まずは原文から!
瞬(またた)くひまに橋本(はしもと)と
叫ぶ驛夫(えきふ)に道とへば
紀の川(きのかわ)わたり九度山(くどやま)を
すぎて三里(さんり)ぞ高野(こうや)まで
さらに読みやすく!
瞬(またた)くひまに橋本(はしもと)と
叫ぶ駅夫(えきふ)に道とえ(問え)ば
紀の川(きのかわ)わたり九度山(くどやま)を
すぎて三里(さんり)ぞ高野(こうや)まで
さあ、歌ってみよう!
♪またたくひーまに はしもととー
♪さーけぶえきふに みちとえばー
♪きのかわわーたり くどやまをー
♪すーぎてさんりぞ こうやまでー
(和歌山線)
高田駅→大和新庄駅→御所駅→掖上駅→吉野口駅→五条駅→隅田駅→橋本駅→粉河駅→舟渡駅→田井ノ瀬駅→和歌山駅
(南海高野線)
橋本駅→九度山駅→高野下駅→極楽橋駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
※正式名称は「鉄道唱歌 関西・参宮・南海編」です。記事タイトルの便宜上、このようなタイトル(関西編)とさせていただいております。ご了承ください。
奈良県と和歌山県の県境を越え、隅田駅(すだえき)からは和歌山県に入ります。
やがて、橋本駅(はしもとえき、和歌山県橋本市)に到着します。
和歌山県橋本市(はしもとし)は、大阪から高野山へ南北に向かう街道と、奈良から和歌山へ東西に向かう街道が、まさに十字に交差する場所にあります。
そのため、交通の要衝(ようしょう)として、古くから多くの旅人で行き交うなどして栄えてきました。現代でも、JR和歌山線と南海高野線が交差する場所でもあります。
また橋本市は、高野山へ登る1つ手前の重要な街でもあります。
橋本市は上記の交通の利便性に加え、紀ノ川(きのかわ)という(和歌山方面へ向かう)川が東西に流れているので、木材や織物(おりもの)などの産物の集散地(しゅうさんち)として栄えてきました。
集散地(しゅうさんち)とは、例えば山地で採れた木材を一時的に集めて保管・保存しておき、販売で必要になったときにストックから取り出して、出荷するための場所です。
集まる地・散る地と書いて、「集散地」です。
また、モノを保管するためには、蔵(くら)や倉庫・コンテナなどが利用されます。コンテナとは、いわば移動可能な倉庫のようなものです。
橋本駅の南側には、先ほど述べたように紀ノ川(きのかわ)という川が東西に流れています。
「紀ノ川」はあくまで和歌山県での呼び名であり、奈良県では「吉野川(よしのがわ)」という名前になります。
このように、同じ川でも県ごとに名前が異なる川は全国の他地域でもよくあります。
歌詞では、橋本駅で降りると、駅夫(えきふ)に道を聞いてから高野山に登ることになっています。今でいうと、駅員や観光案内所等に道をたずねるイメージでしょうか(現代では駅員に道を聞くと迷惑になる可能性があるので、それよりは駅前の観光案内所に聞く方が無料かつより丁寧に教えてくれるので安心です)。
鉄道唱歌の時代は、橋本駅から馬車・人力車または(自力で)徒歩などを使って高野山まで行ったのかもしれません。
しかし、現代では南海高野線(なんかいこうやせん)という路線が出ています。
橋本駅から南海高野線で九度山駅(くどやまえき、和歌山県伊都郡九度山町)を過ぎ、高野下駅を過ぎると急な登りの山岳地帯となり、50パーミルという勾配になります。「パーミル」とは勾配を現す単位であり、20パーミルを越えると結構きつい坂になります。なので50パーミルは相当きつい坂です。
極楽橋駅(ごくらくばしえき、和歌山県伊都郡高野町)から東京スカイツリーの高さ(634m)を超えて、高野山の頂上へ向けて行くことができます。
九度山町や高野町のある「伊都郡」は「いとぐん」と読みます。
高野山は明治時代までは女人禁制(にょにんきんせい)、つまり女の人は入ってはいけなかったのです。
これはなにも「女性差別」とかそういう理由からではなく、例えば男性が女性の体を見て性欲でムラムラしてしまい、修行に集中できないということにならないように、女人禁制ということになっていました。
これは弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)のお母さんですら同じで、山には入ってはなりませんでした。
空海は、香川県善通寺市(ぜんつうじし)の出身だったのですが、お母さんも和歌山県まで来ていました。
つまりお母さんも高野山に近いとこまで来ていたわけです。
そこで空海が(高野山に入れない)お母さんに9回も会いに行っていた場所が、高野山の麓(ふもと)にある九度山(くどやま)だったわけです。
つまり弘法大師・空海がお母さんに9回会いに行った場所だから「九度山(くどやま)」というわけです。
九度山は高野山のふもとにあり、南海高野線・九度山駅(くどやまえき、和歌山県伊都郡九度山町)が最寄駅となります。
また、九度山(くどやま)は、真田正幸(さなだ まさゆき)と真田幸村(ゆきむら)の父子(ふし)が織物を造って、生計を立てていた場所でもあります(ただし、これは諸説あり)。
もともと真田幸村(ゆきむら)と、父親の真田正幸(まさゆき)は、長野県の上田市(うえだし)という場所の出身でした。
長野県上田市は、北陸新幹線の駅もある、長野県では長野市・松本市に次ぐ第3位の街です。
信州・上田は、当時甲斐国(かいのくに。現在の山梨県)や三河国(みかわのくに。現在の愛知県東部)などを中心に領土を持っていた「徳川家」と、越後(新潟県)の「上杉家」との間で、ちょうど地理的に中間地点にあり、どっちにつけばいいかわからない板挟みの状態でした。
結局、上田の真田家は越後の上杉家につくことを決定したため、徳川家の怒りを買ってしまいます。
そして戦国時代末期に、これを気に食わない徳川家は上田に対して2回も兵を向けて攻めますが、上田城はなんと徳川軍を2回ともはね除けて(撃退して)います。
そのため、上田城は「落ちない城」と言われ、受験生にとっても「落ちない」という響きが縁起が良く、上田城のそばにある「真田神社(さなだじんじゃ)」は合格祈願のため多くの受験生が訪れています。
しかしこの真田家の二度にわたる撃退も、さらに徳川家の恨みを買います。
そして1600年の「関ヶ原の戦い」。
徳川家と徳川家に味方にする全国の武将を中心とする「東軍」と、徳川家に敵対する全国の武将を中心とする「西軍」の戦いでした。
真田家はもちろん徳川家に敵対する側なので、「西軍」として戦いました。
結果、東軍の勝利。
西軍についた武将や大名たちは、死刑になった者や(石田三成や小西行長など)、それまでの領地や石高を大きく減らされて(減封/げんぽう)遠隔地に飛ばされたりしました(外様大名)。
真田家も、徳川家からかなり恨みと怒りを買っていましたので、死刑を言い渡されました。
ただし幸村の兄にあたる真田信之(のぶゆき)の嘆願(たんがん)によってなんとか死刑だけは免れたのですが、その代わり和歌山の九度山に配流されてしまいました。
そして親子二人の九度山での生活は、困窮を極めなかなか過酷なものだったと言われています。
父親の真田昌幸は晩年は病気に悩まされ、「もう1度徳川と戦いたかった」という無念の遺志を残して、1611年に亡くなりました。
この真田親子は、この過酷な九度山での生活において「真田織(さなだおり)」という織物を作って売り、生計を立てていたという風にも言われています。
そして1615年、「大坂の陣」での徳川との決戦。
真田幸村は、徳川家康に二度も自害を覚悟させるほどの大健闘をしたのですが、大阪市の天王寺あたりで休んでいるところを討たれてしまいました。
これが歴史上圧倒的人気を誇る、真田幸村の最期となってしまいました。
次は、高野山の話題となります!
注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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