鉄道唱歌 北陸編 第44番 信濃川を渡れば新潟市 たくさんの舟が行き交っていた街

まずは原文から!

川(かわ)のかなたは新潟市(にいがたし)
舟(ふね)ゆく水(みず)の便(たよ)りよく
わたせる橋(はし)をかぞふれば
およそ二百(にひゃく)もありとかや

さらに読みやすく!

川(かわ)のかなたは新潟市(にいがたし)
舟(ふね)ゆく水(みず)の便(たよ)りよく
わたせる橋(はし)をかぞうれば
およそ二百(にひゃく)もありとかや

さあ、歌ってみよう!

♪かーわのかなたは にいがたしー
♪ふねゆくみずのー たよりよくー
♪わたせるはーしを かぞうればー
♪およそにひゃくも ありとかやー

(信越本線)
長岡駅→三条駅→東三条駅→加茂駅→矢代田駅→新津駅→亀田駅→越後石山駅→新潟駅

沼垂駅(ぬったりえき)を降りたら、信濃川の川の向こうは、新潟市(の中心地域)ということになります。

沼垂駅(ぬったりえき)は現在の新潟駅とは異なる、新潟駅のやや東にあった明治時代当時の終着駅です。
当時は信濃川の川幅が長すぎて(約1km)鉄道の橋をかけられなかったのと、用地買収がうまくいかなかった等の様々な理由で、沼垂駅が最終駅だったのでした。

沼垂駅を降りて信濃川を渡ると(舟や橋などで渡る)、そこは新潟市(の中心地域)です。

信濃川(しなのがわ)は、日本一長い川です。

長野県のところでも解説しましたが、信濃川は長野県では千曲川(ちくまがわ)という名前でした。
それが新潟県に入ると、信濃川(しなのがわ)という名前に変わるわけです。

北陸編 第23番でも解説したように、

蓼科山(たてしなやま)を流れ出て 末(すえ)は越後(えちご)の海に入る

とあったと思いますが、その「越後」というのがまさにこの付近になります。

なお本サイトでは何度も解説している通り、関東地方の利根川(とねがわ)は「日本で最も流域面積が大きい川」となりますので注意しましょう。

詳しくは「鉄道唱歌 奥州・磐城編 第6番(利根川を渡る場面)」のところで解説しています。

当時の信濃川の川幅は非常に広く、川と川の長さが1kmもあったという風に言われています。

また先述の通り、これだけ長い信濃川に対して(鉄道の)橋をかけることできなかっため元々の新潟駅は現在の位置ではなく、明治時代の開業当初はやや東側の沼垂駅(ぬったりえき)が終着でした。

しかしこの沼垂駅には反対意見も大きく、開業前に爆破事件なども起こりました。
やはり不便であること、新潟地域が沼垂地域に誘致合戦で負けたことなどが不満の理由として挙げられるでしょう。

現在でも、信濃川をわたると万代橋(ばんだいばし)の向こうには新潟市の中心部的な、繁華街的な街並みがたくさん出てきます。

これは次回も解説しますが、当時の新潟市は「水の都」であり船がたくさん町中を通っていました。
街の中には現在よりも多くの川や運河が存在し、そこにたくさんの舟が通っていたのです。
もちろん、川や運河が多いということはその分、橋の数も多くなるということです。
その数は、歌詞によればおよそ200もあったとのことです。
ただ、「ありとかや(あるらしい)」だとまるで伝聞情報みたいなので、あくまでこの200という数字は参考までに思っておけばよいでしょう。

「水の都 にいがた」新潟駅前より

これは、かつて「水の都」「水都(すいと)」と呼ばれた 江戸や大阪とも似ています 。
江戸にもたくさんの運河がありましたが、現代では埋め立てられ道路になっていたりします。
大坂にもかつてたくさんの堀(ほり)があり、「道頓堀(どうとんぼり)」「長堀橋(ながほりばし)」などの地名にその名残があります。

現代ではこうした運河や堀は用済みとなって多くが埋め立てられ、ほとんど見かけることはできません。

少しでも、こうした水運の歴史にも興味を持ってもらえれば嬉しいです!

次回も、新潟市の話題を取り上げます!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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