鉄道唱歌 北陸編の歌詞を、わかりやすく解説してゆきます!
初心者の方や詳しくない方にも、楽しめるよう解説してゆきます!
↓まずは原文から!
すぎゆく窓に仰ぎ見る
山は近江の賤が嶽
七本鎗の名も高し
さらに読みやすく!
すぎゆく窓に 仰ぎ見る
山は近江の 賤が嶽
七本鎗の 名も高し
さあ、歌ってみよう!
♪すぎゆくまどにー あおぎみるー
♪やーまはおうみの しずがだけー
♪しちほんやりのー なもたかしー
金沢駅→松任駅→美川駅→小松駅→動橋駅→大聖寺駅→細呂木駅→芦原温泉駅(旧・金津駅)→福井駅→大土呂駅→鯖江駅→武生駅→南条駅(旧・鯖波駅)→今庄駅→(北陸トンネル)→敦賀駅→新疋田駅→近江塩津駅→余呉駅→木ノ本駅→長浜駅→米原駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
※北陸トンネル・新疋田駅・近江塩津駅・余呉駅は、鉄道唱歌の当時とはルートが異なります
敦賀駅を南下し、琵琶湖方面へ
勾配を和らげるループ線
敦賀駅(つるがえき)を出て北陸本線を南側(琵琶湖方面)へ進むと、山岳地帯のきつい坂道を登ってゆきます。
そのため、大きなループを描く線路にかかります。
これは、下るときはそのまま「真っ直ぐな線路」を下って降りればよいでしょう。
しかし問題は、坂を登る時です。
登る時は「大きなループ線」にして、距離を稼ぐように進むようし、列車の負担を和らげている、というわけです。
勾配を和らげるための仕組み
鉄道は、坂道に弱いです。
そのため、昔はこのように、
(上りはループ状や大回りになっている)
というケースがありました。
これは、列車を引っ張るための「補助機関車」をいちいち付け替えしていると、それに時間を取られてしまうからでした。
そのため、
- わざとループ・大回りの線路にして、
- 勾配をゆるくしてやれば、
- そもそも補助機関車の取り付け・取り外しの時間が、不要になる
というメリットがありました。
特に戦時中は、軍事物資をいち早く届けるのに、ボトルネックになっていたからでしょう。
岐阜県の垂井駅~関ヶ原駅間にある新垂井線(しんたるいせん)も、この1つです。
かつて存在した旧線「柳ヶ瀬線」
そして、新疋田駅(しんひきだえき)を過ぎると、大きくまっすぐなトンネルを進み、滋賀県に入って琵琶湖方面へ出てきます。
かつて鉄道唱歌の当時の明治時代は、疋田からはトンネルではなく、険しい山岳地帯を避けるために東へ迂回していました。
そして、勾配とカーブのきつい柳ヶ瀬線という峠道を選択したのでした。
現在では長大トンネルによる「新線」でまっくず速達に
現在では新線(しんせん)として、全長5,000mほどの大きなトンネルが掘られています。
ではなぜこのような新線という新しい線路できたのかというと、それは特急列車や貨物列車などにとって、運送上のボトルネックになるからです。
特に、敦賀へは
- 関西から特急「サンダーバード」
- 名古屋からは特急「しらさぎ」
が出ていますから、速達のために少しでも「まっすぐなルート」を確保する必要が出てきます。
新しく長くまっすぐなトンネルが出来れば、それに伴って特急列車の所要時間も短くなる、という効果が期待できます。
近江塩津駅に到着 ここからは長浜・米原方面へ
そしてこの長いトンネルを出て、滋賀県に出てきます。
滋賀県は、昔は近江国と呼ばれました。
そして近江塩津駅(滋賀県長浜市)に到着です。
ここからは湖西線と北陸本線に分岐しています。
しかし、鉄道唱歌の旅では言うまでもなく、北陸本線の米原方面へと向かっていきます。
余呉駅に到着 余呉湖と賤ヶ岳
やがて、余呉駅(よごえき、滋賀県長浜市余呉町)に着きます。
ここからは余呉湖と賤ヶ岳という山が見えます。
余呉湖は、羽衣伝説で有名です。

余呉湖(滋賀県長浜市)
柴田勝家と豊臣秀吉による「賤ヶ岳の戦い」

余呉湖と賤ヶ岳(滋賀県長浜市)
「賤ヶ岳の戦い」とは、豊臣秀吉たちが柴田勝家と戦った戦いです。
結果からいうと、
- 豊臣秀吉の勝利
- 柴田勝家の敗北
となりました。
清洲会議での不服
「賤ヶ岳の戦い」は、
- 「本能寺の変」で織田信長が討たれた後、
- その信長の残した”財産”や”領土”などの配分を決めるために、
- 愛知県の清洲城で行われた、清洲会議の後に行われた
という合戦です。
秀吉にとって有利・勝家にとって不利となった、清須会議の結果
清州会議の結果は、豊臣秀吉に有利なものとなり、柴田勝家にとっては不遇な結果となりました。
そのため、豊臣秀吉と柴田勝家の戦いは避けられないものとなりました。
柴田勝家としては、これで織田信長に誠心誠意尽くしてきたため、「そりゃないだろ」という話なわけです。
美濃大返し
豊臣秀吉は、当時は琵琶湖のあたりに布陣を構えていました。
これは、柴田勝家の本拠地である越前、つまり福井を攻め落とすためです。
このとき、織田側(=柴田側)が岐阜県の大垣あたりで反乱を起こしたため、秀吉は関ヶ原を越えて、急いで鎮圧に向かいました。
しかし、このとき秀吉が留守だったのをいいことに、柴田勝家の軍は
と言わんばかりに、福井から琵琶湖のあたりまで、一気に攻め入りました。
大垣から5km、わずか約5時間で走って帰る
これを知った豊臣秀吉は、大垣から5kmほどの道を、わずか約5時間で走って帰ってきたと言われています。
これを「美濃大返し」といいます。
ここに「賤ヶ岳の戦い」が勃発し、豊臣秀吉は「木之本」という場所に陣地を構えます。
木之本は、琵琶湖の北東にある町であり、かつては北陸街道の宿場町とした栄えた町です。
木之本については、次回で解説しています。
七人の英雄「賤ヶ岳の七本槍」
ここに、秀吉に協力する7人の武将が立ち上がります。
「賤ヶ岳の七本槍(しちほんやり)」です。
「賤ヶ岳の七本槍」とは?
ここで「賤ヶ岳の七本槍」とは、賤ヶ岳の戦いで最も戦功をあげた、豊臣秀吉に貢献した7人の武将たちのことです。
の7人の中には、あの熊本の加藤清正も含まれています。
まるで7人の武将が、
にも見えることから、「賤ヶ岳の七本槍」と言われるわけです。
北ノ庄(福井)での、柴田勝家の最期
彼ら(七本槍)の善戦により、柴田勝家は豊臣秀吉の軍に敗北してしまいます。
妻である「お市の方(おいちのかた)」とともに、泣く泣く福井の北ノ庄城(現在の福井城)へと敗退します。
やがて北ノ庄城は、豊臣秀吉の軍隊に囲まれてしまい、次々に攻撃を受けて燃え上がってしまいました。
もはやこの時点で、柴田勝家とお市の方の最期は決定的なものとなりました。
そして夫婦は、「淀殿(後の秀吉の妻)」をはじめとする、3人の娘を城から逃がそうとします。
娘 「いやだ!母上と別れたくない!」
お市の方 「いいえ。あなたたちは何がなんでも生き残りなさい。私は勝家様と運命を共にします。」
そして柴田勝家とお市の方は、燃え上がる北ノ庄城の中で、夫婦ともに自害してしまったのでした。
豊臣秀吉による天下統一達成
こうして「賤ヶ岳の戦い」で勝利した豊臣秀吉は、1590年の「小田原攻め」で、神奈川県小田原市にある小田原城を、得意の籠城攻めで攻略します。
これによって後北条氏は降伏し、ここに豊臣秀吉の天下統一が達成されるのです。
淀殿は、後に秀吉によって養われることに
なお、お市の方の娘だった淀殿は、後に秀吉によって養われることになります。
実に30歳の年齢差がありましたが、後に秀吉の妻となり、秀頼を生んでいます。
次回は、木之本(木ノ本駅)へ
では、余呉駅を出ると、次は木ノ本駅(きのもとえき)に止まります!
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