鉄道唱歌 北陸編 第61番 小松の北の「安宅の関」 コマツ製作所の企業城下町

まずは原文から!

小松(こまつ)の北におとたかく
ながるゝ水は安宅川(あたかがわ)
安宅(あたか)の關(せき)は何(いず)くぞと
問(と)はば嵐(あらし)やこたふらん

さらに読みやすく!

小松(こまつ)の北におとたかく(音高く)
なが(流)るる水は安宅川(あたかがわ)
安宅(あたか)の関(せき)は何(いず)くぞと
問(と)わば嵐(あらし)やこた(答)うらん

さあ、歌ってみよう!

♪こまつのきーたに おとたかくー
♪ながるるみずはー あたかがわー
♪あたかのせーきは いずくぞとー
♪とーわばあらしや こたうらんー

(北陸本線)
金沢駅→松任駅→美川駅→小松駅→動橋駅→大聖寺駅→細呂木駅→芦原温泉駅(旧・金津駅)→福井駅→大土呂駅→鯖江駅→武生駅→南条駅(旧・鯖波駅)→今庄駅→(北陸トンネル)→敦賀駅→新疋田駅→近江塩津駅→余呉駅→木ノ本駅→長浜駅→米原駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
※北陸トンネル・新疋田駅・近江塩津駅・余呉駅は、鉄道唱歌の当時とはルートが異なります

手取川(てとりがわ)を渡ると、列車は小松駅(こまつえき、石川県小松市)に入ります。

石川県小松市(こまつし)は、後述する株式会社コマツの企業城下町であるほか、歌詞にもある「安宅の関(あたかのせき)」でも知られます。

安宅の関(あたかのせき)は、小松市の北側(日本海側)にある、古代の関所(せきしょ)があります。
関所とは、不審者などを取り締まるための関門みたいなものです。
そして、「(どうしても)通して欲しい者」に対しては通行料を取るなど、それが関所にとってはある意味貴重な収入源でもありました。

安宅の関は、源平合戦で、源頼朝の弟にあたる源義経(よしつね)が通過した場所になります。

源義経は、源平合戦において、兵庫県神戸市須磨区(すまく)で行われた「一ノ谷の戦い」で平氏軍に奇襲攻撃をかけて撃退し、平氏軍を西へ西へと追いやり、しまいには山口県下関市の壇ノ浦(だんのうら)で滅ぼすなど、源氏の勝利に大きく貢献した人物であるはずでした。

しかし、後に彼はお兄さんである源頼朝と政治的に意見が対立し、また「一ノ谷の戦い」の奇襲攻撃は、崖から牛とともに急降下して平氏軍をパニックに陥れるという、ある意味では常軌を逸した戦い方でした。
この非常識な戦いぶりに、兄の頼朝は激怒し、義経を責めるようになります。
この時代は、どんな手を使ってでも勝っていいわけではなく、戦い方にもある種の礼儀が必要でした。
例えば、卑怯なやり方や残酷なやり方で勝ったりすると必ず恨まれますし、もっと酷いやり方で何倍にもなって報復される恐れもあります。
「お前が卑怯な手を使ったのだから、こっちもやる覚悟があるぞ」となるわけです。

兄の頼朝と政治的に意見が合わず、また平氏との戦い方で難癖(なんくせ)をつけられ、義経は兄との対立は避けられなくなりました。

義経は何度も頼朝との和解を試みましたが、受け入れられず。
こうなったら、逃げるしかありません。

義経は、まず奈良県の南の山奥にある吉野(よしの)に逃げてくることになります。
吉野は、京都や奈良といった都(みやこ)から近く、また険しい山地にあるため、どうも昔から「逃げ場(駆け込み寺?)」として使われてきたイメージがあります。
150年後の南北朝時代にも、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)はじめ、北朝での政治的争いに負けて来た人が何人も吉野へ助けを求めて逃げてきています。

さらに義経は、頼朝から逃れるために東北地方への逃亡を試みます。

ここで、義経はいわゆる「落ち武者狩り」から逃れるために、わざと武士ではなく農民や修行僧(山伏/やまぶし)、その辺の田舎人などのような格好をしていました。
「落ち武者狩り」とは、落ちぶれて逃げてきた武士を襲って、持っている刀などの武器や防具などを奪う行為です。武器や防具などは高く売れるからですね。

このときの義経が、東北地方へ入るために通った関所が、 ここ石川県小松市の安宅の関(あたかのせき)ということになります。

そしてその時の歌舞伎の演じるストーリーのことを、「勧進帳(かんじんちょう)」といいます。

やがて義経は、なんとか岩手県の平泉(ひらいずみ)にたどり着きます。
なぜ平泉かというと、かつて幼少時代にお世話になった奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)がそこにいて匿(かくま)ってもらいたかったからです。
しかし、奥州藤原氏は平泉にとてつもない財力を保持し、金色堂(こんじきどう)を初めとする栄華を誇っていたため、鎌倉にいる頼朝にとっても邪魔な存在で、脅威でもあり、一日も早く奥州藤原氏を滅ぼしたいと思っていました。

そして、平泉に義経がいることが鎌倉にバレると、頼朝は「義経を匿った罪で滅ぼす」という名目で岩手県まで進撃し、平泉を攻撃しました。
ここに義経は弁慶(べんけい)とともに悲劇の最期を迎え、奥州藤原氏の100年の栄華も滅ぶことになり、今は残された金色堂(こんじきどう)がそのときの栄華を虚しく語ることとなってしまいました。

話を小松市に戻します。

石川県小松市は、株式会社コマツの企業城下町(きぎょうじょうかまち)として知られます。

株式会社コマツは、簡単に言えば「パワーショベル」など、例えば建設に使ったり、穴を掘る(掘削/くっさく)のに必要な機械を作る会社です。
もうちょっと難しい言葉で言えば、「重機(じゅうき)」を作る会社といえます。

「企業城下町」とは、その町の住民の多くが、ある一つの(有名)企業の従業員だったり、その家族だったりする町のことです。
また、その特定の企業により大きな影響を受けている町であるともいえます。つまり、その企業が発展すれば、町全体も発展するということです。
逆に言えば、もしその企業が倒産などで無くなると、多くの住民が新しい転職先を求めて引っ越していなくなってしまうので、町が一気に衰退するリスクも企業城下町にはあったりします。
主な企業城下町の例として、トヨタ自動車の愛知県豊田市(とよたし)、日立製作所の茨城県日立市(ひたちし)などがあります。

株式会社コマツの作るパワーショベルは世界からも高く評価されており、海外からもたくさん買われています。
また、株式会社コマツはとても堅実な経営をしており、また投資家からの評判も非常に良いというふうに聞いております。
投資家は、明らかにすぐ潰れるような企業や、これから伸びないような企業には投資したくありません。逆にいえば、これから伸びる企業や、潰れる心配のない企業に対して投資家は投資したいと思うのが普通です。

小松市を訪れた際には、株式会社コマツのこうした知識について勉強してみるのも、旅の一つの趣(おもむき)といえます。

また、小松駅は2024年に北陸新幹線が敦賀まで延伸する時に、新しく開業する新幹線駅でもあります。

小松駅を過ぎると、今度は加賀市(かがし)を抜けて、石川県を後にして福井県に入ってゆきます!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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