鉄道唱歌 北陸編 第67番 敦賀の気比の松原 天狗党・武田耕雲斎のあと

鉄道唱歌 北陸編の歌詞を、わかりやすく解説してゆきます!
敦賀の武田耕雲斎のあとについて、初心者の方にもやさしく解説してゆきます!

↓まずは原文から!

勤王きんのうにたふしたる
耕雲齋こううんさいをとへば
まつかげをゆびさして
あれと子供こどもはをしへたり

さらに読みやすく!

勤王きんのうに とおしたる
耕雲斉こううんさいの えば
まつかげを ゆびさして
あれと子供こどもは おしえたり

さあ、歌ってみよう!

♪みをきんのーうに とおしたるー
♪こううんさいのー ひをとえばー
♪まーつのこがけを ゆびさしてー
♪あーれとこどもは おしえたりー
(IRいしかわ鉄道線)
金沢駅→松任駅→美川駅→小松駅→動橋駅→大聖寺駅

(ハピラインふくい線)
大聖寺駅→細呂木駅→芦原温泉駅(旧・金津駅)→福井駅→大土呂駅→鯖江駅→武生駅→南条駅(旧・鯖波駅)→今庄駅→(北陸トンネル)→敦賀駅

(北陸本線)
敦賀駅→新疋田駅→近江塩津駅→余呉駅→木ノ本駅→長浜駅→米原駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
※北陸トンネル・新疋田駅・近江塩津駅・余呉駅は、鉄道唱歌の当時とはルートが異なります

日本三大松原「気比の松原」

列車は、既に福井県敦賀市つるがしに達しています。

敦賀市には、前回も解説した通り、

  • 気比けひ松原まつばら

という松原があります。

気比の松原(福井県敦賀市)

気比の松原(福井県敦賀市)

その「気比の松原」の近くには、

  • 武田耕雲斎たけだこううんさい

といわれる、幕末の武士のリーダーだった人物の像があります。

水戸浪士のリーダー・武田耕雲斎

武田耕雲斎たけだこううんさいは、旧・水戸藩みとはん天狗党てんぐとうと呼ばれた、武士の一団のリーダーです。

福井県敦賀市つるがしは、その天狗党のリーダーである武田耕雲斎が処刑された場所でもあるのです。

なぜ耕雲斎は敦賀で散ったのか 幕末の尊皇攘夷運動

ではなぜ天狗党と武田耕雲斎が幕末に登場して、また敦賀で処刑されることになったのか。

時代は幕末であり、尊王攘夷運動そんのうじょういうんどうと呼ばれる運動が盛んでした。

尊王攘夷運動とは、

「外国勢力を排除して、かつての古き良き日本である、天皇を中心とした国を守っていこう」

という動きのことです。

なぜかというと、外国勢力に日本が屈すると、それまで天皇を中心としてきた日本の伝統文化が損なわれる、という恐れがあったからですね。

なので、

「いや、むしろ外国の良いところをもっと取り入れて、新しい日本にしていくべきだ!」

という意見の人達と、対立するわけです。

水戸の「水戸学」

こうした動きを、水戸藩をはじめとする尊王攘夷派の人達が、黙って見ているわけにはいきません。

現在の茨城県水戸市みとしにあたる水戸藩みとはんでは、「水戸学」といって、尊王攘夷運動の基礎となった学問がありました。
つまり国を愛し、外国の影響を受けなくても日本の約2,600年にも及ぶ長い歴史の伝統文化を大事にした国を目指そう、という考え方です。

それは三重県松阪市まつさかし出身の本居宣長もとおりのりながの興した「国学こくがく」も関連してきます。


もちろんこうした考え方は、

  1. 外国の良い所を沢山勉強していて、
  2. そういった要素を、これから日本に取り入れていこう

といった考えの人達と、対立します。

尊王攘夷運動を推進する水戸の彼らにとって、ペリー・黒船来航以来に動乱し、外国の影響がちらついてきた当時の風潮を、黙って見ておくわけにはいきません。

筑波・茨城で結成された「天狗党」

そこで、水戸藩出身の彼らは

  • 天狗党(てんぐとう)

というグループを結成して、当時の日本の朝廷のあった京都に向かって、進んでいくことになります。

天皇はじめ、皇室はもちろん外国からの影響に反対する立場です。
そのため、同じ考えを持つ同士で、力を合わせようと考えたのでしょう。

西へ西へ、京都を目指す天狗党

天狗党は、まず茨城県の

  • 筑波山(つくばやま)

を出発し、

  1. 栃木県から群馬県に入り、
  2. 碓氷峠うすいとうげを通って、
  3. 中山道なかせんどう沿いに進んでいった

わけです。

中山道「和田峠の戦い」を突破

やがて中山道の、諏訪湖方面へ通じる

  • 和田峠(わだとうげ)

に天狗党が差し掛かったとき、ここで激戦が繰り広げられました。

この「和田峠の戦い」では天狗党にもかなり犠牲が出たといわれています。
しかし、なんとか勝利し、ここを突破します。

和田峠の戦いについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

中央線鉄道唱歌 第35番 中山道と甲州街道の合流点・下諏訪へ 下社と御船祭り
中央線鉄道唱歌の歌詞を、わかりやすく解説しています!鉄道の知識のみならず、歴史や旅行を楽しむためのノウハウを、鉄道に詳しくない人でも楽しめるよう解説してゆきます!

琵琶湖へ入るも、無念にも敦賀にて処刑される

そして西へ進み琵琶湖に入った天狗党ですが、ここで道を塞がれて阻まれてしまい、福井県の敦賀に一旦退避することになりました。

そしてここで力尽きた天狗党は、武田耕雲斎をはじめ、福井県敦賀市において処刑されてしまいました。

そして敦賀市には、「気比の松原」の近くに武田耕雲斎の像が建てられてます。

大和田建樹さんに「あれだよ」と教える子ども

ちなみに歌詞では、作者の大和田建樹(おおわだ たけき)さんが

武田耕雲斎の像はどこか」

と尋ねたら、あれ」と子供は教えたよ、となっています。

子どもに場所を尋ねて、松の木陰を指さして「あれだよ!」と教える子どもは、とても微笑ましいですね!

北陸編も残りわずかですが、終盤にきてこのやり取りは個人的になんだか癒される気がします。

次は敦賀駅を出発して南下し、滋賀県・琵琶湖方面へ向かいます!

ちゅうい!おわりに

この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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