まずは原文から!
建築(けんちく)ふるき法隆寺(ほうりゅうぎ)
紅葉(もみじ)そめなす龍田山(たつたやま)
散歩がてらに片道(かたみち)を
乘(の)りたる汽車(きしゃ)は半時間(はんじかん)
さらに読みやすく!
建築(けんちく)ふるき法隆寺(ほうりゅうぎ)
紅葉(もみじ)そめなす龍田山(たつたやま)
散歩がてらに片道(かたみち)を
乗りたる汽車(きしゃ)は半時間(はんじかん)
さあ、歌ってみよう!
♪けんちくふーるき ほうりゅうじ
♪もーみじそめなす たつたやまー
♪さーんぽがてらに かたみちをー
♪のりたるきしゃは はんじかんー
(奈良観光)
奈良駅→近鉄奈良駅→若草山→奈良公園→春日大社→興福寺→猿沢池→東大寺→法華寺→西大寺→秋篠町→法隆寺→竜田山→佐保山→奈良駅
※鉄道唱歌に関連する観光地・神社仏閣のみ表記
※正式名称は「鉄道唱歌 関西・参宮・南海編」です。記事タイトルの便宜上、このようなタイトル(関西編)とさせていただいております。ご了承ください。
今度の「奈良めぐり」は、奈良駅より大和路線(やまとじせん)に乗って、法隆寺(ほうりゅうじ)方面へ行くことになります。
法隆寺は、奈良市のやや南西、大阪府との県境近くの斑鳩町(いかるがちょう)にあります。
奈良駅より大和路線(やまとじせん)を大和路快速(やまとじかいそく)で、南西に約11分ほど進めると、やがて法隆寺駅(ほうりゅうじえき、奈良県生駒郡斑鳩町)に着きます。
歌詞では半時間(30分)とあり、現在は上記の通り11分です。当時と現代での列車性能の差が歴然ですから、技術の進歩はすごいものです。
法隆寺(ほうりゅうじ)は、言うまでも無く聖徳太子の建立(こんりゅう)です。飛鳥時代に建てられました。
そして法隆寺は、「日本最古の木造建築」と言われます。
ちなみに「日本最古の仏像」というと、長野県の善光寺(ぜんこうじ)にある仏像になります。長野・善光寺の仏像は、遠く飛鳥時代に本田善光(ほんだ よしみつ)という人物が拾った仏像になります。
この辺りは間違えやすいので、勘違いしないように注意しましょう。
法隆寺は、どちらかというとそのデザインが中国の建築に影響を受けているような印象です。
仏教が伝来した538年、当時の中国の王朝である隋(ずい)はかなり進んでいまし、西暦600年には遣隋使(けんずいし)が派遣され中国の文化を積極的に学んだり持ち帰ったりしていましたから、隋のようなデザインに影響を受けるのは自然だったのかもしれません。
また、法隆寺や大阪の四天王寺(してんのうじ)にもいえることですが、柱の中央部分が膨らんでいる「エンタシス構造」になっています。
エンタシス構造は柱の真ん中を太くすることで、遠くから見るとやや力強い印象を持たせるという効果があります。
西暦538年に仏教が大陸から伝わってくると、それまでの日本のオリジナル宗教だった神道(しんとう)と対立することになります。
また、それまでは古墳時代であり、あちこちで古墳が建設される古墳ブームになっていました。
また、仏教を持ち込んだ当時の中国のお坊さんが日本に沢山ある古墳を見て、
「なんだ、このバカでかい墓は。こんなデカい墓を造ってる暇や金があれば、もっと人々を救うためにお寺を建てるべきだ」
と言い、それを言われた日本人も
「うーん、確かにその通りだ」
となって、急速に古墳ブームは廃れ、古墳時代は終了し、飛鳥時代となってゆきました。
当時の国内は、物部氏(もののべし)と聖徳太子が対立していました。
物部氏は、あくまでも日本を「それまでの神道を中心とした路線」を維持したかったのですが、仏教を推進する聖徳太子との戦いに敗れました。
また、この戦いに勝った聖徳太子は大阪に四天王寺(してんのうじ)を建てました。
四天王寺も先述の通り、法隆寺と同じで柱が「エンタシス構造」になっています。
また、四天王寺はお寺でありながら神社の鳥居(とりい)があるため、神道と仏教が混じり合った「神仏習合」のお寺といえます。
聖徳太子は、現代では厩戸皇子(うまやどのおうじ)と呼ばれることも多いようです。
最近の小学生・中学生向けの歴史学習本などを読んでも、「厩戸皇子」と書かれているケースが多いです。
その理由として、今からおよそ15年くらい前から世間一般で「聖徳太子は実は存在しなかった」と言われることも多くなったことが挙げられます。
確かに、聖徳太子は「10人の会話を同時に聞き分けた」など、かなり超人的なエピソードが多いです。また、馬宿(うまやど)で処女の母親から生まれたことなど、キリスト教との類似点(影響?)も多いとも思われます。
こうしたことから、聖徳太子の数多くのエピソードは「厩戸皇子」という実在した人物に対して神秘性・超人性を持たせるための後付け設定であり、作り話だったのでは?と考える人も多いのです。
なぜ聖徳太子にこのようなスーパーヒーロー性を持たせる必要があったのかというと、当時の荒れ狂っていた社会・国内を効率よく統治するため、聖徳太子の神秘性を持たせる必要があったのだと考えられています。
これが、「聖徳太子は実在しなかった」と考える人々の主張・根拠です。
もちろんこれには諸説あり、飛鳥時代という大昔のことはタイムマシンでも発明されない限り、その真相・真偽を確かめることは不可能です。
聖徳太子は実在したかもしれませんし、しなかったかもしれません。
あなたは、どの説を信じるでしょうか。
聖徳太子は仏教を中心とした国作りを理想として進めました。
なぜならば、古墳時代までは各地方の豪族がやりたい放題やっていたからです。
つまり、日本国内は「クニ」とそれを支配する「大王(おおきみ)」の世の中でした。
それぞれの大王が自分のクニを好き勝手に治めており、クニごとにルールも異なるため、他のクニともしょっちゅう争っている状態でした。
もしそれぞれの地方で法律などのルールが異なっていたら、大変なことになります。
例えば
「Aというクニでは、いかなる理由があっても殺人は禁止」
「Bというクニでは、正当な理由があれば殺人もOK」
のようにルールが異なっていた場合、当然ながらAとBで揉める原因となります。
ここでクニBの民がクニAの民を殺してしまった場合、クニAは
「なんてことするんだ!殺人はいかなる理由があろうと犯罪だろ!」
となりますし、クニBは
「いや、正当な理由があったからやったんだ!それがうちのクニのルールなんだ!」
とそれぞれ主張します。
こうなったら大変であり、クニ同士の争いが絶えず日本国内は荒れ果ててしまいます。
こうした地方ごとにバラバラなのを排除し、中央ですべて政府機能をまとめ、律令(りつりょう)というルールで日本国内のルールを全部統一しよう、というのが「中央集権国家」の思想です。
そして聖徳太子の時代にその構想は始まり、大化の改新を経て、701年の「大宝律令」によって中央集権国家は誕生するのです。
竜田山(たつたやま)は、法隆寺の北にある山のことです。
歌詞にある通り、秋は紅葉の名所になります。
また、竜田揚げ(たつたあげ)という唐揚げ(からあげ)も、奈良県のこの地域が発祥とされています。
次は、再び奈良駅に戻り、佐保山(さほやま)の話題となります!
注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
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