鉄道唱歌 北陸編の歌詞を、わかりやすく解説してゆきます!
敦賀の武田耕雲斎のあとについて、初心者の方にもやさしく解説してゆきます!
↓まずは原文から!
耕雲齋の碑をとへば
松の木かげを指さして
あれと子供はをしへたり
さらに読みやすく!
耕雲斉の 碑を問えば
松の木かげを 指さして
あれと子供は 教えたり
さあ、歌ってみよう!
♪こううんさいのー ひをとえばー
♪まーつのこがけを ゆびさしてー
♪あーれとこどもは おしえたりー
金沢駅→松任駅→美川駅→小松駅→動橋駅→大聖寺駅
(ハピラインふくい線)
大聖寺駅→細呂木駅→芦原温泉駅(旧・金津駅)→福井駅→大土呂駅→鯖江駅→武生駅→南条駅(旧・鯖波駅)→今庄駅→(北陸トンネル)→敦賀駅
(北陸本線)
敦賀駅→新疋田駅→近江塩津駅→余呉駅→木ノ本駅→長浜駅→米原駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
※北陸トンネル・新疋田駅・近江塩津駅・余呉駅は、鉄道唱歌の当時とはルートが異なります
日本三大松原「気比の松原」
列車は、既に福井県敦賀市に達しています。
敦賀市には、前回も解説した通り、
- 気比の松原
という松原があります。

気比の松原(福井県敦賀市)
その「気比の松原」の近くには、
- 武田耕雲斎
といわれる、幕末の武士のリーダーだった人物の像があります。
水戸浪士のリーダー・武田耕雲斎
武田耕雲斎は、旧・水戸藩の天狗党と呼ばれた、武士の一団のリーダーです。
福井県敦賀市は、その天狗党のリーダーである武田耕雲斎が処刑された場所でもあるのです。
なぜ耕雲斎は敦賀で散ったのか 幕末の尊皇攘夷運動
ではなぜ天狗党と武田耕雲斎が幕末に登場して、また敦賀で処刑されることになったのか。
時代は幕末であり、尊王攘夷運動と呼ばれる運動が盛んでした。
尊王攘夷運動とは、
という動きのことです。
なぜかというと、外国勢力に日本が屈すると、それまで天皇を中心としてきた日本の伝統文化が損なわれる、という恐れがあったからですね。
なので、
という意見の人達と、対立するわけです。
水戸の「水戸学」
こうした動きを、水戸藩をはじめとする尊王攘夷派の人達が、黙って見ているわけにはいきません。
現在の茨城県水戸市にあたる水戸藩では、「水戸学」といって、尊王攘夷運動の基礎となった学問がありました。
つまり国を愛し、外国の影響を受けなくても日本の約2,600年にも及ぶ長い歴史の伝統文化を大事にした国を目指そう、という考え方です。
それは三重県松阪市出身の本居宣長の興した「国学」も関連してきます。
もちろんこうした考え方は、
- 外国の良い所を沢山勉強していて、
- そういった要素を、これから日本に取り入れていこう
といった考えの人達と、対立します。
尊王攘夷運動を推進する水戸の彼らにとって、ペリー・黒船来航以来に動乱し、外国の影響がちらついてきた当時の風潮を、黙って見ておくわけにはいきません。
筑波・茨城で結成された「天狗党」
そこで、水戸藩出身の彼らは
- 天狗党(てんぐとう)
というグループを結成して、当時の日本の朝廷のあった京都に向かって、進んでいくことになります。
天皇はじめ、皇室はもちろん外国からの影響に反対する立場です。
そのため、同じ考えを持つ同士で、力を合わせようと考えたのでしょう。
西へ西へ、京都を目指す天狗党
天狗党は、まず茨城県の
- 筑波山(つくばやま)
を出発し、
- 栃木県から群馬県に入り、
- 碓氷峠を通って、
- 中山道沿いに進んでいった
わけです。
中山道「和田峠の戦い」を突破
やがて中山道の、諏訪湖方面へ通じる
- 和田峠(わだとうげ)
に天狗党が差し掛かったとき、ここで激戦が繰り広げられました。
この「和田峠の戦い」では天狗党にもかなり犠牲が出たといわれています。
しかし、なんとか勝利し、ここを突破します。
和田峠の戦いについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

琵琶湖へ入るも、無念にも敦賀にて処刑される
そして西へ進み琵琶湖に入った天狗党ですが、ここで道を塞がれて阻まれてしまい、福井県の敦賀に一旦退避することになりました。
そしてここで力尽きた天狗党は、武田耕雲斎をはじめ、福井県敦賀市において処刑されてしまいました。
そして敦賀市には、「気比の松原」の近くに武田耕雲斎の像が建てられてます。
大和田建樹さんに「あれだよ」と教える子ども
ちなみに歌詞では、作者の大和田建樹(おおわだ たけき)さんが
と尋ねたら、「あれ」と子供は教えたよ、となっています。
子どもに場所を尋ねて、松の木陰を指さして「あれだよ!」と教える子どもは、とても微笑ましいですね!
北陸編も残りわずかですが、終盤にきてこのやり取りは個人的になんだか癒される気がします。
次は敦賀駅を出発して南下し、滋賀県・琵琶湖方面へ向かいます!
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