鉄道唱歌 関西・参宮・南海編の歌詞(多武峰・談山神社・中大兄皇子・中臣鎌足)について、わかりやすく解説してゆきます!
↓まずは原文から!
思はずのぼる多武峰
峰にかがやく鎌足の
社のあたり花おほし
さらに読みやすく!
思わずのぼる 多武峰
峰にかがやく 鎌足の
社のあたり 花おおし
さあ、歌ってみよう!
♪おもわずのぼるー とうのみねわ
♪みーねにかがやく かまたりのー
♪やしろのあたりー はなおおしー
奈良駅→帯解駅→天理駅(旧・丹波市駅)→三輪駅→桜井駅→香久山駅→畝傍駅→高田駅
(近鉄大阪線)
桜井駅→大和朝倉駅→長谷寺駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
多武峰(奈良県桜井市)
列車は既に、奈良県桜井市(さくらいし)に到達しています。
今回は、奈良県桜井市のやや南東にある、多武峰という山の話題となります。
「大化の改新」の話し合いが行われた山
また、645年に起きた「大化の改新」についての話し合いの場所となった、多武峰にある談山神社についての話題になります。
多武峰とは、奈良県桜井市の南にある山のことです。
談山神社(だんざんじんじゃ)
多武峰には、談山神社という神社があります。
談山神社は、
- 中臣鎌足
- 中大兄皇子
が、蘇我入鹿を倒すための談合、つまり内緒の話し合い・作戦立てを行った場所になります。
藤原氏の祖となった、中臣鎌足
中臣鎌足(なかとみの かまたり)は、後に藤原鎌足といって、天皇から「藤原」という苗字を与えられた人物です。
これはつまり、中臣鎌足(藤原鎌足)が全国の「藤原さん」の祖先である事を意味します。
また、藤原氏(ふじわらし)は平安時代にかけてとても栄えたため、「藤原」を名乗る人物はとても多くなりました。
そのため、「おい、藤原!」と呼ばれても、はたして誰のことを呼ばれているのかわからなくなります。
たくさんの「同姓」がいると、誰が呼ばれているのかわかりにくい・・・
現代でも、職場に「佐藤」という苗字の人が複数人いた場合に、
- 「おい、佐藤!」
- 「佐藤さんがね~」
と言われても、どの佐藤さんか判らなくなりますよね。
※ちなみに「佐藤」は、「鈴木」「田中」「渡辺」などと並んで、現代日本でとても多い苗字になります。
たくさんの「~藤」さんに分けられた
「藤原」を名乗る人があまりにも多くなったため、
などのように、藤原さんが時代とともに分割されることとなりました。
「近藤さん」の場合
例えば近江国(おうみのくに:現代の滋賀県)出身の藤原氏であれば、「近藤(こんどう)」さんとなりました。
「斎藤さん」の場合
また、伊勢の斎宮(さいくう※)で働いている藤原さんであれば、「斎藤(さいとう)」さんとなりました。
※斎宮(さいくう)とは、伊勢神宮に仕える女性のいた場所です。
斎宮村については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
「佐藤さん」の場合
さらに、栃木県の佐野市(さのし)にゆかりのある藤原氏であれば、先ほど述べた「佐藤(さとう)」にそれぞれ苗字を改めることとなりました。
つまり、全国の
など(もちろん「藤原さん」も)、「~藤」のつく人の祖先は藤原鎌足、つまり中臣鎌足ということになります。
中大兄皇子
中大兄皇子は、後の天智天皇になる人物です。
滋賀県・大津に都をかまえた、天智天皇
天智天皇は、滋賀県大津市(おおつし)に大津京を構えた事でも知られます。
しかしこの「近江大津京」ですが、なにせ飛鳥時代の大昔のことなので、その実在性に関する証拠は乏しく、現代もその実在性や所在地については諸説あります。
そのため、鉄道唱歌 東海道編 第44番では、
と歌われています。
詳しくは、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
中大兄皇子と、中臣鎌足による計画
「蘇我入鹿を倒せ」
その中臣鎌足と、中大兄皇子が秘かに
と作戦を立てたのが、この談山(かたらいやま)、つまり多武峰(とうのみね)というわけです。
多武峰・談山神社で、計画のための談合
多武峰の談山神社で、ようやく中臣鎌足と中大兄皇子は話し合いが進みます。
そして蘇我入鹿を倒そうとして、飛鳥寺に向けてゆきます。
「乙巳の変」から、「大化の改新」へ
この飛鳥寺で切りつけられ、蘇我入鹿は倒されました。
この事件を「乙巳の変(いっしのへん)」といいます。
そしてこの乙巳の変のあと、「大化の改新」が行われます。645年のことです。
この「大化の改新」がなぜ行われたのかというと、それは天皇を中心とした「中央集権国家」を造るためです。
なぜ「中央集権国家」が必要になったのか
ではなぜ中央集権国家が必要だったのかというと、早い話がそれまでの日本国内はバラバラで、争いが絶えないカオス状態だったからです。
それまでは「ムラ」「クニ」でバラバラで、カオス状態だった
それまでの日本は「ムラ」や豪族など、地方によってバラバラの政治が行われていました。
地方によってバラバラの政治が行われると、ルールや思想や価値観も違ってくるので、当然その「ムラ」や「クニ」同士で争いが起きるわけです。
中央で1ヵ所にまとまっているほうが、都合がよかった
こうなると収拾がつかないため、 もういっそ天皇を中心した、権力が天皇や中央に集中した国(中央集権国家)を作ろうとしたのです。
この「中央集権国家」を理想とし、仏教を中心として国づくりをしようとした聖徳太子でしたが、 聖徳太子が生きてる間にはなかなかそれは叶いませんでした。
ところが645年の「大化の改新」によって、これが実現に一歩近づいたわけです。
701年「大宝律令」で、中央集権国家は実現
そして701年の「大宝律令(たいほうりつょう)」によって中央集権国家は現実のものとなります。
やがて、710年の平城京遷都となり、奈良時代が始まるというわけです。
次回は、桜井駅を出て、高田方面へ
次回は、桜井駅を出発して西に進み、高田(たかた)方面へと向かって行きます!
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