鉄道唱歌 関西・参宮・南海編の歌詞(和歌浦、玉津島神社、友ヶ島など)・観光・歴史について、わかりやすく解説しています!
↓まずは原文から!
散り來る露の玉津島
苫が島には燈臺の
光ぞ夜は美しき
さらに読みやすく!
散り来る露の 玉津島
苫が島には 灯台の
光ぞ夜は 美しき
さあ、歌ってみよう!
♪ちりくるつゆのー たまつしまー
♪とまがしまーには とうだいのー
♪ひかりのよるぞー うつくしきー
和歌山の海の景色を堪能
列車は既に、和歌山県和歌山市(わかやまし)に達しています。

和歌山駅(和歌山県和歌山市)
今回は、和歌山市の西海岸にある、
- 「玉津島神社(たまつしまじんじゃ)」
- 「友ヶ島(ともがしま)」
の話題になります。

和歌浦。海の向こうは徳島県。右側あたりが玉津島。(和歌山県)
数々の詩に詠まれた玉津島神社
玉津島(たまつしま)は、昔その景色の山や島がまるで「玉のように見えた」ことからそう名付けられました。
玉津島は、簡単にいえば「歌の神様」を祀(まつ)る場所(神社)であり、
- 聖武天皇
- 山部赤人(やまべのあかひと)
- 紀貫之(きのつらゆき)
- 豊臣秀吉
など、多くの高貴な方々や歌のプロによって訪ねられてきました。
和歌三神の一つ
玉津島は、「和歌三神」の一つに数えられます。
和歌三神(わかさんしん)は、
- 住吉明神(すみよしみょうじん)
- 玉津島(たまつしま)
- 柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)
になります。
「和歌」とは?
「和歌」とは、読んで字のごとく、古くから日本で詠まれてきた歌のことです。
和歌は、「古今和歌集」などに代表されます。
住吉明神とは?
住吉明神(すみよしみょうじん)は、住吉大社に祀(まつ)られる神様です。
住吉大社(すみよしたいしゃ)は大阪市南部にある神社であり、海の航海を守るための神様になります。
かつて飛鳥時代~平安時代に
- 「遣隋使」
- 「遣唐使」
を派遣していた頃、大阪の住吉から船出していったのでした。
しかし海の航海はとても危険だったため、海の安全を守っていた神様が、住吉大社であるというわけです。
柿本人麻呂とは?
柿本人麻呂(かきのもと ひとまろ)は、明石(あかし)の浦の風景を
と詠んだことで知られます。
その「朝霧」というフレーズは、朝霧駅(あさぎりえき)として兵庫県明石市(あかしし)の駅名にもなってます。
朝霧駅は、
- 舞子駅(まいこえき)
- 明石駅(あかしえき)
との間にある駅です。
兵庫県明石市には、「柿本神社(かきのもとじんじゃ)」という神社が存在します。
詳しくは、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
「和歌のふるさと」

和歌浦(和歌山の海)。海の向こうは徳島県
玉津島は、
- 「和歌のふるさと」
- 「和歌の神様」
とよばれるだけあって、冒頭に述べた
- 奈良時代の聖武天皇
- 紀貫之(きのつらゆき)
にはじまり、多くの為政者や著名人からの「和歌」の憧れでした。また、多くの歌に詠(よ)まれてきました。
「詩の聖地」詩のプロなら、誰でも訪れたかった場所
このように、和歌浦は「和歌の神様」が宿る場所ということもあり、歌のプロ(歌人、詩人)であれば是非とも訪れておきたいといった、そんな場所だったのでしょう。
いわば「歌の聖地」ですね。
聖武天皇は、奈良時代に初めて和歌の浦を訪れたときに、その景観の美しさにとても感動したといいます。
豊臣秀吉も、この場所を訪れ、和歌を詠んでいます。
もはや、この美しい海の景観を歌に詠むことが、昔のお偉い方々のステータスというか、憧れだったのかもしれません。
現代でいうと、和歌浦の海の写真をバックに自分で考えたポエムをSNSに載せたいようなものでしょう(違うかな?)。
筆者による「センスない詩集」
以下、超センスない和歌浦の歌です。
(作:筆者)
和歌浦や 素敵なイケメン いないかな
和歌浦で 恋する出会い もう一度
和歌浦の 愛しいあなた いまどこに
・・・あまり深い意味はありません。
筆者のセンスの無い詩は、以下の記事でも「差出の磯(さしでのいそ)」のところでも披露していますので、ご覧ください。
(山梨県山梨市の話題になります)
話を元に戻します。
歌詞は「掛詞」に?
歌詞は恐らく、
というフレーズと、
という地名を掛けているのではないかと思われます。いわゆる「掛詞(かけことば)」です。
掛詞(かけことば)とは、昔の日本の詩でよく使われてきた、いわゆる言葉遊び・洒落の一種です。
鉄道唱歌では、この掛詞が非常に多く使われます。

和歌山の海(和歌山県和歌山市)
玉津島の鉄砲隊・雑賀衆
玉津島周辺には戦国時代、雜賀衆(さいかしゅう)とよばれる鉄砲隊がいました。
「雜賀(さいか)」とは、玉津島のやや西にある地名になります。
戦国時代の「寺社勢力」
戦国時代には、ある一定の勢力を持った武士の一団を、「~衆」と呼んでいました。
これは、お寺が自衛のために(という名目で)武装した僧兵であり、「寺社勢力」といいます。
信長ですら手を焼いた、雜賀衆の勢力
雜賀衆(さいかしゅう)は織田信長に敵対する側につき、信長もほとほと手を焼いたといいます。
なお、和歌山県岩出市(いわでし)の根来寺(ねごろでら)の兵力である
- 根来衆(ねごろしゅう)
は、織田側に付いて信長とともに石山本願寺と戦いました。

和歌浦(和歌山の海)。海南市方面(南側)を望む
和歌山の西に浮かぶ「友ヶ島」
友ヶ島(ともがしま)は、和歌山市のちょっと西側に浮かぶ島です。
友ヶ島(の複数ある島群のうち、砲台跡などがあるメインの島である「沖ノ島」)へは、まず南海加太線(なんかいかぶとせん)で
- 加太駅(かぶとえき)
までゆき、加太港から船(友ヶ島汽船)で約20分ほどで行けます。
戦時中の重要防御拠点・友ヶ島
友ヶ島は、太平洋戦争(大東亜戦争)中、かつて砲台が置いてあった島です。
紀伊半島・淡路島と四国との間にある海峡である紀伊水道(きいすいどう)は、瀬戸内海(せとないかい)への入口だったため、敵艦隊にはここを絶対に突破されてはならない重要な入口でした。
なぜなら、大阪まで攻められるからですね。
反対側の「関門海峡」も同じく、防御の拠点
それは瀬戸内海の反対側の、山口県下関市の関門海峡(かんもんかいきょう)にも同じことがいえます。
それはもし外国の敵艦隊に瀬戸内海に侵入されたら、重要軍港だった呉(くれ。広島県呉市)が目前だからです。
もっとも、呉軍港は複雑な地形(山)に囲まれて機密保持にも優れた天然の良港なので、防御力は高かったともいえます。
呉は、戦艦大和の製造された場所でもあります。
詳しくは、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
しかし友ヶ島の砲台も、太平洋戦争末期のアメリカの爆撃機・B29は高高度(標高10,000m)を飛んでいたため、恐らく弾を撃ったとしても、届かなかったことでしょう。
紀伊水道
紀伊水道(きいすいどう)は、和歌山県と徳島県の間の海峡になります。
- 「海峡(かいきょう)」
- 「水道(すいどう)」
- 「内海(ないかい)」
は、それぞれ厳密には意味や定義が異なるのですが、どれもおおよそ同じような意味で使われます。
紀伊水道については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
「満潮」「干潮」で、それぞれ潮の流れが異なってくる
紀伊水道は、
- 満潮のときは、潮の流れが瀬戸内海内部へと押し込んでいく
- 干潮のときは、潮の流れが太平洋側へと出てゆく
となります。
これは、反対側の
- 関門海峡(かんもんかいきょう)
- 豊予海峡(ほうよかいきょう)
にも同じことがいえます。
潮待ちの港・鞆の浦(広島県福山市)
そして瀬戸内海の両端から入ってきた潮がぶつかり合うのが、広島県福山市の江戸時代までの港である鞆の浦(とものうら)です。
「鞆の浦」を境に、潮の流れが変わるため、鞆の浦は「潮待ちの港」と呼ばれていました。
例えば、満潮の時間だと、潮の流れは
- 大坂→広島
の方向へと進むため、この時間に
- 広島→大坂方面
の方向へと舟を出すのは、好ましくないわけです。
これだと潮の流れに逆行する形になるので、スピードが出ないからです。
鞆の浦については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
歌詞「灯台の光の夜が美しい」
歌詞には
という内容が歌われています。
そもそも「灯台」は、何のために存在する?
灯台(とうだい)は、言うまでもなく海の安全を守るため、海を行き交う船に対してわかりやすい目標(めじるし)となる光を放つ目的で設置されます。
ただ昔は灯台が無かったので、その代わり常夜灯(じょうやとう)というものが使われていました。
つまり、灯台のように電気で照らすわけではなく、火で灯すわけです。
常夜灯は、現代も広島県福山市(ふくやまし)の江戸時代までの港である鞆の浦(とものうら)にある常夜灯が有名です。
次は、紀伊半島名物・名所の話題
次回は、紀伊半島名物・名所の話題になります!
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