まずは原文から!
佐渡(さど)には眞野(まの)の山ふかく
順徳院(じゅんとくいん)の御陵(ごりょう)あり
松ふく風は身にしみて
袂(たもと)しぼらぬ人もなし
さらに読みやすく!
佐渡(さど)には真野(まの)の山ふかく
順徳院(じゅんとくいん)の御陵(ごりょう)あり
松ふく風は身にしみて
袂(たもと)しぼらぬ人もなし
さあ、歌ってみよう!
♪さどにはまーのの やまふかくー
♪じゅんとくいんの ごりょうあり
♪まつふくかーぜは みにしみてー
♪たーもとしぼらぬ ひともなしー
(佐渡汽船)
新潟港→両津港
※新潟港から佐渡島(両津港)へは、船での移動
かつて順徳天皇が流されてきた、佐渡島
佐渡島(さどがしま)はかつて、承久の乱(じょうきゅうのらん)で敗れた順徳天皇(じゅんとくてんのう)が流されてきた場所でもあります。
鎌倉幕府から、政権を取り戻そうと戦った「承久の乱」
承久の乱(じょうきゅうのらん)とは、鎌倉時代の1223年に起こった、朝廷が鎌倉幕府から政権を奪い返そうとして起こった戦いのことです。
源頼朝が1192年(現代では1185年と教えられているようです)に開いた鎌倉幕府は、初めての武家政権でありました。
これは逆に言えば、天皇をはじめとする公家(くげ)や朝廷から政権を奪ったことにもなります。
これを不服とする朝廷の後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は、鎌倉に対して兵を挙げて攻撃します。
この時の鎌倉の執権(しっけん)が、あのドラマ「鎌倉殿の13人」でお馴染みの北条義時(ほうじょう よしとき)です。
執権(しっけん)とは、将軍に代わって政治を行う代役のようなものです。
しかし、鎌倉時代は徐々に将軍よりも「執権」の方が権力が大きくなってゆき、またその職は北条氏によって独占されてゆきました。
鎌倉幕府の団結力 上皇の軍を破り、承久の乱に勝利
この時の鎌倉の武士たちは、朝廷という天皇が率いる軍を敵にすることに、かなりを恐れて慌てふためいていました。
それに対して、源頼朝(よりとも)の妻であった北条政子(まさこ)がうまくまとめます。
北条政子のリーダーシップと説得力のある言葉によって鎌倉軍は一致団結し、迫り来る後鳥羽上皇の軍に対して見事勝利します。
ここに鎌倉幕府は、承久の乱に勝利しました。
承久の乱に勝利した鎌倉幕府の武士たちは、西国(さいごく) つまり西日本に元々あった天皇や公家の土地をどんどん獲得して、一時的にお金持ちなったのでした。
後鳥羽上皇は隠岐島に、順徳天皇は佐渡島に、それぞれ配流へ
しかし、敗れた後鳥羽上皇は残念ながら島根県の隠岐の島(おきのしま)に流されてしまいました。
後鳥羽上皇の息子の順徳天皇も、佐渡に流されてしまいました。
このようにして、佐渡の真野(まの)地域には、順徳天皇を祀(まつ)るための真野神社(まのじんじゃ)があります。
順徳天皇は、結局京都に戻ることはできず、佐渡にてその生涯を閉じたと言われています。
御陵(ごりょう)とは、つまり天皇の墓のことです。
歌詞の意味としては、今や「松風がのどかに吹いてるだけ」などの意味になります。
そして「袂(たもと)をしぼる」とは、「涙を流す」という意味になります。
「涙を流ない人もいない」、つまり順徳天皇の天皇のことを思うと「つい皆涙を流してしまう」などのような意味になるでしょう。
佐渡の観光を終えたら、直江津または新潟へ
佐渡の観光を終えたら、直江津(なおえつ)まで戻ります。
直江津に戻る道順については、鉄道唱歌の旅のように佐渡島の南端にある小木港(おぎこう)までゆくか、オーソドックスに両津港(りょうつこう)までバスで戻り、新潟港まで戻ってから鉄道などで直江津に向かう、などの方法があります。
直江津に戻る詳細は、次回扱います!
注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
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