鉄道唱歌 関西編 第42番 五条駅・隅田駅を過ぎ、ここからは紀伊国・和歌山県へ 

鉄道唱歌 関西・参宮・南海編の歌詞(南和鉄道・紀和鉄道の歴史など)について、わかりやすく解説してゆきます!

まずは原文から!

終はれば起こる鐵道てつどう
南和なんわ紀和きわ繋口つなぎぐち
五條ごじょうすぐれば隅田すみだ(※)より
紀伊きいさかいに入りにけり

さらに読みやすく!

終われば起こる鉄道てつどう
南和なんわ紀和きわ繋口つなぎぐち
五條ごじょうすぐれば隅田すみだ(※)より
紀伊きいさかいに入りにけり

さあ、歌ってみよう!

♪おわればおーこる てつどうのー
♪なんわときわのー つなぎぐちー
♪ごじょうすぐれば すみだ(※)よりー
♪きーいのさかいに いりにけりー
(和歌山線)
高田駅→大和新庄駅→御所駅→掖上駅→吉野口駅→五条駅→隅田駅→橋本駅→粉河駅→舟渡駅→田井ノ瀬駅→和歌山駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
※正式名称は「鉄道唱歌 関西・参宮・南海編」です。記事タイトルの便宜上、このようなタイトル(関西編)とさせていただいております。ご了承ください。
※歌詞原文では「すみだ」という読みとなっていますが、正しくは「すだ」です。詳しくは後述します。

奈良県から、和歌山県との県境へ

  • 掖上駅(わきがみえき、奈良県御所市)
  • 吉野口駅(よしのぐちえき、奈良県御所市)

を過ぎると、橋本(はしもと)方面へ向かってゆきます。

ここから先はいよいよ、奈良県和歌山県の境に入ってゆきます。

そして両県の県境に当たる

  • 五条駅(ごじょうえき、奈良県五條市)
  • 隅田駅(すだえき、和歌山県橋本市)

を過ぎると、和歌山県の橋本市(はしもとし)に入ってゆきます。

かつての「南和」「紀和」両鉄道の境だった、五条駅

五条駅(奈良県五條市)

五条駅(奈良県五條市)

五条駅(ごじょうえき、奈良県五條市)は、明治時代の当時の

  • 南和鉄道(なんわてつどう)
  • 紀和鉄道(きわてつどう)

の、二つの会社の路線の境界駅となっていました。
これは歌詞でも

♪南和と紀和の繋ぎ口 五条すぐれば~

と歌われている通りです。

なお、

  • 五条駅
  • 奈良県五條市(ごじょうし)

では、それぞれ「条」「條」と漢字表記が異なるため、注意しましょう。

隅田駅 歌詞では、読み方が異なっていることに注意!

正しくは「すだ」

隅田駅(すだえき、和歌山県橋本市)の読み方についてですが、歌詞の原文では、読み方が「すみだ」となっています。

これは恐らく誤植かと思われ、正しくは「すだ」という読みになります。

正読するとリズムがおかしくなるため、わざと間違えた?

しかし、まともに「すだ」と読んでしまうと、

♪ごじょうすぐれば すーだよりー
と、ちょっと不自然に聞こえてしまいますよね。
鉄道唱歌は「七文字」「五文字」の繰り返しが基本の「七五調しちごちょう」であるため、これだと文字が足りなくなって、歌いにくくなってしまいます。
そのため、作者の大和田建樹おおわだたけきさんが、わざとこのように誤読したのではないか?とも考えられるわけです。
真相は、残念ながらわかりません。
ちなみに私(筆者)が歌うときは、納得した上で「すーだよりー」と歌っています。
今ではもう慣れたので、あまり違和感なくなりました。

明治時代の「南和鉄道」と「紀和鉄道」

先述の通り、鉄道唱歌の時代(明治時代)は、五条駅を境に、

  • 南和鉄道(なんわてつどう)
  • 紀和鉄道(きわてつどう)

という、二つの私鉄会社に分かれていました。

南和鉄道とは?

南和鉄道(なんわてつどう)は、現代のJR和歌山線の

  • 高田駅~五条駅

の区間を建設していた鉄道会社です。

紀和鉄道(きわてつどう)は、現代のJR和歌山線のうち、

  • 五条駅~和歌山駅

の区間を建設していた鉄道会社です。

五条駅と隅田駅は、奈良県と和歌山県のちょうど県境あたりにあります。

そして、先述の通り、五条駅は明治時代、「南和鉄道」「紀和鉄道」の境界線でした。

歌詞「南和と紀和のつなぎ口」

歌詞では

南和と紀和のつなぎ口

とありますが、それは五条駅が「南和鉄道」と「紀和鉄道」のつなぎ口であったことを意味します。

「大和二見駅」は、当時は存在しなかった

なお、五条駅と隅田駅の間にある、

  • 大和二見駅(やまとふたみえき、奈良県五條市)

は、鉄道唱歌の2年後の、1902年に出来た駅になります。
なので、西暦1900年にできた鉄道唱歌には、登場しないわけです。

なぜ明治時代は、民間の鉄道会社が建設していたのか

ではなぜ、明治時代の当時は民間の鉄道会社が建設していたのか。

西南戦争で、国の予算を使い果たしてしまった

元々は、国(明治政府)が主体となって全国に鉄道を敷いていく予定だったのですした。
しかし、1877年に起きた(国内最後の大規模な戦争である)西南戦争(せいなんせんそう)により、鉄道建設のための費用を使い果たしてしまったからです。

これによって、関東・関西の大都市圏を除いて、全国の鉄道工事はストップしてしまいました。

まだ自動車も無かった時代 民間のお金持ちたちが鉄道を作っていった

しかし当時は自動車はまだありませんでしたし、やはり鉄道は全国にあった方がよかったのでした。
そのため、人々の移動の足として、民間の金持ちがお金を出し合って、1880年代以降に全国に次々に鉄道を建設していったのです。

当時はまだ自動車や航空機が無かったため、鉄道を作ればライバルのいない一本勝ちで儲かるということは、明白だったのでした。
そのため、全国的に民間の鉄道会社が鉄道を建設していきました。

日露戦争の後に国有化 戦後に国鉄からJR線へ

しかし日露戦争後の1906年に、軍事輸送力強化のために民間の鉄道は国有化されました。

やがて戦後の国鉄時代を経て、現在のJR線に至っています。

高度経済成長期以降、自動車の普及とともに鉄道は衰退

また、先ほど述べたように、自動車や航空機が一般的でなかった時代は「鉄道の一本勝ち」と書きました。

逆に言えば、日本で自動車が民間にも普及しはじめた1960年代以降は、マイカー高速バスなどが充実する一方で、鉄道の利用客は激減してゆきました。

そして大都市部を除く、地方都市の赤字ローカル線などを中心に、鉄道は次々と廃止・廃線ということになっています。

鉄道が開通すると、江戸時代までの「水運」は衰退した

しかし「一本勝ち」とはいっても、紀和鉄道の場合は沿線の紀ノ川と並行するため、明治時代以前はまだまだ紀ノ川(で舟で荷物を運ぶ)の水運とも競合し、なかなか一本勝ちとはいかなかったようです。

でも時代がさらに進むと、鉄道の技術はさらに向上してゆきました。

例えば、

  • 加速性能
  • 減速性能
  • 蒸気→電気

などですね。こうなってくると、次第に鉄道優勢になり、水運は衰退を余儀なくされてくるのです。

紀伊国(きいのくに)・和歌山県

紀伊国(きいのくに)とは、現在の和歌山県の大部分のことをいいます。

紀伊半島(きいはんとう)の名前も、これに由来します。

紀伊国は、「木の国きのくに」というのが由来になります。
実際、紀伊国では木材となるべき木が、たくさん採れてきたわけです。

木材は、特に江戸時代までは、住居や家屋かおくを造るのに、とても重要でした。

また紀伊国は、熊野信仰くまのしんこうなど神聖な場所とされ、また昔から厳しい修行の場になっていました。
熊野くまのとは、紀伊半島の南東あたりの地域になります。
和歌山県熊野市くまのしに、その地名が残っています。

ここからは、和歌山県に入ってゆきます。
次回は、橋本駅に止まります!

ちゅうい!おわりに

この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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