鉄道唱歌 関西編 第19番 亀山を出発し、紀勢本線を南下 一身田駅を過ぎ、やがて津市へ

まずは原文から!

龜山城(かめやまじょう)をあとにして
一身田(いっしんでん)も夢のまに
走ればきたる津(つ)の町は
參宮鐵道(さんぐうてつどう)起点の地

さらに読みやすく!

亀山城(かめやまじょう)をあとにして
一身田(いっしんでん)も夢のまに
走ればきたる津(つ)の町は
参宮鉄道(さんぐうてつどう)起点の地

さあ、歌ってみよう!

♪かめやまじょうを あとにしてー
♪いっしんでんもー ゆめのまにー
♪はしればきーたる つのまちはー
♪さんぐうてつどう きてんのちー

(紀勢本線)
亀山駅→一身田駅→津駅→阿漕駅→高茶屋駅→松阪駅→多気駅

(参宮線)
多気駅→田丸駅→宮川駅→伊勢市駅→二見浦駅(→至・鳥羽駅)

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記

※正式名称は「鉄道唱歌 関西・参宮・南海編」です。記事タイトルの便宜上、このようなタイトル(関西編)とさせていただいております。ご了承ください。

名古屋方面への寄り道の後、再び関西本線・亀山駅(かめやまえき、三重県亀山市)まで戻ってきます。
そして、亀山駅から先は伊勢(いせ)方面へ、紀勢本線(きせいほんせん)に乗っていくことになります。

亀山駅(三重県亀山市)

紀勢本線(きせいほんせん)は、三重県亀山市の亀山駅から出発して、はるか紀伊半島を一周回って、和歌山に至る路線です。

三重県亀山市(かめやまし)は、これまでも説明してきた通り関宿(せきしゅく)で知られます。
関宿(せきしゅく)とは、江戸時代の東海道(とうかいどう)という旅人たちが徒歩または馬で行き交っていた頃の宿場町です。
関宿に関する話題は鉄道唱歌 関西・参宮・南海編の第15番・第16番でも扱っていますので、そちらも是非ご覧ください。

鉄道唱歌 関西編 第15番 鈴鹿の山のトンネルを過ぎ、伊勢国へ やがて関宿に至る
鉄道唱歌 関西・参宮・南海編を、小学生にもわかりやすく解説しています。鉄道の知識のみならず、歴史や旅行を楽しむためのノウハウを、鉄道に詳しくない人でも楽しめるよう解説します。
鉄道唱歌 関西編 第16番 鈴鹿の関と、関宿 古代の三つの関所、その跡はどこに
鉄道唱歌 関西・参宮・南海編を、小学生にもわかりやすく解説しています。鉄道の知識のみならず、歴史や旅行を楽しむためのノウハウを、鉄道に詳しくない人でも楽しめるよう解説します。

また、亀山市は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)終焉の地ともされています。
「古事記」などの日本神話において、日本武尊は東国遠征(つまり、父の第12代・景行天皇(けいこうてんのう)に命じられて、関東地方を征伐しに行ったこと)に(奈良県を出発して)向かいました。

その戦いの後の帰りに、日本武尊は岐阜県と滋賀県の間にある伊吹山(いぶきやま)において、大蛇と戦ってフルボッコに敗れて致命傷を負ってしまいました。
やがて、日本武尊は三重県亀山市にたどり着いたあたりで亡くなってしまいました。
その後、日本武尊は(つる)となって、大阪府の羽曳野市(はびきのし)のあたりまで飛んでいったとされています。「羽曳野(はびきの)」の由来は、鶴となった日本武尊が羽を引いた(曳いた)ことに由来します。ちなみに羽曳野市は、プロ野球選手のダッビッシュ有さんの出身地です。
日本武尊の墓(御陵)は、奈良県御所市(ごせし)にあります。

三重県内の列車での移動は、主に「JR線」と「近鉄線」の二択になるのですが、JR線はどうしても近鉄線に比べて不利な印象を受けます。

JR線は一部を除いて単線(たんせん。1本の線路を、上り・下りの列車で共用して使う)が多いため、行き違いの列車を待避する必要性に迫られることになります。この待避により、余計に時間がかかってしまいます。
一方、近鉄線は基本的に複線(2本の線路)なので、行き違いの退避は発生しません。そのため、近鉄線はJR線と比べて有利な状況にあります。

また、近鉄線は線路の幅として、新幹線と同じの約1.4mの標準軌(ひょうじゅんき)を用いています。
標準軌はJR線の普通列車の線路で採用されている幅約1.0mの狭軌(きょうき)よりもやや広いため、スピードが出やすくなります。
また、近鉄線はJR線と比べて線形がよく、真っ直ぐな線路が多いため、これもスピードが出やすい要因となっています。

さらに、JR線は亀山駅まで大きく西へ迂回し、ここで線路がスイッチバックの構造になっています。
スイッチバック」とは、一旦先頭に車両を突っ込んで、バックしてからもう片方の方向へ発車する線路の形状で、「人」のような文字の形をした線路です。
実際には亀山駅でスイッチバック運転をすることはなく、大抵が亀山駅止まりであり、伊勢方面へ向かうには亀山駅でさらに乗り換え必須となるので、これも大きな時間のロスです。

そのため、JR線の名古屋から伊勢方面へ向かう快速列車(「快速みえ」号)では亀山駅を経由せず、四日市駅から(正確には、少し南の河原田駅(かわらだえき)から)津駅まで真っ直ぐ南下できる、いわゆる伊勢鉄道(いせてつどう)線経由となります。

ただし「伊勢鉄道線」はJR線ではないため、青春18きっぷのみでは利用できません。そのため、車内で(検札の方に対して)別途520円の支払いが必要となります。
この事からも、近鉄線がJR線に比べて有利な要因になっています。

これらのことから、名古屋~関西圏の交通利便性はJR線(関西本線)はほぼ諦めている印象があり、近鉄線の一本勝ちとなっています。
JR関西本線であれば、多くの場合、亀山駅と加茂駅での乗り換えが必須となります。

その代わり、名古屋~関西圏の移動は、東海道新幹線近鉄線と競合している印象があります。
大阪(新大阪または大阪難波)~名古屋の移動で、新幹線なら約50分で5,940円、近鉄線なら約2時間20分で4,790円です。
やや安くなる近鉄線は、確か昔、「浮いたお金で、美味しいものを食べよう」と宣伝していた記憶があります。これは恐らく競合する東海道新幹線を意識したフレーズだと思います。
(※もし私の記憶違いだったらすみません)

三重県では、「JR線」「近鉄線」「伊勢鉄道線」など、同じエリアに複数の並行した路線が入り乱れており、複雑になっています。
そのため、初めて三重県に来た人や土地勘のない人にとっては、その勘違いからくる「誤乗」が発生しやすくなります。
(例:近鉄線で名古屋に行くつもりが、間違ってJR線に乗ってしまった、など)

こういった事態を防ぐためか、三重県では普通列車にも、「きっぷ拝見」を行う検札(けんさつ)があります。
検札は全国他の地域では特急列車で特に多いと思いますが、三重県では普通列車でも検札を行うので、最初はちょっと戸惑ってしまいます。
ただ、三重県の検札の方々も乗客に不快な思いをされたくない気持ちからかなり気を遣っている様子もあるため、初めて青春18きっぷなどで三重県に行かれる方は、検札に戸惑わないようにしましょう。
従って、誤って「青春18きっぷ」で「快速みえ」に乗った場合は、JR線の区間ではない伊勢鉄道の区間を通過するため、車内で検札の方に対して別途520円を支払うという形になります。

鉄道唱歌の話題に戻ります。

亀山駅を出発して紀勢本線を南下すると、(つ)・松阪(まつさか)方面へ向かってゆきます。
そして、一身田駅(いっしんでんえき、三重県津市)に着きます。

「次は 一身田」
一身田駅(三重県津市)

一身田(いしんでん、いっしんでん)とは、奈良時代における「三世一身の法」において、後述するように家族三代にわたって続いた田んぼのことを一身田(いっしんでん)という風に言ったようです。

三世一身の法」とは、奈良時代における「田んぼを耕すためのルール」です。

西暦710年より始まった奈良時代は、当初は「公地公民」といって、国によって田んぼが民衆に対して無条件に与えられ(これがあまり有り難くない)、その田んぼ(口分田といいます)の収穫の3パーセントを納めよという決まりでした。
しかしこれに加え、租庸調(そようちょう)という税負担まで課せられました。租庸調とは、上記の収穫(米)に加え「布」の納付や「兵役」といった義務を課すことで、かなり重いものでした。
さらに、九州への外国からの侵略を防ぐため、防人(さきもり)という義務(兵役)まで課せられました。
もちろん九州までの旅費は自己負担であり、当時は飛行機も新幹線もないわけですから、あまりに遠すぎる険しい道を徒歩で行くため、途中で力尽きて倒れて死ぬ人も多いといった凄惨(せいさん)たる状態でした。

これだけ民衆の負担が重いと、必然的にみんな田んぼを捨てて逃げ出すようになります。こうなると田んぼは荒れ放題です。
国にしてみれば、せっかく田んぼを与えたのに、本来そこから入ってくるはずの税金も徴収できません。
何より民衆にしてみれば、田んぼを自分たちで自由に耕せず、しかも死んだら国に返す仕組みなので、これでは民衆のモチベーションは上がりません。

そこで西暦723年に出された法律が、「三世一身の法」です。

この法律では、自分たちで耕した田んぼは、子ども・孫の三代までは国に返さなくていいことにさせ、新規に田んぼを耕すためのモチベーションアップを図ったのです。
三代をまとめて「一身(一人)」と見做したわけですね。

このようにして出来た田んぼが、いわゆる「一身田(いっしんでん)」です。

しかし、結局は孫の三代が終わると、その田んぼ(一身田)は国へ返さなければならず、不公平であることには代わりませんでした。

そこで出来たのが、743年の「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」です。
これによって、民衆は好き放題に田んぼを耕して、頑張った分だけお米が採れるという資本主義のような仕組みに代わりました。
しかしそれと同時に、奈良時代初期の公地公民制は崩壊することになります。
このように、力のある人はどんどん耕してゆき、田んぼはより広大になり、その膨大な利益でさらに耕してゆくようになります。こうして出来た巨大な田んぼを、「荘園」といいます。
特に平安時代にかけてできた「荘園」は裕福なので、常に略奪の危機にありました。その略奪を防ぐため、武装した農民が出てくるようになります。これが「武士」のはじまりです。

一身田駅周辺の田んぼ。万葉の昔(奈良時代)から、この田んぼで耕していたのでしょうか。

一身田駅から大変話題が逸れて申し訳ないですが、歌詞の通り一身田駅を「夢の間に」過ぎると、やがて窓の景色は県庁所在地に相応しい、都会的な様相を呈してきます。

三重県の県庁所在地である津市(つし)の中心駅、津駅(つえき、三重県津市)に到着です。

津駅(三重県津市)。ひらがな1文字という強烈なインパクトある駅名標だ

三重県津市(つし)は三重県の県庁所在地であり、また「津()」はひらがな一文字で読めるので、津駅の駅名標ひらがな一文字で書かれているので凄くインパクト大です。
なので、津駅の駅名標は遠くから見ると「はてな(?)」の文字に見えるようです。

元々、1950年代までは三重県最大の都市は県庁所在地の津市でした。
ところが1960年代以降の高度経済成長期の頃に、四日市市で大量に石油化学コンビナートなどが誘致されるようになり、そこで働く人々が大量に増えたため、人口では四日市市が津市を上回ってしまいました。

しかし、津駅周辺はやはり県庁所在地だけあって、都会的でそれなりに商業施設も多く、青春18きっぷで三重県の旅をするときは必ず降りたい駅です。
津駅にはドトールコーヒーもあり、休憩や買い物など様々な目的で津駅ではやはり降りたいところです。

歌詞には「(津駅は)参宮鉄道起点の地」とありますが、これはあくまで鉄道唱歌の明治時代の話です。

明治時代、亀山駅から津駅まで延びてきた鉄道は、さらに伊勢神宮へ参拝する客を乗せたいということで、「参宮鉄道」という民間の鉄道会社が津駅から先に独自に路線を造ったことが始まりです。
現在ではJR紀勢本線の一部であり、JR参宮線は松阪市(まつさかし)より南の多気駅(たきえき、三重県多気郡多気町)が紀勢本線と参宮線との分岐点になりますので、歌詞の内容と混同しないよう注意しましょう。

次は、津市にある結城神社(ゆうきじんじゃ)の話題となります!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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