まずは原文から!
その名高師が濱の波
よする濱寺あとに見て
ゆけば湊は早前に
さらに読みやすく!
その名高師が浜の波
よする浜寺あとに見て
ゆけば湊は早前に
さあ、歌ってみよう!
♪そのなたかしがー はまのなみー
♪よするはまーでら あとにみてー
♪ゆーけばみなとは はやまえにー
和歌山市駅→紀ノ川駅(旧・和歌山北口駅)→(旧・深日駅跡)→尾崎駅→樽井駅→泉佐野駅→貝塚駅→岸和田駅→泉大津駅→羽衣駅→浜寺公園駅→湊駅→堺駅→(大和川)→住吉大社駅→天下茶屋駅→なんば駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
羽衣駅(大阪府高石市)に到着
泉大津駅(いずみおおつえき、大阪府泉大津市)を出ると、列車はやがて
- 南海高石線(なんかいたかいしせん)
との分岐駅である、羽衣駅(はごろもえき、大阪府高石市)に着きます。
列車はこの時点で、大阪府高石市(たかいしし)に達しています。
高石市は、堺市(さかいし)の一つ南の市になります。
浜寺公園駅(大阪府堺市)へ
そして羽衣駅からさらに一駅進むと、堺市(さかいし)に入り、やがて浜寺公園駅(はまでらこうえんえき、大阪府堺市西区)に着きます。
歌詞「かけじや袖」とは?
歌詞にある「かけじや袖(そで)」とは、いわゆる「高師浜(たかしはま)」の海において生まれた歌のことです。
それは以下のような、昔の女性によって書かれた失恋の歌になります。
かけじや袖の 濡れもこそすれ」
という昔の歌があります。
「掛詞」が登場
「音に聞く」とは、「噂に高い」という意味です。
ここでは
- 「噂に高い」というフレーズ
- 「高師浜(たかしはま)」という地名
を、それぞれ掛けています。
いわゆる「掛詞(かけことば)」であり、昔の歌でよく使われてきた言葉遊び・洒落の一種です。
鉄道唱歌でも頻繁に登場しますね。
「あだ波」とは、ここでは「高師浜に寄せる波」と、「浮気性な男性の心」の二重の意味となります。
「かけじや」とは、「かけまい」と言う意味です。
「じ」は「打ち消し」の意味なので、「かけじや」で「掛けまい」という意味です。
それは
と
という、二重の意味があります。
「袖が濡れる」とは、
- 「波のしぶきが袖にかかる」
- 「泣く」
という、二重の意味になります。
つまり、浮気性な(噂に高い)イケメンのあなたのために、決して涙なんて流しますまい、といった残念な女性の気持ちを歌っています。
というのは、
という意味になります。
だから
ということです。
「英雄色を好む」イケメンほど女が好き!?
「英雄色を好む(えいゆういろをこのむ)」という言葉があるように、イケメンほど女性が大好きであり、逆に、女性側からも多くのアプローチがあります。
そのため、イケメンからすればそんな言い寄ってくる数ある美女たちから一人を選ぶのはなかなか難しいため、女性からしたら「浮気性だ」と映ってしまうのかもしれません。
逆に、そんな多くのライバルの女性達の中から、あえて「私一人を選んで愛して欲しい」と思うのが、女性心理というものでしょう。
なかなか男女の間で「噛み合わない感」はありますね。
「小倉百人一首」の一つ
そしてこれは「小倉百人一首」という歌集に入っている歌の一つです。
「小倉百人一首」とは、平安時代の歌集であり、藤原定家によって編纂されました。
小倉とは、京都の地名になります。
海沿いのエリア・高師浜
高師浜(たかしはま)とは、主に高石市に広がる、大阪湾の海岸沿いのエリアをいいます。
高石市の「大工村」
高石市には「大工村」という、「奈良の大仏」をはじめとする行基さんの公共事業に携わった人々の末裔の方々が暮らす町があります。
行基さんとは?
行基(ぎょうき)さんは、奈良時代に朝廷から弾圧されながらもお寺などを建てていった人物です。
なぜ弾圧されていたのかというと、当時は「エセ仏教」などが横行していたため、下手にお寺を造らせないよう、朝廷の許可制だったからですね。
行儀さんは困っている人々を見て、いちいち許可など取ってはいられなかったのでしょう。
しかし行基さんは弾圧されながらも、公共事業に尽力していくなかで、次第に人々にヒーロー視されてゆき、聖武天皇の信頼も勝ち得て、奈良の大仏を見事に造りあげています。
行基さんと奈良の大仏については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
今も松の木々が残る、浜寺公園
浜寺公園(はまでらこうえん)は、多くの松が植えられている、いわゆる「松原」になります。
元々は、津波などを防ぐために植えられた松原
この松原は、元々は”高潮”や”津波”を防ぐためのものでした。
昔は、現代のような強力な防波堤は作ることはできなかったのでした。
そのため、このような松原を造るために、人々の手によって松が植えられていったというわけです。
また、松原は美しい景観ともなるため、観光地としての役割を果たしたりもします。

堺泉北臨海工業地帯
浜寺公園をはじめとする一帯は、「堺泉北臨海工業地帯」と言われます。
ここは、現代では石油化学コンビナートをはじめとする、多くの工場や埋め立て地などが存在しています。
「泉北」とは?
「泉北」とは、いわゆる「和泉国」の北部のことになります。
つまり、(堺市の大部分を含む)堺市より南側のエリアをいいます。
かつては、「美しい松原」がそこにあった
このように今は工業地帯がメインとなっている泉北地域ですが、明治時代の当時は、今よりもより多くの「白い砂浜と青い松原」の景観が、そこにあったようです。
1960年代の高度経済成長期、石油が主力エネルギーになっていった
しかし、1960年代になると
- 「石炭」→「石油」
へのエネルギー革命が進んでゆきました。
すると、エネルギーの主役は、より
- より「安く」
- より「効率がよい」
- よく「燃えてくれる」
という、石油へと移ってゆきました。
我々の生活に欠かせない「石油」
石油(原油)は、
など、様々なことに使われる必要エネルギーであるため、現代の我々の生活には欠かせないものになっています。
そのためあらゆる業界が、石油をとにかく欲しがるようになります。
逆をいえば、石油を造れば造るほど売れる、そんな世の中だったというわけです。
日本各地で、石油コンビナートを造っていった
しかし、石油を造るには「原油」という材料を、外国から輸入してくる必要があります。
そのため、貿易船が運んできた原油を大量にさばくためにも、コンビナートはなるべく海沿いに造ることが望ましいということになります。
これは大阪の泉北地域だけに限らず、1960年代には日本全体で各都市が、石油化学コンビナートの誘致を行っていました。
もし大きな工場が出来れば、
- そこで働く人も増える
- 住民が増えて、街の発展や税収アップにも繋がる
という、まさに一石二鳥のメリットがあったからですね。
石油コンビナートをたくさん造るため、「埋め立て地」が増加
コンビナートを造るには、広くて大きな敷地を必要とします。
また、海沿いには既にたくさんの漁村や民家があります。
しかし、その人たちに無理に立ち退いてもらうわけにもいかないので、そこで「埋め立て地」というものが登場するわけです。
自然の海を埋め立てて「広い平地」を造り、そこを工場地帯としていくわけですね。
「埋め立て地」が増えてゆき、松原は消失
こうして「埋め立て地」がたくさん造られていったことにより、残念ながらかつての「白い砂浜や青い松原」といった美しい景観は姿を消すことになりました。
街の発展を優先するか、景観や環境を優先するか。
高度経済成長期の日本は、明らかに前者を優先していた感は否めないでしょう。
経済成長は多くの人に「富」をもたらしましたが、それによって「公害」などの負の遺産も生まれてしまったことも、忘れてはいけないのですね。
そんな中、現代でも残る松原である「浜寺公園」は、泉北地域では数少ない貴重な海辺の海岸ともいえるでしょう。
今でも残る「浜寺水路」
現代の浜寺公園は、「浜寺水路」とよばれる人工的な川によって、対岸の埋め立て地(工業地帯)とは切り離されています。
これによって、
ということを防いでいる形になっています。
これによって、鉄道唱歌の明治時代や昔の人々が見てきた松原の景観を、現代の我々も堪能することができています。

ここに人々の「工業や経済を維持しつつ、なおかつ景観をバランス良く保つ」ための努力の姿勢を感じますね!
湊駅を過ぎて、次は堺駅へ
さらに、歌詞には
とあるように、
- 湊駅(みなとえき、大阪府堺市)
に着きます。
やがて次は、堺(さかい)に止まります!
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