鉄道唱歌 北陸編の歌詞を、わかりやすく解説してゆきます!
初心者の方や詳しくない方にも、楽しめるよう解説してゆきます!
↓まずは原文から!
おちくる瀧の水白し
雲にそびゆる銅像は
西南役の紀念碑よ
さらに読みやすく!
おちくる滝の 水白し
雲にそびゆる 銅像は
西南役の 紀念碑よ
さあ、歌ってみよう!
♪おちくるたきのー みずしろしー
♪くーもにそびゆる どうぞうはー
♪せいなんえきのー きねんひよー
和倉温泉駅→七尾駅→津幡駅
(IRいしかわ鉄道線)
津幡駅→金沢駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
「庭園の六つの魅力」を兼ね備えた、兼六園
前回より、石川県金沢市の兼六園の解説をしています。

兼六園の景色(石川県金沢市)
兼六園とは、「庭園に必要な要素を六つ兼ね揃えている」という意味になります。
兼六園の「6つの美しい要素」とは
前回の復習になりますが、その六つの要素は以下のようになります。
一つ一つみてゆきましょう。
とても広い様子「宏大」
宏大とは、とても広い様子を表します。「広大」と同じ意味です。
古めかしいけども良い「蒼古」
蒼古とは、古めかしいけども良い、みたいなイメージです。
景色がとても良く、優雅「幽邃」
幽邃とは、景色がとても良く、優雅であるというイメージです。
人の手で(こだわりを持って)作られた「人力」
人力とは、人の手によって(こだわりを持って)作られたことをいいます。
滝や池などが美しい「水泉」
水泉とは、滝や池などの美しい水に恵まれていることをいいます。
とてもよい眺め「眺望」
眺望とは、とてもよい眺めであることをいいます。
6つをまとめてみると
つまり、6つをまとめると
- 広大で、
- 古めかしく、
- 優雅であり、
- 人の手によって心をこめて作られ、
- 滝や池などのある、
- 眺めの良い公園
という意味になります。
兼六園の美しい景観「翠滝」
では、以上を踏まえた上で、歌詞の内容を確認してゆきましょう。
「柳」とは、日本庭園や古風な街並みなどでよく見られる、緑色の細長い葉っぱを持った植物です。
日本庭園では、「松」とともに定番の、風情のある緑色の植物といえるでしょう。
「落ち来る滝」とは、ここでは兼六園にある
- 「翠滝」
という滝になります。
「翠」は、「緑」と同じ意味になります。

兼六園・翠滝(石川県金沢市)
伝統的で、人の心を落ち着ける植物・柳(やなぎ)
「柳」は、
- 「蒼古」
- 「幽邃」
- 「人力」
- 「眺望」
の4つの要素を満たしているといえます。
柳は、どこか古風かつ、伝統的な景観を演出する植物です。
また、見ている人の心を落ち着けるなど景観アップにもつながります。
さらに、人の手によって
- 拘り
- 真心
をもって、丁寧に植えられています。
兼六園を流れおちる「翠滝」
「翠滝」は、
- 「水泉」
- 「眺望」
- 「幽邃」
などの要素を満たしているといえます。
やはり、美しい日本庭園には
- 美しい滝の流れ
- 風情ある池
などがあると癒されますからね!
私(筆者)も、こうした庭園は大好きです。
雲にそびえる、ヤマトタケルノミコトの像 西南戦争の勇士たちを讃える
兼六園には、いわゆる西南戦争に関係してくる、ヤマトタケルノミコト(日本武尊)の像があります。
とても大きく、雲にまで届くようにも思えるような高さです。

西南戦争とは?
西南戦争は、1877年に、政府と鹿児島県が喧嘩した戦争です。
それは、明治時代に武士が刀を奪われて、不満を持ったからです(廃刀令)。
奪われる武士の特権
また、江戸時代までは「苗字を名乗ること」は武士の特権でした。
しかし、明治時代になり「四民平等」となり、武士以外も苗字を名乗ることが許されたのでした。
こうして武士の特権が次々に奪われていくと、元武士としては面白くありません。
鹿児島に戻って、元・武士の育成に励む西郷隆盛
こうした元武士の惨状を見かねたリーダーの西郷隆盛が、(これまで一生懸命に世話をしてきた)武士たちのことを思って、政府を辞めてしまったのでした。
そして西郷隆盛は、地元の鹿児島へと引き返しました(明治6年の政変)。
鹿児島へと帰った西郷隆盛は、武士を養成する学校のようなものを開き、後進の育成に務めました。
しかしこれを明治政府に目をつけられ、西南戦争が勃発する
しかしこれを、明治政府から
と疑われてしまい、鹿児島に向けて軍を向けました。
これが、西南戦争のはじまりです。
西南戦争の舞台となった、田原坂と熊本城
西南戦争では、主に
- 熊本城
- 熊本県の田原坂
が舞台となりました。
詳しくは、本サイトでも「鉄道唱歌 山陽・九州編」の
- 「田原坂」
- 「熊本城」
のところで解説していますので、ご覧ください。

戦いに敗北し、鹿児島で最期を迎えた西郷隆盛
「田原坂の戦い」「熊本城の戦い」において、西郷隆盛率いる薩摩軍は、明治政府の軍(官軍)に敗れてしまいました。
そして薩摩軍は、涙をのんで鹿児島に引き返すことになりました。
やがて薩摩軍のリーダーであった西郷隆盛は、残念ながら鹿児島の城山公園の辺りで、銃弾に撃たれて倒れてしまいました。
こうして西南戦争は幕を閉じました。
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)とは?
ヤマトタケルノミコト(日本武尊)は、「戦いの神様」と呼ばれています。
それは、日本神話において、いくつもの困難を克服し、敵と立ち向かってきたからです。
- あるときは焼津(静岡県焼津市)で現れた敵を、剣で焼き払ったり、
- 神奈川県横須賀市の走水では、東京湾を渡る際に、妻であった弟橘媛(オトタチバナヒメ)が犠牲となり、悲しみに暮れました。
- 滋賀県と岐阜県の間にある伊吹山では、大蛇と戦って、完膚なきまでにやられてしまいました。
「戦いの神」日本武尊
日本武尊は、こうした幾多の困難を克服して戦ってきたことから
- 「戦いの神様」
- 「軍神」
とよばれ、現代でも「必勝祈願」「厄払い」などにご利益があります。
そのほかの軍神
ほかに「軍神」といえば、
- インド神話における「毘沙門天」および、それを崇拝する上杉謙信
- 素戔嗚尊(スサノオノミコト)
- 長野県・諏訪神社のタケミナカタノミコト
- 茨城県・鹿島神宮のタケミカヅチノミコトなどが存在します。
兼六園の「雲にそびゆる銅像」は、こうした西南戦争に立ち向かっていった金沢出身の勇者たちを、日本武尊に見立てて造られたものです。
「祈念」とは 「記念」とは意味が異なる
また、
とありますが、ここでいう
- 「祈念」
- 「紀念」
は、「記念」とはちょっと意味が異なります。
「記念」というと、めでたい事を祝うイメージがあります。
しかし、「祈念」「紀念」となると、必ずしもめでたい事とは限りません。
過去に起こった傷ましい出来事を、我々の記憶から風化させないために残しておくことを「祈念」といったりします。
なので、「西南役の紀念碑」というと、西南戦争に向けて勇ましく立ち向かっていった人々のことを後世に残すためのもの、といったニュアンスになるでしょう。
次回も、金沢観光編
兼六園と、金沢城の観光はいかがだったでしょうか。
しかし、金沢観光編はまだまだ次回に続きます!
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