鉄道唱歌 関西編 第43番 橋本に到着!紀ノ川を渡り、九度山を過ぎて、高野山へ

鉄道唱歌 関西・参宮・南海編の歌詞(橋本、九度山、高野山など)について、鉄道に詳しくない方にもわかりやすく解説してゆきます!

↓まずは原文から!

またたくひまに橋本はしもと
叫ぶ驛夫えきふに道とへば
紀の川きのかわわたり九度山くどやま
すぎて三里さんり高野こうやまで

さらに読みやすく!

またたくひまに 橋本はしもと
叫ぶ駅夫えきふに 道とえば
紀の川きのかわわたり 九度山くどやま
すぎて三里さんりぞ 高野こうやまで

さあ、歌ってみよう!

♪またたくひーまに はしもととー
♪さーけぶえきふに みちとえばー
♪きのかわわーたり くどやまをー
♪すーぎてさんりぞ こうやまでー
(和歌山線)
高田駅→大和新庄駅→御所駅→掖上駅→吉野口駅→五条駅→隅田駅→橋本駅→粉河駅→舟渡駅→田井ノ瀬駅→和歌山駅

(南海高野線)
橋本駅→九度山駅→高野下駅→極楽橋駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
※正式名称は「鉄道唱歌 関西・参宮・南海編」です。記事タイトルの便宜上、このようなタイトル(関西編)とさせていただいております。ご了承ください。

橋本駅(和歌山県橋本市)に到着

奈良県と和歌山県の県境を越え、隅田駅(すだえき)からは和歌山県に入ります。
やがて、橋本駅(はしもとえき、和歌山県橋本市)に到着します。

橋本駅(和歌山県橋本市)

橋本駅(和歌山県橋本市)

東西南北への、交通の要衝・橋本市

和歌山県橋本市(はしもとし)は、

  • 大阪から高野山へ、南北に向かう街道
  • 奈良から和歌山へ、東西に向かう街道

が、まさに十字に交差する場所にあります。

そのため、交通の要衝(ようしょう)として、古くから多くの旅人で行き交うなどして栄えてきました。
現代でも、JR和歌山線南海高野線が交差する場所でもあります。

また橋本市は、高野山へ登る1つ手前の重要な街でもあります。

紀ノ川の「水運」によって栄えてきた 木材の集散地

橋本市は上記の交通の利便性に加え、紀ノ川きのかわという(和歌山方面へ向かう)川が、東西に流れています。

そのため、木材や織物(おりもの)などの産物の集散地(しゅうさんち)として栄えてきました。

「集散地」とは?

集散地(しゅうさんち)とは、例えば

  1. 山地で採れた木材を、一時的に集めて、保管・保存しておく
  2. 販売で必要になったときに、ストックから取り出して、出荷する

ための場所です。
集まる地・散る地と書いて、「集散地」です。

また、モノを保管するためには、

  • (くら)
  • 倉庫
  • コンテナ

などが利用されます。

コンテナとは、いわば移動可能な倉庫のようなものです。

倉やコンテナの役割については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

和歌山県では「紀ノ川」 奈良県では「吉野川」

橋本駅の南側には、先ほど述べたように紀ノ川(きのかわ)という川が東西に流れています。

紀ノ川」は、あくまで和歌山県での呼び名になります。
奈良県では、「吉野川(よしのがわ)」という名前になります。

このように、同じ川でも県ごとに名前が異なる川は、全国の他地域でもよくあります。
詳しくは、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

橋本駅からは、南の高野山へ

歌詞では、橋本駅で降りると、駅夫(えきふ)に道を聞いてから、高野山に登ることになっています。
今でいうと、駅員や観光案内所等に道をたずねるイメージでしょうか。

現代では、駅員に道を聞くよりは、むしろ駅前の観光案内所に聞く方が、無料かつより丁寧に教えてくれるため、安心です。

当時は、馬車か徒歩で高野山へ向かった?

鉄道唱歌の時代は、橋本駅から

  • 馬車・人力車
  • または(自力で)徒歩

などを使って、高野山まで行ったのかもしれません。

現代では、「南海高野線」で

しかし、現代では南海高野線(なんかいこうやせん)という路線が出ています。

橋本駅から南海高野線で

  • 九度山駅(くどやまえき、和歌山県伊都郡九度山町)

を過ぎます。

50パーミル(‰)もの急勾配を登っていく

高野下駅(こうやしたえき、和歌山県伊都郡九度山町)を過ぎると、急な登りの山岳地帯となり、50パーミル(‰)という勾配になります。

パーミル(‰)」とは、勾配を現す単位であり、20パーミルを越えると結構きつい坂になります。
なので、50パーミルは相当きつい坂になります。
詳しくは、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

東京スカイツリーの高さ(634m)も越えて、高さ800mの高野山へ

極楽橋駅(ごくらくばしえき、和歌山県伊都郡高野町)からは、東京スカイツリーの高さ(634m)を超えて、高野山の頂上へ向けて行くことができます。

九度山町や高野町のある「伊都郡」は「いとぐん」と読みます。

女人禁制だった高野山

高野山は、明治時代までは女人禁制にょにんきんせいでした。
つまり、女の人は入ってはいけなかったのです。

これはなにも「女性差別」とか、そういう理由からではありませんでした。
例えば、男性が女性の体を見て性欲でムラムラしてしまい、修行に集中できないということにならないように、女人禁制ということになってたのでした。

これは弘法大師こうぼうだいし空海くうかいのお母さんですら同じで、山には入ってはなりませんでした。

お母さんに9度会いに行っていた、九度山

空海は、香川県善通寺市ぜんつうじしの出身だったのですが、お母さんも和歌山県まで来ていたのでした。
つまり、お母さんも高野山に近いとこまで来ていたわけです。

そこで空海が(高野山に入れない)お母さんに9回も会いに行っていた場所が、高野山のふもとにある九度山くどやまだったわけです。

つまり弘法大師・空海がお母さんに9回会いに行った場所だから「九度山くどやま(くどやま)」というわけです。

九度山は高野山のふもとにあり、

  • 南海高野線・九度山駅(くどやまえき、和歌山県伊都郡九度山町)

が最寄駅となります。

真田(さなだ)親子が流されてきた、九度山

また、九度山(くどやま)は、

  • 真田正幸(さなだ まさゆき)
  • 真田幸村(ゆきむら)

の父子(ふし)が、織物を造って、生計を立てていた場所でもあります(ただし、これは諸説あり)。

長野県・上田に拠点を置いていた、真田家

もともと

  • 真田幸村(ゆきむら)
  • 父親の、真田正幸(まさゆき)

は、長野県の上田市(うえだし)という場所の出身でした。

長野県上田市は、北陸新幹線の駅もある、長野県では長野市・松本市に次ぐ、第3位の街です。

信州・上田は、当時

  • 甲斐国(かいのくに:現在の山梨県)
  • 三河国(みかわのくに:現在の愛知県東部)

などを中心に領土を持っていた「徳川家」と、越後(新潟県)の「上杉家」との間で、ちょうど地理的に中間地点にありました。

そのため、どっちにつけばいいかわからない板挟みの状態だったのでした。

結局、上田の真田家は、越後の上杉家につくことを決定したのでした。
そのため、徳川家の怒りを買ってしまいます。

上田城は徳川軍を二度も撃退 

そして戦国時代末期に、これを気に食わない徳川家は、上田に対して2回も兵を向けて攻めています。
しかし、上田城はなんと徳川軍を2回ともはね除けて(撃退して)います。

そのため、上田城は「落ちない城」と言われ、受験生にとっても「落ちない」という響きが縁起が良く、上田城のそばにある「真田神社(さなだじんじゃ)」は合格祈願のため多くの受験生が訪れています。

しかしこの真田家の二度にわたる撃退も、さらに徳川家の恨みを買ってしまいます。

「関ヶ原の戦い」で敗北

そして1600年の「関ヶ原の戦い」。

  • 徳川家と、徳川家に味方にする全国の武将を中心とする「東軍
  • 徳川家に敵対する、全国の武将を中心とする「西軍

の戦いでした。
真田家はもちろん徳川家に敵対する側なので、「西軍」として戦いました。

結果、東軍の勝利
西軍についた武将や大名たちは、

  • 死刑になった者(例えば、石田三成いしだみつなり小西行長こにしゆきながなど)が存在したり、
  • それまでの領地や石高を大きく減らされて(減封げんぽう)、遠隔地に飛ばされたり、

などの不遇・冷遇措置を受けたのでした。

真田家も、徳川家からかなり恨みと怒りを買っていましたので、死刑を言い渡されました。

助命嘆願により、刑をまぬがれ九度山へ流される

ただし、幸村の兄にあたる真田信之さなだのぶゆきによる助命嘆願じょめいたんがんによって、なんとか死刑だけは免れたのでした。
つまり、「命だけは勘弁してくださいませ」とお願いしたわけです。

しかし、その代わり和歌山の九度山くどやまに配流されてしまいました。

困窮をきわめた九度山の生活 父、無念の最期

そして親子二人の九度山での生活は、困窮を極め、なかなか過酷なものだったと言われています。

父親の真田昌幸は、晩年は病気に悩まされ、

もう1度、徳川と戦いたかった

という無念の遺志を残して、1611年に亡くなりました。

この真田親子は、この過酷な九度山での生活において「真田織(さなだおり)」という織物を作って売り、生計を立てていたという風にも言われています。

「大坂の陣」で真田幸村の奮闘も、無念の最期

そして1615年、「大坂の陣」での徳川との決戦です。

江戸幕府を開いたにも関わらず、大坂ではいまだに豊臣秀吉の息子の秀頼ひでよりと、妻の淀殿よどどのが支配していました。
これを気に入らない徳川家康は、大坂城へと兵を向けたのでした。これが「大坂の陣」です。
真田幸村は、秀頼と淀殿を守るため、徳川家康の軍に向かっていったのでした。

真田幸村は、徳川家康に対して二度も自害を覚悟させるほどの、まさしく大健闘をしたのでした。
しかし、大阪市の天王寺あたりで休んでいるところを、無念にも討たれてしまったのでした。

これが歴史上圧倒的人気を誇る、真田幸村の最期となってしまったのでした。

次は、高野山の話題

次は、高野山の話題となります!

ちゅうい!おわりに

この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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