まずは原文から!
津幡(つばた)にかへり乘(の)りかへて
ゆけば金澤(かなざわ)ステーシヨン
百萬石(ひゃくまんごく)の城下(じょうか)とて
さすが賑(にぎ)はふ町のさま
さらに読みやすく!
津幡(つばた)にかえり乗りかえて
ゆけば金沢(かなざわ)ステーション
百万石(ひゃくまんごく)の城下(じょうか)とて
さすが賑(にぎ)わう町のさま
さあ、歌ってみよう!
♪つばたにかーえり のりかえてー
♪ゆーけばかなざわ ステーション
♪ひゃくまんごくの じょうかとて
♪さーすがにぎわう まちのさまー
(七尾線)
和倉温泉駅→七尾駅→津幡駅
(IRいしかわ鉄道線)
津幡駅→金沢駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
能登半島の観光を終え、津幡駅から金沢駅へ
能登半島の旅を終えると和倉温泉駅(わくらおんせんえき、石川県七尾市)・七尾駅(ななおえき、石川県七尾市)から再び七尾線を折り返し、津幡駅(つばたえき、石川県河北郡津幡町)に戻ります。
津幡駅からはIRいしかわ鉄道線の区間に入り、やがて石川県の県庁所在地である金沢市の中心駅・金沢駅(かなざわえき、石川県金沢市)に到着します。
石川県の県庁所在地・金沢市
石川県金沢市(かなざわし)は、人口46万人を擁する石川県の県庁所在地であり、また北陸地方で最大の都市です。
金沢市はあくまで「石川県」であり、くれぐれも「金沢県」は存在しないので注意しましょう。
(ただし、明治時代の廃藩置県のとき「金沢県」は存在した)
また、テストで間違えやすい似たような勘違いを以下に列挙しておきます。
誤:名古屋県→正:愛知県
誤:横浜県→正:神奈川県
誤:仙台県→正:宮城県
誤:札幌県→正:北海道札幌市
誤:神戸県→正:兵庫県
誤:福岡駅は福岡県福岡市の中心駅
→正:博多駅は福岡市博多区の駅
また、福岡駅は富山県に存在する駅。
誤:栃木県の県庁所在地は栃木市
→正:宇都宮市。ただし栃木市は実在する
誤:山梨県の県庁所在地は山梨市
→正:甲府市。ただし山梨市は実在する
誤:沖縄県の県庁所在地は沖縄市
→正:那覇市。ただし沖縄市は実在する
誤:日本一長い川は利根川
→正:信濃川(千曲川)。
利根川は流域面積が日本一。
上記はテストで引っかけ問題の定番(?)ですから、惑わされないように覚えておきましょう!
あとこのサイトを社会科の先生方が見られていたら、いじわる目的でこれらをテストに出さないであげてください(^^;)
江戸時代に「百万石」を誇った加賀藩の城下町・金沢
金沢(かなざわ)は、かつて102万石を誇った前田氏(まえだし)の治めた加賀藩(かがはん)の城下町であり、「加賀百万石(かがひゃくまんごく)の城下町」としてよく表現されます。
ただ、「百万石(ひゃくまんごく)」と言われても果たしてそれが多いのか少ないのかピンとこないかもしれませんし、そもそも「石(こく)」って何?と疑問に思うかもしれません。
「石(こく)」とは、簡単にいえば江戸時代でいう「お米の量」であり、江戸時代は現代のように「お金」ではなく「お米」で量を表していました。
「石高(こくだか)」とは、簡単にいえば「土地の広さ」「税収の多さ」などを米の量で現したものです。
もちろん、石高が多い方が(財政力に)優れた大名(藩)ということになります。
次に、「百万石」がどれだけ大きいのかについて検証してゆきます。
まず、第2位の薩摩藩(さつまはん)は、76万石でした。
薩摩藩(さつまはん)は現代の鹿児島県に該当し、島津氏(しまづし)という一族によって治められていました。
薩摩藩は琉球王国(りゅうきゅうおうこく。現代の沖縄県の前身となった国)との貿易で大きな利益を上げていたのでしたが、その一方で愛知県と三重県にある「木曽三川(きそさんせん)」の大規模な治水(ちすい)工事で多大な費用の負担を余儀なくされるなど、第2の石高を誇っていても藩の財政は常に苦しかったとされています。
そして第3位は、仙台藩(せんだいはん)の62万石でした。
仙台藩は現代の宮城県仙台市に該当し、現代でも東北地方最大の都市であり、伊達氏(だてし)という一族によって治められていました。
仙台藩で生産された大量のお米は、太平洋側の「東回り航路」によって海上を船で江戸に運ばれ、大きな利益を上げました。
しかし、船で運んでいる途中に米が海水に侵されるなどの問題もあったようです。
そして、江戸時代の各藩や大名の平均的な石高というのは10万石~20万石くらいが相場で、この層に該当する藩や大名が最も多かったといえます。
20万石~30万石もあれば、むしろ十分多いほうでした。
加賀藩(かがはん)の100万石というのが、いかに大きかったかがわかりますね!
2位の薩摩藩と30万石近い差をつけています。
余談ですが、3万石に満たない大名は、城を持つことができませんでした(幕府から許可されなかった)。
その代わり、「陣屋(じんや)」という城の代わりとなる館(やかた)のようなものを築いて(構えて)いました。
石高を上げるために切磋琢磨した、江戸時代の大名たち
石高を上げようと思ったら、並大抵のことではありません。
新しい田んぼを大規模かつ効率的に耕したり、農耕のための新しい技術を開発したり、効率的に水を引いてきたり、それを江戸などの大都市へ効率的に運搬したり(東回り航路や西廻り航路などの海運など)、などの様々な努力が必要でした。
江戸時代の各藩や大名たちは、それぞれお互いに競い合っていましたので、いかに大量の米を生産できるかが重要課題でした。
農民に頑張らせるだけでなく、藩主や武士たちも頑張っていた藩はとても財政的に強かったのです。
これは現代でも、一流の社長や経営陣がいる会社が利益を確保できるのに似ています。
もちろん、藩や大名がこうした努力をせずに、農民に対して「おい、お前らが取った米を全部年貢で治めろ」などと言えば、まず農民が可哀想です。
というか、農民の不満が溜まって下手をすれば反乱を起こされたり(鎮圧には多大な費用や労力がかかる)、田んぼを放棄して逃げられたり(田んぼが荒廃して生産できなくなる)、農民の意欲がますます低下してさらに年貢が低下するなどの恐れがあります。
そうなると幕府から目を付けられ、藩の統治能力がないとみなされて、藩主は容赦なく交代させられてしまいます。
これはブラック企業に全く生産性がなく、倒産しやすいのと似ています。
江戸時代は、こうして農業の効率や生産性が、それまでと比べて飛躍的にアップした時代でもあったのでした。
北陸新幹線の開通より、東京からのアクセスが向上した金沢
金沢は現代では北陸新幹線の開通により、東京から乗り換え無しでスピーディーに素早く来られるようになり、観光地として大きな盛り上がりを見せるようになりました。
金沢駅周辺~兼六園(けんろくえん)・金沢城にかけてのエリアは商業施設も多く、さすがに都会だけあって不便さは感じさせません。
北陸地方の旅にあたっては、これだけ便利のよい金沢は決して避けては通れない(利用不可避な)土地だといえるでしょう。
次は、兼六園(けんろくえん)の観光となります!
注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
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