鉄道唱歌 関西編 第40番 高田駅を出て、窓の右にそびえる大和葛城山と金剛山 そして千早城の戦い

まずは原文から!

右の窓よりながめやる
葛城山(かつらぎやま)の南には
楠氏(なんし)の城に名を擧(あ)げし
金剛山(こんごうさん)もつゞきたり

さらに読みやすく!

右の窓よりながめやる
葛城山(かつらぎやま)の南には
楠氏(なんし)の城に名を挙げし
金剛山(こんごうさん)もつづきたり

さあ、歌ってみよう!

♪みーぎのまどより ながめやるー
♪かつらぎやまのー みなみにはー
♪なんしのしーろに なをあげしー
♪こんごうさんもー つづきたりー

(和歌山線)
高田駅→大和新庄駅→御所駅→掖上駅→吉野口駅→五条駅→隅田駅→橋本駅→粉河駅→舟渡駅→田井ノ瀬駅→和歌山駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記

※正式名称は「鉄道唱歌 関西・参宮・南海編」です。記事タイトルの便宜上、このようなタイトル(関西編)とさせていただいております。ご了承ください。

高田駅(たかたえき)を出ると、ここからは和歌山線(わかやません)という路線に乗って南へ進み、吉野・橋本・和歌山方面を目指していくことになります。

和歌山線は実際には少し北の王寺駅(おうじえき)から始まっているのですが、今回の鉄道唱歌の行程では、王寺・柏原・八尾方面へはあくまで寄り道扱いなので(前回を参照)、和歌山線の本格的なスタートは、この高田駅からということになります。

高田駅を出発して吉野・橋本・和歌山方面へ南へ下って行くと、右の窓には大和葛城山(やまとかつらぎやま)という大きな山がそびえ立ちます。

大和葛城山(やまとかつらぎやま)は、標高959メートルの、大阪府で一番高い山です。
そして歌にもある通り、大和葛城山の南には、かつて楠木正成(くすのき まさしげ)の城に名前を挙げた金剛山(こんごうさん)という、これまた大きな山が存在します。

楠氏(なんし)とは、ここでは楠木正成のことをいいます。他にも、楠木正成のことを楠公(なんこう)さまと言う場合もあります。

金剛山(こんごうさん)は、楠木正成が鎌倉幕府軍との戦いで見事に勝利を収めた「千早城(ちはやじょう)の戦い」で知られます。
千早城の戦いでは、楠木正成の軍は鎌倉幕府軍に取り囲まれる形となりました。
しかし山の頂上で籠城していた楠木正成は、様々な常識外れな「奇策」によって、包囲側を翻弄させ、不意を打ち、グダグダな状況にさせます。
しかも山の頂上は充分な水が蓄えられており、いつまで経っても楠木軍は山から下りてこようともしませんでした。
長引く包囲によって疲れた鎌倉幕府軍は、そこをさらに楠木正成の軍にめった打ちにされました。
こうして楠木正成の軍は、千早城の戦いに勝利しました。

以下、歴史の話ばかりにはなりますが、鎌倉時代の終わりの動乱について、もう少し解説します。

時代は鎌倉時代の末期、「悪党」という楠木正成に代表される一派が、後醍醐天皇とともに「鎌倉幕府を倒せ」と挙兵しました。
それはなぜかというと、鎌倉時代の1274年・1281年において起こった元寇(げんこう。いわゆるモンゴル襲来)において、鎌倉の武士達は遠い九州北部沿岸で命懸けで戦ったにも関わらず、何の恩賞も得られなかったからです。

そもそも鎌倉時代の武士や御家人の給料(恩賞)は、あくまで倒した敵の土地・領地をもらい、その土地で採れた作物が武士の給料という収入モデルでした。
しかし、モンゴル(元)という外国が相手の戦争では、戦って勝っても「外国の領土を手に入れた」わけだなく「日本を守った」に過ぎないため(それでも今の我々からすれば感謝すべきことですが)なんら恩賞は貰えません。

モンゴル(元)軍と命懸けで戦った武士や御家人たちの最大の恩賞・報酬は、「未来の子孫である我々に感謝されること」です。
もし彼らが戦ってくれなかったら、日本がみな乗っ取られて天皇も廃止され、別の国になったいたかもしれません。
なので、我々は過去に命懸けで戦ってくれた日本人に、もっと感謝しなければならないのかもしれません。
そして、現代に生きる我々が、未来の日本人から感謝されることはあるのでしょうか。
くれぐれも未来の子孫から、「2020年代の日本人が怠けていたから、今の我々は悲惨なんだ!」などと思われないような、日本人ひとりひとりの努力が必要なのです。

話がずれましたが、このように鎌倉の武士たちは何の恩賞が得られず、元軍との戦いで使った費用もみな武士もちだったため、武士達は借金地獄に陥ってしまいました。
そこで、1297年に幕府より「徳政令」という借金帳消し措置まで出されました。
しかしこれによって武士に金を貸した側が返ってこなくなり、どのみち経済は大混乱に陥りました。

しかも鎌倉末期にもなると北条氏(ほうじょうし)の執権(しっけん)の権力が増大かつ世襲制でやりたい放題・怠け放題であり、幕政が腐敗に陥っていたため、これも後醍醐天皇や楠木正成らが鎌倉幕府に不満を持った理由でもあります。
執権という鎌倉幕府で最高級の要職が北条氏の世襲であり、クビもなければ(北条氏の子どもであれば)無条件で就職率100パーセントなのですから、そんな状況下ならば誰だって怠けます。もちろん政治に興味関心もなく法律や税金などの勉強もしませんから、そんな人達がまともな政治ができるわけがなく、世の中は混乱するに決まっています。

しかし一方、後醍醐天皇の側からすれば、そんな幕府の状況が腐敗し弱体化している今こそが、幕府打倒のチャンスだと思ったのかもしれません。
なぜなら、鎌倉時代前期の1221年にも「承久の乱」として、後鳥羽上皇(ごとばしょうこう)が打倒幕府に向けて兵を挙げたのですが、この時の鎌倉武士たちはみな士気が高くみな一致団結して強かったため、敗れた後鳥羽上皇は島根県の隠岐の島(おきのしま)に流されてしまったからです。
またこの時には、息子の順徳天皇(じゅんとくてんのう)も新潟県の佐渡島(さどがしま)に流されてしまい、京に戻れることなく佐渡で生涯を終えています。

この「承久の乱」で勝利した鎌倉武士たちは元々天皇らが持っていた西日本の土地を「恩賞」として手に入れたことでより裕福になりました。
しかしこれによって中には、それまで平安時代までは日本の中心として栄えていた京都で女遊びなどの豪遊・贅沢に走ってしまい、借金する武士もいました。
人間は、例え一時的に成功しても分不相応(ぶんふそうおう)な贅沢をしてはならないのだなと実感させられます。
勝って兜(かぶと)の緒(お)を締めよ」と言われる通り、一時的に成功しても謙虚に努力する姿勢を持ち続けたいものです。

だいぶ話がズレましたが、元に戻します。

そんな後醍醐天皇も、京都府木津川市(きづがわし)の笠置山(かさぎやま)で挙兵しましたが、敗北してしまい、島根県の隠岐の島に流されてしまいます。
先ほど述べた、承久の乱で敗れた後鳥羽上皇と同じですね。
なぜ死刑ではなく流罪なのかというと、さすがに天皇という高貴な人物を死刑にするのは憚(はばか)られたことや、また「敢えて不便な場所に追いやることで、死ぬよりも惨めな気持ちにさせる」目的があったともされます。

そして先述の「千早城の戦い」で、楠木正成の軍は勝利。

やがて後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は名和長年(なわ ながとし)に助けられて島根の隠岐の島を脱出。
その後、京都の六波羅探題(ろくはらたんだい)を滅ぼし、鎌倉の北条氏を滅亡させ、1333年に鎌倉幕府は滅びました。

以上、歴史の話ばかりになって恐縮ですが、千早城で戦った楠木正成などに対する皆さんの理解やご興味が、少しでも深まれば幸いです。

次は、大和新庄駅(やまとしんじょうえき)・御所駅(ごせえき)・掖上駅(わきがみえき)に止まります!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

コメント

タイトルとURLをコピーしました