鉄道唱歌 北陸編 第65番 長大な北陸トンネルを過ぎる 杉津駅の昔のあと

まずは原文から!

海のながめのたぐひなき
杉津(すいづ)をいでてトン子ル(トンネル)に
入(い)ればあやしやいつのまに
日はくれはてゝ暗(やみ)なるぞ

さらに読みやすく!

海のながめのたぐい(類い)なき
杉津(すいづ)をい(出)でてトンネルに
入(い)ればあやしやいつのまに
日はくれはてて暗(やみ)なるぞ

さあ、歌ってみよう!

♪うーみのながめの たぐいなきー
♪すいづをいでてー トンネルにー
♪いーればあやしや いつのまにー
♪ひはくれはててー やみなるぞー

(IRいしかわ鉄道線)
金沢駅→松任駅→美川駅→小松駅→動橋駅→大聖寺駅

(ハピラインふくい線)
大聖寺駅→細呂木駅→芦原温泉駅(旧・金津駅)→福井駅→大土呂駅→鯖江駅→武生駅→南条駅(旧・鯖波駅)→今庄駅→(北陸トンネル)→敦賀駅

(北陸本線)
敦賀駅→新疋田駅→近江塩津駅→余呉駅→木ノ本駅→長浜駅→米原駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
※北陸トンネル・新疋田駅・近江塩津駅・余呉駅は、鉄道唱歌の当時とはルートが異なります

今庄駅からは、北陸トンネルで敦賀へ

今庄駅(いまじょうえき、福井県南条郡南越前町)を出発すると、約13kmにも及ぶ北陸トンネルを通って、敦賀(つるが)方面へ向かって行きます。

かつて山側に存在していた杉津駅

かつて今庄駅からは、北の杉津駅(すいづえき)方面に向かっていました。

杉津駅は現在は廃止されていますが、鉄道唱歌の当時は、北にある海側のルートを通って、しかも勾配のかなりきつい道を登っていました。

歌詞によれば、(杉津駅のある)山の上から海が見られるというイメージだったのでしょう。

勾配のきつい坂道で連結された、補助機関車

昔は、勾配のきつい坂道を列車が登るのはかなりきつかったため、補助機関車というものを付けて、引っ張る(または後ろから押す)必要がありました。

その補助機関車を付けたり外したりする作業には時間がかかったため、その待ち時間に、人々は列車から降りて、釜めしそばなどの軽食を楽しんだのでした。

しかし、列車の性能がアップしたり、新しいトンネルのルートが掘られると、補助機関車の付け替え作業は無くなってしまいます。
すると、先述の釜めし屋さんやそば屋さんなどは繁盛しなくなって、姿を消していくことになります。

勾配のきつい坂道は、ボトルネックだった

全国各地の例を見ても、こうした勾配のきついルートというものは、輸送上のボトルネックになりかねません。
先ほど述べた「補助機関車の付け外し作業」もそうですが、それでなくても坂道は列車にとってはきついですし、カーブも多くなり、列車はスピードが出しづらくなります。

もちろん貨物輸送もそうですが、特急列車などもそうであり、所要時間が大きくなる要因になります。
特に特急列車は高速バスなどとの競合がありますから、少しでも所要時間は少ないに越したことはありません。

したがって、「新線」といって長大なトンネルを掘って、なるべくまっすぐのルートを確保するということが行われるわけです。

1972年に起きた、北陸トンネル火災事故

こうした背景から1962年に「全線電化」という仕様で誕生したのが、全長13kmにも及ぶ「北陸トンネル」です。

北陸トンネルはかつて
電化されているのだから、火災なんて絶対起きない
という安全神話が信じられていました。

しかし1972年11月、そのまさかの火災事故が起きてしまいます。
それは「北陸トンネル火災事故」というあまりにも悲惨だった事故です。

この火災はビュッフェ車、つまり食堂車から引火してできた火だったので、そもそも
「電化だから火災なんて起きない」
という話は全くの的外れだったのでした。

そしてこの北陸トンネル火災事故は夜中に発生しており、また多くの乗客が就寝中だったため、多くの乗客が逃げ遅れてしまいました。

またこの事故は、
「火災が発生してからは、とにかく突っ切ってトンネルから出る」
ことを優先すれば良かったのですが、当時は
「火災が起きたら(トンネル内で)停止する」
というルールだったため、列車はトンネルの非常に奥深くで炎上しながら止まったままの状態となり、これによってさらに消火活動が遅れてしまいました。

そして北陸トンネル火災事故の一報を受けた消防隊はなんとか到着したのですが、いかんせん列車がトンネルの非常に奥深い場所にいたために、たどり着けませんでした。
もちろん消防隊は敦賀側からも今庄側からも消火活動にアタックしたのですが、夜中の暗さもありトンネル奥まで暗くて行ける状況ではありませんでした。

結局、多くの乗客は犠牲となり、30人が死亡し714人が負傷するという、トンネル事故でもまれに見る悲惨な結果となってしまいました。

北陸トンネル火災事故の反省と教訓

そしてこの北陸トンネル火災事故をきっかけに、多くのことが見直されました。

まずは延焼(えんしょう)、つまり「燃え移り」を防ぐために、列車に用いられる素材は多くの耐火性(たいかせい)のある素材物質に取り替えられました。

また列車は、トンネルの中で一回事故起きると
「停止」ではなく「とにかく全速で突っ切って、トンネルから出ること優先する」というルールに改められました。

また同じ1972年には、大阪の「千日デパート」で悲惨な火災事故も起きています。
千日デパート火災も118名という多くのお客さん達が一酸化炭素中毒で亡くなられました。

これをきっかけに、消防設備や「消防法」などの法律などがさらに強化されることとなりました。

火災は一度起きると、本当に怖いものです。
しかし文明の発展に伴って大きな火災が起きるということは、これも仕方ないことでもあるのです。
しかし、大きな火災事故がおきるたびに、スプリンクラーなどの消防設備の充実や、また消防に関する法律などが厳しくなって、現代の我々の生活に至るのです。

北陸トンネルを通過するときは、犠牲になった人々やその後の人々の弛(たゆ)まざる努力のもとに今の我々の安心安全な暮らしがあることを、忘れないようにしたいものですね。

歌詞「トンネルに入り、世界は不思議と夜になった」

歌詞によれば杉津(すいづ)を過ぎると、またトンネルに入って世界はまるで夜のように闇の暗さになるという表現になっています。

あやしや」とは「不思議だ」という意味です。
つまり、
トンネルに入ったらあら不思議、日が暮れてあっという間に世界が闇になったよ
みたいな意味になります。

当時はトンネルの存在が、まだ珍しかったものと思われます。
それまで海の眺めが良かった杉津駅では余裕で昼の明るさだったものが、トンネルに入って急に夜の闇になったみたいな、そういった不思議な感覚を歌われているのでしょう。

杉津駅の駅跡は現在では、パーキングエリアとなっています。

北陸トンネルを抜けると、敦賀へ

そして長い長い北陸トンネルを過ぎると、やがて列車はいよいよ敦賀駅に到着です!

ちゅうい!おわりに

この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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