鉄道唱歌 関西編 第52番 玉津島と友ヶ島 美しい和歌山の海と、歌の聖地 光る夜の灯台

まずは原文から!

蘆邊(あしべ)のあしの夕風に
散り來(く)る露(つゆ)の玉津島(たまつしま)
苫が島(とまがしま)には燈臺(とうだい)の
光ぞ夜は美しき

さらに読みやすく!

芦辺(あしべ)のあしの夕風に
散り来(く)る露(つゆ)の玉津島(たまつしま)
苫が島(とまがしま)には灯台(とうだい)の
光ぞ夜は美しき

さあ、歌ってみよう!

♪あしべのあーしの ゆうかぜにー
♪ちりくるつゆのー たまつしまー
♪とまがしまーには とうだいのー
♪ひかりのよるぞー うつくしきー

※正式名称は「鉄道唱歌 関西・参宮・南海編」です。記事タイトルの便宜上、このようなタイトル(関西編)とさせていただいております。ご了承ください。

列車は既に、和歌山県和歌山市(わかやまし)に達しています。

今回は、和歌山市の西海岸にある、
玉津島神社(たまつしまじんじゃ)」
友ヶ島(ともがしま)」
の話題になります。

和歌浦。海の向こうは徳島県。右側あたりが玉津島。(和歌山県)

玉津島(たまつしま)は、昔その景色の山や島がまるで「玉のように見えた」ことからそう名付けられました。
玉津島は、簡単にいえば「歌の神様」を祀(まつ)る場所(神社)であり、聖武天皇山部赤人(やまべのあかひと)・紀貫之(きのつらゆき)・豊臣秀吉など多くの高貴な方々や歌のプロによって訪ねられてきました。

玉津島は、「和歌三神」の一つに数えられます。

和歌三神(わかさんしん)は、

住吉明神(すみよしみょうじん)
玉津島(たまつしま)
柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)

です。

和歌」とは、読んで字のごとく、古くから日本で詠まれてきた歌のことです。
和歌は「古今和歌集」などに代表されます。

住吉明神(すみよしみょうじん)は、住吉大社に祀(まつ)られる神様です。
住吉大社(すみよしたいしゃ)は大阪市南部にある神社であり、海の航海を守るための神様になります。
かつて飛鳥時代~平安時代に「遣隋使」や「遣唐使」を派遣していた頃、大阪の住吉から船出してゆきました。しかし海の航海は危険だったので、海の安全を守っていた神様が住吉大社だというわけです。

柿本人麻呂(かきのもと ひとまろ)は、明石(あかし)の浦の風景を「朝霧(あさぎり)の~」と詠んだことで知られます。
その「朝霧」というフレーズは、朝霧駅(あさぎりえき)として兵庫県明石市(あかしし)の駅名にもなってます。朝霧駅は舞子駅(まいこえき)と明石駅(あかしえき)の間にある駅です。
兵庫県明石市には、「柿本神社(かきのもとじんじゃ)」という神社があります。

和歌浦(和歌山の海)。海の向こうは徳島県

玉津島は、「和歌のふるさと」「和歌の神様」とよばれるだけあって、冒頭に述べた紀貫之(きのつらゆき)や、奈良時代の聖武天皇にはじまり多くの為政者や著名人からの「和歌」の憧れであり、また多くの歌に詠まれてきました。
また、和歌の神様が宿る場所ということもあり、歌のプロ(歌人、詩人)であれば是非とも訪れておきたいといった、そんな場所だったのでしょう。いわば「歌の聖地」ですね。
聖武天皇は奈良時代に初めて和歌の浦を訪れたときに、その景観の美しさにとても感動したといいます。
豊臣秀吉も、この場所を訪れ、和歌を詠んでいます。
もはや、この美しい海の景観を歌に詠むことが、昔のお偉い方々のステータスというか、憧れだったのかもしれません。
現代でいうと、和歌浦の海の写真をバックに自分で考えたポエムをSNSに載せたいようなものでしょう(違うかな?)。

以下、超センスない和歌浦の歌です。
(作:筆者)

和歌浦や 綺麗な女子が いないかな
和歌浦や 素敵なイケメン いないかな
和歌浦で 恋する出会い もう一度
和歌浦の 愛しいあなた いまどこに

・・・あまり深い意味はありません。
話を元に戻します

歌詞は恐らく、
散りくる露の玉」というフレーズと、「玉津島(たまつしま)」という地名を掛けているのではないかと思われます。いわゆる「掛詞(かけことば)」です。
掛詞(かけことば)とは、昔の日本の詩でよく使われてきた、いわゆる言葉遊び・洒落の一種です。鉄道唱歌では、この掛詞が非常に多く使われます。

玉津島周辺には戦国時代、雜賀衆(さいかしゅう)とよばれる鉄砲隊がいました。
雜賀(さいか)」とは、玉津島のやや西の地名です。
戦国時代には、ある一定の勢力を持った武士の一団を、「~衆」と呼んでいました。
これはお寺が自衛のため(という名目で)武装した僧兵であり、「寺社勢力」といいます。
雜賀衆(さいかしゅう)は織田信長に敵対する側につき、信長もほとほと手を焼いたといいます。
なお、和歌山県岩出市(いわでし)の根来寺(ねごろでら)の兵力である根来衆(ねごろしゅう)は、織田側に付いて信長とともに石山本願寺と戦いました。

和歌浦(和歌山の海)。海南市方面(南側)を望む

友ヶ島(ともがしま)は、和歌山市のちょっと西側に浮かぶ島です。友ヶ島(の複数ある島群のうち、砲台跡などがあるメインの島である「沖ノ島」)へは、まず南海加太線(なんかいかぶとせん)で加太駅(かぶとえき)までゆき、加太港から船(友ヶ島汽船)で約20分ほどで行けます。

友ヶ島は、太平洋戦争(大東亜戦争)中、かつて砲台が置いてあった島です。
紀伊半島・淡路島と四国との間にある海峡である紀伊水道(きいすいどう)は、瀬戸内海(せとないかい)への入口だったため、敵艦隊にはここを絶対に突破されてはならない重要な入口でした。なぜなら大阪まで攻められるからですね。
それは瀬戸内海の反対側の、山口県下関市の関門海峡(かんもんかいきょう)にも同じことがいえます。もし外国の敵艦隊に瀬戸内海に侵入されたら、重要軍港だった(くれ。広島県呉市)が目前だからです。
もっとも、呉軍港は複雑な地形(山)に囲まれて機密保持にも優れた天然の良港なので、防御力は高かったともいえます。呉は、戦艦大和の製造された場所です。

しかし友ヶ島の砲台も、太平洋戦争末期のアメリカの爆撃機・B29は高高度(標高10,000m)を飛んでいたので、恐らく弾を撃っても届かなかったことでしょう。

紀伊水道(きいすいどう)は、和歌山県と徳島県の間の海峡になります。
「海峡(かいきょう)」「水道(すいどう)」「内海(ないかい)」は、それぞれ厳密には意味や定義が異なるのですが、どれもおおよそ同じような意味で使われます。

和歌山の海(紀伊水道)(和歌山市)(徳島行きフェリーより撮影)

紀伊水道は、満潮のときは潮の流れが瀬戸内海内部に押し込み、干潮のときは潮の流れが太平洋側に出てゆきます。
これは、反対側の関門海峡(かんもんかいきょう)や豊予海峡(ほうよかいきょう)にも同じことがいえます。

そして瀬戸内海の両端から入ってきた潮がぶつかり合うのが、広島県福山市の江戸時代までの港である鞆の浦(とものうら)です。
「鞆の浦」を境に、潮の流れが変わるので、鞆の浦は「潮待ちの港」と呼ばれていました。

例えば、満潮の時間だと、潮の流れは大坂→広島と進むので、この時間に広島→大坂方面へと舟を出すのは好ましくありません。潮の流れに逆行する形になるので、スピードが出ないからです。

歌詞には
「(友ヶ島の灯台の光の夜が美しい
という内容が歌われています。

灯台(とうだい)は、言うまでもなく海の安全を守るため、海を行き交う船に対してわかりやすい目標(めじるし)となる光を放つ目的で設置されます。

ただ昔は灯台が無かったので、その代わり常夜灯(じょうやとう)というものが使われていました。つまり、灯台のように電気で照らすわけではなく、火で灯すわけです。
常夜灯は、現代も広島県福山市(ふくやまし)の江戸時代までの港である鞆の浦(とものうら)にある常夜灯が有名です。

次回は、紀伊半島名物・名所の話題になります!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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