鉄道唱歌 関西編 第35番 長谷寺と初瀬川 初瀬街道の宿場町と、初瀬川の夕景色

まずは原文から!

初瀬(はつせ)列樹(なみき)の宮のあと
問(と)はんとすれば日は落ちて
初瀬(はつせ)の川の夕波(ゆうなみ)に
ふくや初瀬(はつせ)の山おろし

さらに読みやすく!

初瀬(はつせ)列樹(なみき)の宮のあと
問(と)わんとすれば日は落ちて
初瀬(はつせ)の川の夕波(ゆうなみ)に
ふくや初瀬(はつせ)の山おろし

さあ、歌ってみよう!

♪はーつせなみきの みやのあとー
♪とわんとすればー ひはおちてー
♪はつせのかーわの ゆうなみにー
♪ふーくやはつせの やまおろしー

(桜井線/万葉まほろば線)
奈良駅→帯解駅→天理駅(旧・丹波市駅)→三輪駅→桜井駅→香久山駅→畝傍駅→高田駅

(近鉄大阪線)
桜井駅→大和朝倉駅→長谷寺駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記

※正式名称は「鉄道唱歌 関西・参宮・南海編」です。記事タイトルの便宜上、このようなタイトル(関西編)とさせていただいております。ご了承ください。

列車は既に、奈良県桜井市(さくらいし)に到達しています。
桜井駅からは近鉄大阪線に乗り換えて、やや東に向かい、そこに初瀬(はつせ)・長谷寺(はせでら)という、奈良の歴史を語る上で非常に重要な桜の名所があります。

かつて江戸時代までは、桜井からは三重県方面に向かって初瀬街道(はつせかいどう)という、人々が徒歩または馬で何日もかけて旅して進んでいく街道がありました。
昔は自動車も鉄道もありませんでしたから、徒歩または馬での移動が主流だったのです。

それは三重県の名張市(なばりし)を経由しているため(その後は伊賀市方面へ北上)、名張市までのその街道と沿線の町への交通は、現在の近鉄大阪線や自動車の道路に置き換えられているといっていいでしょう。

人々の移動手段が鉄道に置き換わると、それまで徒歩または馬で移動していた人たちはもはや従来の街道を使う必要がなくなるため、何もしないと必然的に街道沿いの町は衰退していきます。
しかし、その衰退を回避するために、私鉄の鉄道会社がかつての宿場町沿いに線路を引いていったケースもあります。鉄道がうまく通れば、宿場町の衰退は回避できるというわけです。

また初瀬街道は、かつて672年の壬申の乱(じんしんのらん)の時に、後の天武天皇(てんむてんのう)になる大海人皇子(おおあまのおうじ)が、三重県の名張(なばり)へ向かって、さらに岐阜・美濃(みの)へ向かうルートとして通った道でもあります。
大海人皇子は当初の予定では兄の天智天皇(てんちてんのう)の次に天皇になるはずだったのですが、天智天皇の子である大友皇子(おおとものおうじ)にその座を奪われたため、反乱を企てます。
大海人皇子は名張や美濃を経由する際にたくさん兵士を味方につけ、美濃から不破関(ふわぜき。現在の関ヶ原)を越えて、一気に(自分から天皇の座を奪った)大友皇子(おおとものおうじ)が待ち受ける滋賀県大津市の瀬田の唐橋(せたのからはし)へ攻めていきます。
大友皇子は大海人皇子の進撃を防ぎ切れず、壬申の乱では敗北して自害となりました。
一方、戦いに勝利した大海人皇子は、天武天皇(てんむてんのう)として即位しています。

初瀬は、「長谷(はせ)」とも書きます。
「長谷」は、長い谷と書きます。いわば「峡谷」です。
峡谷(きょうこく)とは、川の水で山が侵食され、深く下へ削られてできたものです。単に「(たに)」ともいいます。
水が流れると、流れる水によってその地面はどんどん削られてゆきます。
地面が川の水で削られていくと、山と山に挟まれた地面はどんどん下へ深くなってゆき「谷」ができていくわけです。
そのようにして出来たのが「峡谷」であり、その峡谷が「長谷(はせ)」というわけです。
その「長谷」は、初瀬川(はつせがわ。「大和川」とも)によって作られた峡谷というわけですね。

歌詞によれば、初瀬にかつて存在した宮の跡(つまり前回解説した、雄略天皇が構えた「泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)」)を誰かにどことなく問おうとしてしまえば、時刻はもう既に夕方となっており、東に沈んでしまったということです。
そして初瀬川(大和川)のその夕景色。
その夕波にあおられる初瀬川の上の山から、「初瀬おろし」という風が吹いてくるわけです。

なんだか想像するだけで心が落ち着きますね。

おろし」とは、山から吹き下りる風のことであり、またこの風が涼しく、またはこの風を全身に受けることで寒くなったりします(つまり、体感温度が下がって寒く感じる)。

初瀬川の景色(奈良県桜井市)

初瀬(はつせ)・長谷寺(はせでら)の周辺には、冒頭に述べた初瀬街道(はつせかいどう)の宿場町があったので、現代でも江戸時代からの木造建築の建物が並び、往時(おうじ)の宿場町の面影を残しています。
日本の各地主要都市は、戦時中に空襲でみな焼かれてしまいましたから、江戸時代の建物が残っているケースは珍しいのです。
京都など空襲を免れた都市は、古くからの建物が残っているため貴重であり、外国人から人気があるのです。

長谷寺(はせでら)は、飛鳥時代に先述の天武天皇(てんむてんのう)の晩年に天武天皇の病気治癒を願って建てられたお寺です。
天武天皇とは、先ほど述べたように「壬申の乱」で勝利して即位した天皇です。

次は、多武峰(とうのみね)の解説をします!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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