鉄道唱歌 関西・参宮・南海編の歌詞(堺の観光、歴史)について、わかりやすく解説してゆきます!
↓まずは原文から!
旅の心もうばはれて
汽車のいづるも忘れたり
霞むはそれか淡路島
さらに読みやすく!
旅の心も うばわれて
汽車のいずるも 忘れたり
霞むはそれか 淡路島
さあ、歌ってみよう!
♪たーびのこころも うばわれてー
♪きしゃのいづるも わすれたりー
♪かすむはそれかー あわじしまー
和歌山市駅→紀ノ川駅(旧・和歌山北口駅)→(旧・深日駅跡)→尾崎駅→樽井駅→泉佐野駅→貝塚駅→岸和田駅→泉大津駅→羽衣駅→浜寺公園駅→湊駅→堺駅→(大和川)→住吉大社駅→天下茶屋駅→なんば駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
堺駅(堺市)に到着
浜寺公園駅(はまでらこうえんえき、大阪府堺市堺市)を出て、
- 湊駅(みなとえき、大阪府堺市)
を過ぎると、やがて列車は堺駅(さかいえき、大阪府堺市)に着きます。

南海本線・堺駅(大阪府堺市)
「ものの始まりなんでも堺」
大阪府堺市(さかいし)は、大阪府で第2の大きな都市です。
「ものの始まりなんでも堺」という言葉があり、堺は様々なものの歴史の始まりであると言われます。
貿易港として栄え、真っ先に堺から日本へ入ってきた
堺は戦国時代から貿易港として栄え、様々な外国の文化や技術が日本で一番最初に入ってくるのが、この堺だったからです。
その代表的なものに、「鉄砲」や「刃物」などの金属が挙げられます。
鉄砲は元々は種子島(たねがしま)にもたらされましたが、そこから真っ先に堺に入ってきました。
また、1549年にキリスト教を初めて日本に広めたことで知られる宣教師であるフランシスコ・ザビエルも、まずは鹿児島に上陸したのち薩摩で布教活動を行い、後に堺に上陸しています。
そのため、堺市には「ザビエル公園」があります。
鹿児島へのザビエル上陸については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
「刃物」「鉄砲」などの製造で栄えてきた堺
堺市では刃物や鉄砲などの製造が盛んに行われてきました。
それは古墳時代から鍛冶屋(かじや)とよばれる職業の人がおり、 古墳を作る時に必要な鋳物(いもの。”鋳造(ちゅうぞう)”によって造られるもの)の生産が盛んだったからです。
「鋳造」とは?
鋳造(ちゅうぞう)とは、金属を作る作業のことを言います。
金属はふつうの温度だとカチンコチンの固体ですが、高温に熱するとドロドロの液体になります(融点を上回るから)。
そのドロドロ液体になった金属を、例えば「刀」「食器」「ツボ」「道具」などの形をした「型(かた)」に流しこみ、再び冷やして(融点より下回らせて)、固体にします。
すると「刀「食器」「ツボ」「道具」の出来上がりです。
これがいわゆる「鋳造(ちゅうぞう)」であり、鋳造によってできたものを「鋳物(いもの)」といいます。
「東洋のベニス」と呼ばれ栄えてきた「水の都」
堺は「東洋のベニス」と言われたぐらい、水運が栄えた町でもありました。
「ベニス」とは?
「ベニス」とは、イタリアの「ヴェネツィア」という街のことです。
ヴェネツィアは、現代でも街中に運河が残っており、船で行き交う人や運河の多い街の代名詞となっています。
なぜ運河が町中にたくさんあったのか?
ではなぜ水運が街中にあるのかというと、昔はたくさんの荷物を運ぶにもトラックや道路などが無かったからです。
その代わり、街中に運河(人工的な川)を造って、舟を通り、荷物を運んでいたのです。
それが昔は一番効率のよいやり方でした。
現在では、ほとんどの運河は存在しない
堺をはじめ全国の各地には、かつて町いっぱいに運河やお濠(ほり)が掘られていました。
しかし、現在では埋め立てられてしまっていて、ほとんど残っていません。
なかには
- 北海道の小樽運河(おたるうんが)ように、一部、現存している運河もある(普通の川とは、あまり見分けがつかない)
- 暗渠(あんきょ)といって地面に蓋(ふた)をされ、地下を流れている
- 埋め立てられて、道路などになっていたりする
します。
東京駅のすぐ東側の「外堀通り」という大きな道路も、元々は江戸城(皇居)の外堀(そとぼり)を埋め立てて造った道路です。
北海道の小樽運河については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
「環濠都市」「自由都市」として栄えてきた堺
堺は「環濠都市(かんごうとし)」と呼ばれ、お濠(ほり)でガッチリと防御できる仕組みの町になっていました。
「お濠」とは?
お濠(ほり)とは、町中に人工的な川を掘りめぐらし、敵の侵入を防ぐ役割を果たすバリアーのようなものです。
”運河をたくさん掘る技術がある”ということは、つまり”お濠をたくさん掘る技術がある”ということでもあります(逆もしかり)。
四方を水で囲まれた都市
貿易港として膨大な利益を上げることができた堺は、戦国時代までは商人だけで町を運営するという、いわゆるどの武将や大名からの支配も受けない「自治都市」として繁栄していました。
そして余計な武力干渉を受けないよう、西は海で守られ、北側・東側・南側はお濠でガードを固めるという、四方を水に囲まれた都市を築いていました。
織田信長・豊臣秀吉らに、真っ先に目をつけられ、自治都市機能は解体へ
そんな素晴らしい進んだ都市ですから、いちはやく織田信長や豊臣秀吉に目を付けられ、自治都市機能は解体され、堺は彼らの支配下となりました。
堺市を訪れた際には、こうした「水運」や「環濠」などの跡をしのびながら観光してみるのも面白いでしょう。
歌詞「堺の海に心奪われ、汽車の発車を忘れたよ」
歌詞についてですが、
遠く向こうに霞んで見えるのは、淡路島かな。」
とあります。
現代の堺駅の西側では、(前回も解説したように)埋め立て地や工業地帯が多く存在し、(淡路島まで見渡せるような)海岸線はちょっと遠いと思います。
駅から徒歩だと、駅より少し西側から”港湾”や”埠頭(ふとう)”などの景色が見られれば充分だと考えられます。
鉄道唱歌の当時は、淡路島の姿も眺められた?
しかし鉄道唱歌の当時の明治時代には、恐らく現代のような港湾施設や臨海工業地帯は無かったことでしょう。
もしそうならば、堺駅の西側から出たらすぐに、淡路島まで見られるような海岸があったのでしょうね。
歌詞「汽車の発車時刻も忘れてしまったよ」
そして、
ということです。
そして遙か遠くに、淡路島の景色が霞んで見えた、という事なのでしょう。
次回も、堺市の話題へ
次回も、堺市の話題となります!
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