本五十六はかつてアメリカの強大な軍事力を恐れるがあまり、アメリカとの長期戦は絶対に不利だと判断していたからです。
かつて山本五十六がアメリカに訪れたとき、日本ではまだ普及していなかった自動車がアメリカの街中を普通に走っていたことから、日本とアメリカの科学技術の差は歴然だと考えていました。

人口・軍事力・科学技術・資源などあらゆる面で上回っているアメリカに、日本がまともに戦って勝てるわけないことを、山本五十六は自身のアメリカ滞在の経験から熟知していたので、アメリカに奇襲攻撃をかけて困惑させ、短期で講和(こうわ。話し合いのこと)に持ち込み、日本に有利な条件で戦争を終わらせるというシナリオを主張していたのです。
とても合理的で賢明な判断ですよね。
実際にそれが実行された奇襲攻撃が、1941年12月8日の「真珠湾攻撃」です。
この作戦は大成功に終わったかに見え、そのまま山本五十六の思惑通りに講和に持ち込めばよかったのですが、戦争はそのまま勢い余って東南アジアの方へ進撃し、連戦連勝の勢いとなります。
これは軍部が暴走したのか、山本五十六の頭が良すぎて周囲の軍人たちに彼の考えや方針が理解されにくかったのかはわかりません。

結局、戦争は彼の提唱した「短期決戦」どころかドロ沼の長期戦となってしまい、1942年6月の「ミッドウェー海戦」で大敗してからは日本は一気に劣勢となります。

そんな中、1943年4月に山本五十六の乗っていた飛行機は撃墜され、ここに無念の最期を迎えることになります。
この頃には日本軍の暗号はアメリカに悉(ことごと)く解読されており、山本五十六がその飛行機に乗っていたことが米軍にバレて筒抜けになってしまっていたのです。

偉大で優秀すぎた山本五十六の死は、もし日本軍や日本国民にバレると士気が大きく下がる(つまり、軍人や国民がみな戦う気を無くす)恐れがあったため、亡くなった後一定期間は秘密にされたようです。

やはり、賢すぎる人の考えや主張は、なかなか周りに理解されないというのは、現代の社会にも通じるところがあるように思えます。
そうした優秀すぎる人物は必然的に孤立してしまいがちなため、現代でも優秀なベンチャー企業の社長などは誰にも相談できず孤独に戦い続けているケースも多いです。

話が長くなりましたが、少しでも長岡市出身の偉大な人物である山本五十六や、長岡市の復興の歴史に興味を持っていただければ幸いです。

列車は長岡駅を出ると、三条(さんじょう)・弥彦(やひこ)方面へ向かってゆきます!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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