鉄道唱歌 関西編 第36番 多武峰・談山神社 中臣鎌足と中大兄皇子が語り合った山

鉄道唱歌 関西・参宮・南海編の歌詞(多武峰・談山神社・中大兄皇子・中臣鎌足)について、わかりやすく解説してゆきます!

↓まずは原文から!

さぐる名所めいしょたのしさに
思はずのぼる多武峰とうのみね
みねにかがやく鎌足かまたり
やしろのあたり花おほし

さらに読みやすく!

さぐる名所めいしょの たのしさに
思わずのぼる 多武峰とうのみね
みねにかがやく 鎌足かまたり
やしろのあたり 花おおし

さあ、歌ってみよう!

♪さぐるめいしょの たのしさにー
♪おもわずのぼるー とうのみねわ
♪みーねにかがやく かまたりのー
♪やしろのあたりー はなおおしー
(桜井線/万葉まほろば線)
奈良駅→帯解駅→天理駅(旧・丹波市駅)→三輪駅→桜井駅→香久山駅→畝傍駅→高田駅

(近鉄大阪線)
桜井駅→大和朝倉駅→長谷寺駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
※正式名称は「鉄道唱歌 関西・参宮・南海編」です。記事タイトルの便宜上、このようなタイトル(関西編)とさせていただいております。ご了承ください。

多武峰(奈良県桜井市)

列車は既に、奈良県桜井市(さくらいし)に到達しています。

今回は、奈良県桜井市のやや南東にある、多武峰とうのみねという山の話題となります。

「大化の改新」の話し合いが行われた山

また、645年に起きた「大化の改新たいかのかいしん」についての話し合いの場所となった、多武峰にある談山神社だんざんじんじゃについての話題になります。

多武峰とうのみねとは、奈良県桜井市さくらいしの南にある山のことです。

談山神社(だんざんじんじゃ)

多武峰とうのみねには、談山神社だんざんじんじゃ/かたらいやまじんじゃという神社があります。

談山神社だんざんじんじゃは、

  • 中臣鎌足なかとみの かまたり
  • 中大兄皇子なかのおおえのおうじ

が、蘇我入鹿そがのいるかを倒すための談合だんごう、つまり内緒の話し合い・作戦立てを行った場所になります。

藤原氏の祖となった、中臣鎌足

※本セクションは、本題とは関係ない余談がかなり混じっています。読み飛ばしてもらってかまいません。

中臣鎌足なかとみのかまたり(なかとみの かまたり)は、後に藤原鎌足ふじわらのかまたりといって、天皇から「藤原ふじわら」という苗字を与えられた人物です。

これはつまり、中臣鎌足(藤原鎌足)が全国の「藤原さん」の祖先である事を意味します。
また、藤原氏(ふじわらし)は平安時代にかけてとても栄えたため、「藤原」を名乗る人物はとても多くなりました。

そのため、「おい、藤原!」と呼ばれても、はたして誰のことを呼ばれているのかわからなくなります。

たくさんの「同姓」がいると、誰が呼ばれているのかわかりにくい・・・

現代でも、職場に「佐藤」という苗字の人が複数人いた場合に、

  • おい、佐藤!
  • 佐藤さんがね~

と言われても、どの佐藤さんか判らなくなりますよね。

※ちなみに「佐藤」は、「鈴木」「田中」「渡辺」などと並んで、現代日本でとても多い苗字になります。

たくさんの「~藤」さんに分けられた

藤原」を名乗る人があまりにも多くなったため、

「近藤」「斎藤」「佐藤」「内藤」「加藤」「工藤」

などのように、藤原さんが時代とともに分割されることとなりました。

「近藤さん」の場合

例えば近江国(おうみのくに:現代の滋賀県)出身の藤原氏であれば、「近藤(こんどう)」さんとなりました。

「斎藤さん」の場合

また、伊勢の斎宮(さいくう※)で働いている藤原さんであれば、「斎藤(さいとう)」さんとなりました。

※斎宮(さいくう)とは、伊勢神宮に仕える女性のいた場所です。

斎宮村については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

「佐藤さん」の場合

さらに、栃木県の佐野市(さのし)にゆかりのある藤原氏であれば、先ほど述べた「佐藤(さとう)」にそれぞれ苗字を改めることとなりました。

つまり、全国の

「佐藤さん」「近藤さん」「斎藤さん」「工藤さん」「内藤さん」

など(もちろん「藤原さん」も)、「~藤」のつく人の祖先は藤原鎌足、つまり中臣鎌足ということになります

中大兄皇子

中大兄皇子なかのおおえのおうじは、後の天智天皇てんちてんのうになる人物です。

滋賀県・大津に都をかまえた、天智天皇

天智天皇は、滋賀県大津市おおつし(おおつし)に大津京おおつきょうを構えた事でも知られます。

しかしこの「近江大津京」ですが、なにせ飛鳥時代の大昔のことなので、その実在性に関する証拠は乏しく、現代もその実在性や所在地については諸説あります。

そのため、鉄道唱歌 東海道編 第44番では、

都の跡は知らねども

と歌われています。

詳しくは、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

中大兄皇子と、中臣鎌足による計画

「蘇我入鹿を倒せ」

その中臣鎌足と、中大兄皇子が秘かに

蘇我入鹿を倒すぞ!

と作戦を立てたのが、この談山(かたらいやま)、つまり多武峰(とうのみね)というわけです。

多武峰・談山神社で、計画のための談合

多武峰談山神社で、ようやく中臣鎌足と中大兄皇子は話し合いが進みます。

そして蘇我入鹿を倒そうとして、飛鳥寺に向けてゆきます。

「乙巳の変」から、「大化の改新」へ

この飛鳥寺で切りつけられ、蘇我入鹿は倒されました。
この事件を「乙巳の変(いっしのへん)」といいます。
そしてこの乙巳の変のあと、「大化の改新」が行われます。645年のことです。

この「大化の改新」がなぜ行われたのかというと、それは天皇を中心とした「中央集権国家」を造るためです。

なぜ「中央集権国家」が必要になったのか

ではなぜ中央集権国家が必要だったのかというと、早い話がそれまでの日本国内はバラバラで、争いが絶えないカオス状態だったからです。

それまでは「ムラ」「クニ」でバラバラで、カオス状態だった

それまでの日本は「ムラ」や豪族など、地方によってバラバラの政治が行われていました。

地方によってバラバラの政治が行われると、ルールや思想や価値観も違ってくるので、当然その「ムラ」や「クニ」同士で争いが起きるわけです。

中央で1ヵ所にまとまっているほうが、都合がよかった

こうなると収拾がつかないため、 もういっそ天皇を中心した、権力が天皇や中央に集中した国(中央集権国家)を作ろうとしたのです。

この「中央集権国家」を理想とし、仏教を中心として国づくりをしようとした聖徳太子でしたが、 聖徳太子が生きてる間にはなかなかそれは叶いませんでした

ところが645年の「大化の改新」によって、これが実現に一歩近づいたわけです。

701年「大宝律令」で、中央集権国家は実現

そして701年の「大宝律令(たいほうりつょう)」によって中央集権国家は現実のものとなります。

やがて、710年の平城京遷都となり、奈良時代が始まるというわけです。

次回は、桜井駅を出て、高田方面へ

次回は、桜井駅を出発して西に進み、高田(たかた)方面へと向かって行きます!

ちゅうい!おわりに

この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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