鉄道唱歌 関西編 第4番 かつて楠木正成の息子・正行が戦った、四条畷

まずは原文から!

四條畷(しじょうなわて)に仰(あお)ぎみる
小楠公(しょうなんこう)の宮どころ
ながれも清(きよ)き菊水(きくすい)の
旗風(はたかぜ)いまも香(かお)らせて

さらに読みやすく!

四條畷(しじょうなわて)に仰(あお)ぎみる
小楠公(しょうなんこう)の宮どころ
ながれも清(きよ)き菊水(きくすい)の
旗風(はたかぜ)いまも香(かお)らせて

さあ、歌ってみよう!

♪しじょうなわてに あおぎみるー
♪しょうなんこうの みやどころー
♪ながれもきーよき きくすいのー
♪はたかぜいまもー かおらせてー

(JR東西線)
大阪城北詰駅(網島町)→京橋駅

(片町線(学研都市線))
京橋駅→放出駅→徳庵駅→住道駅→四條畷駅→星田駅→津田駅→祝園駅→木津駅

※鉄道唱歌に関係ある主要駅のみ表記
※網島駅、旧桜ノ宮駅は1913年に廃止
※現在の駅で最も近いものに置き換えてあります

※正式名称は「鉄道唱歌 関西・参宮・南海編」です。記事タイトルの便宜上、このようなタイトル(関西編)とさせていただいております。ご了承ください。

住道駅(すみのどうえき、大阪府大東市住道)を過ぎ、生駒山(いこまやま)をやや北東に迂回すると、四条畷駅(しじょうなわてえき、大阪府四條畷市)に着きます。

四条畷駅(大阪府四條畷市)

大阪府四條畷市(しじょうなわてし)は、今回も説明するように、楠木正成(くすのき まさしげ)の息子である楠木正行(まさつら)が、室町幕府の軍と戦って戦死した飯盛山(いいもりやま)があります。

四條畷(しじょうなわて)は、大阪の数ある難読地名の1つになります。
特に「(なわて)」の読みが、慣れるまで厳しいです。「ヌ」が4つもありますからね(^^;)

四條畷駅の東側にある飯盛山(いいもりやま)は、先述の通りかつて楠木正成の息子である正行(まさつら)が戦死した場所でもあります。

父の楠木正成(くすのき まさしげ)のことを「大楠公(だいなんこう)」といいます。

また、子の楠木正行(くすのき まさつら)のことを「小楠公(しょうなんこう)」といいます。

では、なぜ小楠公はここ四條畷の山で戦死したのか。

時代は鎌倉時代にさかのぼります。

1270年代、鎌倉幕府ができて90年ほど経ったときのこと。
元寇(げんこう)といって、モンゴル帝国というアジアで強大な支配力を持つ国が日本に攻めてきました。しかも二度に渡ってです。

鎌倉幕府は、膨大な軍事予算をかけて、幕府に忠実な御家人(ごけにん)を九州北部に派遣し、二度とも撃退します。
もちろん、これには「神風(かみかぜ)」という嵐が吹いたことにより、モンゴル帝国軍が壊滅して追い払うことができたのだとも言われています。

しかし、勝ったにも関わらず、当時の御家人たちはまったくの報酬や恩賞が与えられませんでした。
当時の武士の給料は「土地」であり、その土地から採れる作物によって生活していたのでした。
それだけ鎌倉時代には「土地」は超重要であり、生活がかかっていましまから、鎌倉時代の武士たちは何が何でも自分たちの土地を守る必要がありました。そのことから「一所懸命(一つの土地を命をかけて守る)」という言葉が生まれ、それが「一生懸命」に変化し、この「一生懸命」という言葉が生まれたとされています。

話が少しずれましたが、それだけ武士たちにとって「命」ともいえる土地を、命がけで外国勢力(モンゴル帝国軍)と戦って追い払ったのに、鎌倉幕府からは何も与えられない。

なぜなら、鎌倉時代には日本人同士の戦いなら相手の土地を報酬として与えることができたのですが、なにせ相手は外国だったため、撃退したところで土地を勝ち得られるわけではありません。
余談ですが、約50年前の1221年に起きた「承久の乱」では、天皇はじめとする西国(さいごく。西日本地方)の領地を勝ち得たため、この時鎌倉の武士はかなり豊かになりました(その後浪費・散財などでお金の使い方を誤って破滅した者もいた)。

これによって、鎌倉の武士は二度の「元寇(げんこう)」によって多大な費用の負担と無報酬という結果になり、借金をする者が続出しました。

これに伴い、鎌倉幕府は約15年後の1297年に「永仁の徳政令(とくせいれい)」というものを出します。
徳政令(とくせいれい)とは、借金をすべて無くしますよというものです。
一見するとすごいラッキーな施策に思えますが、よくよく考えるとこれは滅茶苦茶な施策なのです。
まず、お金を貸す側は、「必ず返ってくる」「利子をもらえて、それを収入にできる」という前提で貸しています。もちろん、最低でも返してもらわないことには生活が成り立たないという貸し手もいるでしょう。
しかし、徳政令によって金が返ってこないと、貸し手たちの生活がままならなくなります。
現代のように生活保護や保険など社会制度の充実していなかったであろう当時なら、もはや「盗む」「奪う」などの行為などでしか食うための生活を維持できなくなります。これにより、治安が悪化することになります。
また、この時代には北条氏(ほうじょうし)という一族が、執権(しっけん)といって独占的に政治の権力を握っており、北条氏に対する国内の不平不満も高まることになります。
このようにして、鎌倉時代の終わりには国内が混乱して「もう今の幕府ではだめだ」「幕府と北条氏を倒せ」という動きが高まることになります

そこで立ち上がったのが、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)や楠木正成(くすのき まさしげ)、新田義貞(にった よしさだ)、名和長年(なわ ながとし)、結城宗広(ゆうき むねひろ)などの人物です。

後醍醐天皇は一度は幕府に敗れて、島根県の沖に浮かぶ「隠岐の島(おきのしま)」に流されてしまいます。
なぜ死刑ではなく流罪なのかというと、さすがに天皇を死刑にするのはみな気が引けたからでしょう。

その後の後醍醐天皇は、先ほど挙げた名和長年に助けられ、隠岐を脱出しました。
このとき、天皇(君)の御船(みふね)を、名和長年が迎え入れます。これが大山(だいせん)のふもとにある、山陰本線・御来屋駅(みくりやえき、鳥取県西伯郡大山町)の由来になっています。御来屋駅の隣には、名和駅(なわえき、鳥取県西伯郡大山町御来屋)という駅もあります。

後醍醐天皇が復活した後、楠木正成や新田義貞らは、鎌倉へ侵攻・攻撃し、北条氏を滅亡させます。結果的に、楠木正成らの勝利におわります。
そして1333年、約150年続いた鎌倉幕府は滅亡します。

鎌倉幕府滅亡後は、後醍醐天皇によって新しい政治が行われます。これを「建武の新政」といいます。
しかしこの建武の新政は、公家や貴族ばかりを優遇し、武士を冷遇するものでした。

もちろん武士は不満をもち、足利尊氏を筆頭とする武士たちは後醍醐天皇に対して反逆を起こします
ここで楠木正成らは足利尊氏を、いったん九州へ追い返します。

しかし、足利尊氏は九州で力を蓄え、再び京都に攻め入らんとしていました。
あまりにも勢いに、楠木正成は「もはや、これまで」ということで、息子の正行(まさつら)と別れて最期の戦いに挑む覚悟をします。

この父子(ふし)が涙ながらに別れた事象を、「桜井の別れ」といいます。

桜井の別れについては、次回解説します。

そして最期の戦いとなった、神戸の「港川の戦い」で、父の楠木正成はここに虚しく戦死してしまいます。
最期には「たとえ七回生まれ変わっても、この国を守り抜いてみせる」と言い残したことは、鉄道唱歌 東海道編 第64番のところでも解説しました。

鉄道唱歌 東海道編 第64番 楠木正成公と湊川 たとえ7回生まれ変わっても国を守りたい

その後に残された息子の正行(まさつら)は、「四條畷の戦い」で高師直(こうのもろなお)という足利尊氏側の人物と戦って、無念にも敗れて最期を遂げました。

歌詞にある菊水(きくすい)とは、楠木正成を象徴する紋章(もんしょう)です。

次回は、「桜井の別れ」について解説します!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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