鉄道唱歌 関西編 奈良めぐり7 聖武天皇の御陵・佐保山を探訪 

まずは原文から!

北にめぐれば佐保山(さほやま)に
見ゆる御陵(ごりょう)は聖武帝(しょうむてい)
をがむ袂(たもと)の露(つゆ)けきは
草(くさ)も昔やしのぶらん

さらに読みやすく!

北にめぐれば佐保山(さほやま)に
見ゆる御陵(ごりょう)は聖武帝(しょうむてい)
おがむ袂(たもと)の露(つゆ)けきは
草(くさ)も昔やしのぶらん

さあ、歌ってみよう!

♪きーたにめぐれば さほやまにー
♪みゆるごりょうは しょうむてい
♪おーがむたもとの つゆけきはー
♪くーさもむかしや しのぶらんー

(奈良観光)
奈良駅→近鉄奈良駅→若草山→奈良公園→春日大社→興福寺→猿沢池→東大寺→法華寺→西大寺→秋篠町→法隆寺→竜田山→佐保山→奈良駅

※鉄道唱歌に関連する観光地・神社仏閣のみ表記

※正式名称は「鉄道唱歌 関西・参宮・南海編」です。記事タイトルの便宜上、このようなタイトル(関西編)とさせていただいております。ご了承ください。

今回は、現在のJR奈良駅のやや北東にある、「佐保(さほ)」というエリアの話題になります。

佐保村(さほむら)は、奈良駅のやや北東にあるエリアのことです。
ここに、あの聖武天皇(しょうむてんのう)の御陵(ごりょう)、つまりお墓があります。

聖武天皇(しょうむてんのう)は、ご存じの通り「奈良の大仏盧舎那仏/るしゃなふつ)」や「東大寺(とうだいじ)」を建てた奈良時代の天皇ですが、そんな聖武天皇は常に社会不安の絶えない、激動の人生を送ってきました

当時の奈良の都では、疫病・凶作・災害・政権争い・犯罪などが多発して、とても人々が安心して暮らせるような世の中ではありませんでした

現代では、清潔かつ廃棄物の基準も厳しいので、有害物質に接する機会は少なく、(昔に比べれば)なかなか病気にもなりにくい世の中にはなっています(これが平均寿命が延びる要因にもなっている)。

しかし、当時は清潔とは程遠く、現代ほど有害物質や病原体などに対する知識や研究もあまりなかったわけですから、一度病気が蔓延すると大変なことになっていました。病気で早死にする人も多く、人々はたくさん栄養を取ったり、薬草などを用いたり、仏様の力を借りるぐらいしか病気に対処する方法はありませんでした。

また、昔は現代のように農業の知識も発達しておらず、たとえは「灌漑(かんがい)」や「ダム」などのようにを溜めておいて(日照りの時は)そこから水を引っ張ってくるといったノウハウが(現代に比べて)充実していませんでしたから、より豊作になる(誰もが欲しくなる)土地を巡って争ったり、他の豊作になった田んぼ(や荘園)からお米を奪うといった略奪行為も普通でした(この行為から自身の田んぼ荘園を守るために生まれた武装した農民が、いわゆる「武士」の起源)。

奈良時代は、平城京ができると、当時の木造家屋をたくさん建てるために、たくさんの木材が必要となりました。それによって、木津川(きづがわ)周辺の山々からたくさんの木材を伐採してきたため、周りの山々は禿げ山となり、保水能力が無くなり、大雨のときに大量の水が山の斜面を下り落ちて、奈良の町には大洪水が発生します。
また、木造家屋が多いということは、ひとたび火事が起きると途端に燃え移り、街全体が大惨事になります。すると新たに町を再建するために大量の木材が必要となり、さらに深刻な木材不足と禿げ山の増加となり、悪循環となっていました。

奈良時代は、天皇の神聖性を保つため、皇族同士で交配(子どもを作ること)が行われていました。今でいう、近親相姦(きんしんそうかん)です。これによって血が濃くなり、体が弱い(病弱な)天皇が続出し、在任期間の短い天皇が多くなりました

また、奈良時代は「長屋王の変」や「恵美押勝の乱」など、醜い政権争いが行われた時代でもあります

長屋王の変(729年)とは、藤原不比等(ふひと)の息子兄弟である「藤原四兄弟」と、当時の皇族の長屋王(ながやおう)が争った戦いです。
藤原不比等(ふひと)とは、藤原鎌足中臣鎌足)の息子であり、701年に大宝律令(たいほうりつりょう)を作ったり、710年の平城京遷都に尽力した人物です。
その藤原不比等の息子兄弟が、藤原四兄弟となります。
長屋王は藤原氏の勢力を削ぐために反乱を起こしましたが、残念ながら敗北しました。

その藤原四兄弟の一人である藤原武智麻呂(ふじわらの むちまろ)の息子が、藤原仲麻呂(ふじわらの なかまろ)です。

藤原仲麻呂(なかまろ)は中国(唐)の影響を受けていたため、後に唐風の名前である恵美押勝(えみの おしかつ)に名前を変えています。

その恵美押勝(えみの おしかつ)が、称徳天皇(女性)に恋愛感情を持たれて贔屓(ひいき)された道鏡(どうきょう)というお坊さんを撃退するため、反乱を起こしましたが敗れてしまいました(恵美押勝の乱)。

奈良時代はこのような「皇位継承問題」や「政権争い」が頻発し、とてもカオスな状況にありました。
常にこのような政権争いがあり、自分たちにとって都合のいい天皇を立てようとして揉めたりなど、凄惨たる争いになっていました。

さらに奈良時代は先述の道鏡をはじめとする仏教勢力が増してきて、お寺が政治に介入(口出し)することも多くなってきました。
しまいには道鏡(どうきょう)のように皇族でもなんでも無いお坊さんが「俺が天皇になる!」と言い出し(先述の称徳天皇による過度なヨイショもあった)、和気清麻呂(わけきよまろ)が大分県の宇佐神宮(うさじんぐう)にまで赴き、神様のアドバイスを求めに行った事件は有名です。

古墳時代まではそれぞれの「クニ」「ムラ」「大王(おおきみ)」が好き放題やり、クニ同士で争ったりと日本国内はカオス状態でした。
そんな状況を打破すべく、聖徳太子が天皇を中心とした国を造ることで日本を一つにまとめる「中央集権国家」の理想をかかげ、701年の大宝律令(たいほうりつりょう)によってその基礎がようやく築かれました。
しかし日本を中央に一つにまとめたはいいものの、今度は中央の内部同士で醜い政権争いが起きるのですから、当時はもはや誰の手にも負えない状態でした。

こうした状況を憂いた聖武天皇は、恭仁京(くにきょう、現代の京都府木津川市(きづがわし)・加茂駅のあたり)や大阪の難波宮(なにわのみや)、さらに紫香楽宮(しがらきのみや、現代の滋賀県甲賀市(こうかし))など、何回も都を移しています。
当時は先述のカオスな政権争いや社会不安に加え、現代よりも祟り(たたり)や自然現象の脅威を信じていましたから、聖武天皇は何度も都を移したのかもしれません。もちろん、先ほど述べた奈良の仏教勢力からの影響(政治に対して介入してくら)から逃れる目的もあったでしょう。

しかし、聖武天皇のこの何度も都を移す行為によって、(都の建設に従事する)民衆にとっても多大なコスト・労力・負担でもあり、むしろかなり人々はかなり疲弊したとも言われます。

そして743年、聖武天皇東大寺(とうだいじ)に盧舎那仏(るしゃなふつ)、通称・「奈良の大仏」を建てました。
もちろん、この大仏の建立(こんりゅう)にも巨額の費用がかかっており、民衆の負担も大きかったでしょう。
しかし、聖武天皇の願い通り、これによって上記の様々な社会不安から民衆が救われるのであれば、その負担に見合う価値があると考えられたのでしょう。

そうして人々を社会不安から救うために、様々な取り組みを行ってきた聖武天皇も、今は奈良駅の北東にある佐保山(さほやま)の御陵(ごりょう)に眠っておられるわけです。

また、佐保村(さほむら)は、かつて「大仏駅(だいぶつえき)」という大仏線の駅が通っていました。
鉄道唱歌の時代には、加茂駅~奈良駅間を北東にショートカットに結ぶ「大仏線」という路線があったことは、鉄道唱歌 関西・参宮・南海編第7番のところでも解説した通りです。
そして、奈良の大仏の観光を容易にするために、「大仏駅」というものが置かれていました。
しかし、「大仏駅」は東大寺からは約2km近く離れている駅であり、しかも明治時代の当時は路線バスやタクシーなどありませんでしたから、駅前には人力車などがたくさんスタンバイしていたようです。

しかし現代は、加茂駅から奈良駅までは、ご存じのように木津駅(きづえき)経由になっています。
そのため、大仏線は存在意義がなくなり、大仏線と大仏駅は廃止になっています
今でも、佐保地域には、大仏駅の駅跡があります。

(たもと)とは、ここでは「涙」のことをいきます。
鉄道唱歌ではよく「袂を絞る(たもとをしぼる)」とという表現が使われますが、これは「涙を流す」という意味です。

(つゆ)けきとは、恐らくこれも目から流れ出る「涙」のことになるでしょう。

草も昔や偲(しの)ぶらん」とは、聖武天皇の御陵に生えている草ですら、聖武天皇の激動の人生を思いながら涙を流しつつ、昔を想うのだろう、というような意味になるでしょう。

次は、いよいよ「奈良めぐり」のラストとなります!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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