鉄道唱歌 北陸編の歌詞を、わかりやすく解説してゆきます!
初心者の方や詳しくない方にも、楽しめるよう解説してゆきます!
↓まずは原文から!
いでゝ見わたす琵琶の海
大津にかよふ小蒸汽は
煙ふきたて人をまつ
さらに読みやすく!
いでて見わたす 琵琶の海
大津にかよう 小蒸汽は
煙ふきたて 人をまつ
さあ、歌ってみよう!
♪いーでてみわたす びわのうみー
♪おおつにかーよう こじょうきは
♪けーむりふきたて きゃくをまつ
金沢駅→松任駅→美川駅→小松駅→動橋駅→大聖寺駅
(ハピラインふくい線)
大聖寺駅→細呂木駅→芦原温泉駅(旧・金津駅)→福井駅→大土呂駅→鯖江駅→武生駅→南条駅(旧・鯖波駅)→今庄駅→(北陸トンネル)→敦賀駅
(北陸本線)
敦賀駅→新疋田駅→近江塩津駅→余呉駅→木ノ本駅→長浜駅→米原駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
※北陸トンネル・新疋田駅・近江塩津駅・余呉駅は、鉄道唱歌の当時とはルートが異なります
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
※北陸トンネル・新疋田駅・近江塩津駅・余呉駅は、鉄道唱歌の当時とはルートが異なります
木之本を出て、長浜へ
木之本駅(滋賀県長浜市木之本町)を過ぎて、琵琶湖の東海岸沿いを、真っ直ぐ南下してゆきます。
やがて、米原駅のちょっと手前の
- 長浜駅(滋賀県長浜市)
に到着します。

長浜駅(滋賀県長浜市)

長浜駅(滋賀県長浜市)
ゴールとなる米原駅は、もはや目前です。
長浜ちりめん
滋賀県長浜市は、歌詞にあるように、「浜ちりめん」で有名な場所です。
「ちりめん」とは、ここでは織物の一種のことをいいます。
つまり、昔の日本の着物・和服のようなものです。
魚の「ちりめん」もありますが、こちらとは意味が異なるので注意しましょう。
昔の衣服は全部手作りだったため、大量生産できず、値段も高かった
昔は現代のように「しまむら」「ユニクロ」のように安くて高品質なものは買えませんでした。
そのため、人々の手作業によって和服を造っていたのです。
しかし、それだともちろん手間もかかりますし、大量生産もできないため、それだけ高価にもなります。
なので、こうした高い技術によって作られる「ちりめん」などの織物は、昔は貴重だったのでした。
現代でも、こうした伝統工芸品は貴重であり、またその地域の名物として存続の努力が、各自治体によってなされています。
その他の「ちりめん」 丹後ちりめん
また、ちりめんは京都の北部(日本海側)の丹後地方の、「丹後ちりめん」も有名です。
丹後国は、京都府の北部・主に日本三景・天橋立の周辺であり、
- 宮津市
- 舞鶴市
- 京丹後市
- 与謝野町
などが該当します。
丹後地域については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

豊臣秀吉が拠点にした、長浜城

長浜城(滋賀県長浜市)
長浜城は、かつて豊臣秀吉が拠点としたお城です。
それは、前々回から説明している「賤ヶ岳の戦い」に備え、ここを攻撃と防御の拠点とするためです(※)。
※もちろんそれだけが理由ではありません。
豊臣秀吉は後述するように、「賤ヶ岳の戦い」以前から長浜城を織田信長からもらっていました。

長浜からの、琵琶湖の景色(滋賀県長浜市)
豊臣秀吉がこのお城をもらったのは、かつて戦国時代に、長浜市を流れる姉川(あねがわ)を舞台にした、
- 姉川の戦い(あねがわのたたかい)」
に勝利し、そこで褒美として与えられた領地に対して、長浜城を建てたというわけです。
姉川の戦いについては、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

明治時代、まだ鉄道が無く、大津まで船が出ていた
かつて東海道線が米原から大津まで開業してなかった頃に、長浜港からは船で大津まで通っていました。
しかし1889年に東海道線が全通すると、大津~米原間が、鉄道でつながったのでした。
そのため、この区間の移動は船から鉄道に役割が移ることとなりました。
この当時の鉄道は、1872年に新橋から開業して以来、西へ西へと線路を延ばしていき、米原まで到達したというイメージです。
関西地方からも、東へ東へと線路を延ばしてゆき、大津まで到達しました。
残った大津~米原間だけは、まだ線路がなかったのでした。
そのため、この区間は長浜から琵琶湖を船で、大津まで連絡していたのでした。
やがて1889年に米原~大津間がつながり、東海道線は新橋~神戸まで続く1つの長大路線となったのでした。
長浜からの海(琵琶湖)の眺め
長浜駅からは豊公園という公園がすぐ近くにあります。
また、ここからは海(琵琶湖)が非常に近いため、とても便利です。

長浜からの琵琶湖(滋賀県長浜市)
豊公園の由来は、言うまでもなくかつて長浜城を拠点とした、豊臣秀吉に由来します。
では、次はいよいよ、鉄道唱歌 北陸編のゴールである米原に止まります!
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