まずは原文から!
心のこして又も來ん
沖に鯛つる花の春
磯に舟こぐ月の秋
さらに読みやすく!
心のこして 又も来ん
沖に鯛つる 花の春
磯に舟こぐ 月の秋
さあ、歌ってみよう!
♪こーころのこして またもこんー
♪おーきにたいつる はなのはるー
♪いーそにふねこぐ つきのあきー
和歌山市駅→紀ノ川駅(旧・和歌山北口駅)→(旧・深日駅跡)→尾崎駅→樽井駅→泉佐野駅→貝塚駅→岸和田駅→泉大津駅→羽衣駅→浜寺公園駅→湊駅→堺駅→(大和川)→住吉大社駅→天下茶屋駅→なんば駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
堺の名物・物産
列車は既に、大阪府堺市(さかいし)に着いています。
「段通」とは?
段通(だんつう)とは、いわば「じゅうたん(絨毯)」のことです。
絨毯(じゅうたん)といっても、堺の段通はかなり高貴で、なかなか庶民には手が出るものではなかったでしょう。
それだけ手間暇(高度な技術や時間、コスト)をかけて造られたものです。
「ものの始まりなんでも堺」
堺は前回も解説した通り、戦国時代までは海外からも良く知られた貿易港だったことから外国の文化や進んだ技術が真っ先に入ってきた場所でもありました。
そのため、「ものの始まりなんでも堺」とも呼ばれます。
堺は欧米諸国から「Sacay」として知られており、また当時の日本の首都だった「Meaco(みやこ:京都のこと)」と並んで海外では有名でした。
南蛮人の像

堺駅前の橋には、「南蛮人の像」があります。
これは恐らく、堺が国際貿易都市として全盛期だった頃は世界的にその存在が知られていたため、南蛮人にとっては堺を訪れたり商売をやったり、あるいは住んだりすることが憧れだったからでしょう。
刃物と鋳造
また堺市は、「刃物」でも特に有名です。
刃物は金属で出来ていますから、堺市では大昔から金属の鋳造がさかんでした。
鋳造(ちゅうぞう)とは、金属を高温で熱してドロドロに溶かして液体にし、その液体を型(かた:刃物や食器の形をしたもの)に流し込み、冷やして固体(刃物や食器など)にする製造方法です。
金属は融点(ゆうてん)が約1000度くらいありますから、普通の温度だとカチンコチンの固体ですよね。
なので液体にするために、高温に熱するのです。
そして液体の状態にして、刃物や食器の型などに流し込んで、冷やします。
すると融点を下回って、(刃物や食器の)形が出来上がったまま固体となるのです。
この堺の金属製造技術は、大坂城の建造や、もっと昔・古墳時代の仁徳天皇(にんとくてんのう)のときから重用されていたといいます。
堺の歴史
大仙陵古墳
堺市には、大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)という、とてつもなく大きな古墳があります。
大仙陵古墳は、日本最大の前方後円墳になります。
前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)とは、前が方形(つまり四角形)で、後ろが円形という、つまり鍵穴みたいな型の古墳です。
古墳は、権力者の力の誇示のために作られました。
つまり、大きな古墳を作れるということは、それだけ多くの人々を働かせるお金や力があったということです。
欧米諸国から「Sacay」として知られた自由都市
堺は先述の通り、16世紀頃(日本では戦国時代)には欧米諸国から「Sacay」として知られているほど世界的に有名な町でした。
また、戦国時代は「大名」などの武将が各都市を支配する中、堺は「商人」によって治められる自治都市でした。
四方を「水」で囲まれた、環濠都市
そして前回も解説したとおり、堺では町中に「お濠(ほり)」という人工的な川を掘りめぐらして、敵の侵入を防いでいました。
つまり堺は、西は海、北側・東側・南側は「お濠」という四方を水で固めてガードするという、「環濠都市(かんごうとし)」として発展し、防御力の固い町でした。
こうした堺の自治能力の高さや貿易の利便性などが織田信長や豊臣秀吉らに目を向けられ、自治機能は解体され、彼らの支配下となりました。
江戸時代、堺は長崎・大坂に地位を奪われ衰退
一方で江戸時代になると、「鎖国」によって貿易の拠点が”長崎”に移ったため、堺は貿易港としては衰退を余儀なくされました。
また、商業の中心も「天下の台所」と呼ばれた”大坂”に移ってゆき、これに伴い多くの堺の商人が大坂へ移住したため、これも堺の商業の衰退を招く1つの要因となってしまいました。
江戸時代に大和川のルート変更工事
また、江戸時代以前は北東の淀川(よどがわ)に合流していた大和川(やまとがわ)のルートが、江戸時代に
- 堺市の北を経由するという、(現在の)ルート
に変更する工事が行われたのでした。
そのことで、川の土砂が(堺市周辺の)河口に溜まりやすくなり、その土砂のために(堺市周辺の)海が浅くなってしまいました。
海が浅くなると大きな船を泊めることができないため、これも港湾都市としての機能を弱める形となってしまいました。
※ちなみに大和川が江戸時代にルート変更工事が行われた理由は、
- 八尾(やお)、久宝寺(きゅうほうじ)あたりの地区
- 河内地方(かわちちほう)
の洪水が、歴史的に頻発していたからです。
つまり、戦国時代や安土桃山時代までは貿易と商業の町として大いに繁栄した堺でしたが、江戸時代には上記の様々な要因により、衰退を余儀なくされる形となってしまいました。
幕末の開港候補となるも、古墳が近く没に
幕末になると、日本は欧米列強から貿易のために開国と開港を要求されたため、その際に大坂港を開くように要求されたので、した。
しかし、大坂は大都市であり京都にも近く、ここを開くと軍事面やセキュリティ面でマズかったため、その代わり堺の港を開けばいい、という案が持ち上がりました。
しかし堺には古墳がたくさんあり、外国人が勝手に(日本では神聖な)古墳に立ち入られるとマズい、ということで、最終的には神戸港を開くという案で落ち着きました。
神戸は1858年の「日米修好通商条約」における開港5港の1つです。
明治時代は、紡績で栄える
江戸時代には上記の様々な要因により、やや冬の時代を送った堺でしたが、明治時代になると「紡績」などの近代的な工業によって、後の昭和における「阪神工業地帯」の発展に繋がってくるような工業の基礎を築き上げます。
太平洋戦争で、空襲で壊滅状態に
しかし太平洋戦争(大東亜戦争)のとき、堺は空襲の対象となり街は壊滅的被害を受けました。
堺は先述の通り重要な工業地帯だったので、米軍としては日本軍の戦力に繋がるような工業地帯を少しでも叩いておきたかったわけです。
当時の国際条約では民間人の殺傷は禁止でしたが、軍事施設に限っては攻撃してもよいということになっていたからです(しかし実際には、堺空襲では多くの民間人が無念にも犠牲になったそうです)。
戦後に復興してきた堺の歴史を堪能しよう
そして戦後には復興し、堺は「阪神工業地帯」の一角として発展することになります。
堺市の歴史については、スーツさんが2020年に堺市を訪問されたときの動画(【大阪第二の都市】栄光の街”堺” 1泊2日旅行)がとてもわかりやすくて役に立ちます。
スーツさんは堺市より直接依頼されてこのような動画を撮影されたのですから、凄いですね。
ぜひYouTubeで「スーツ 堺市」などで検索されてみてください。
季節を改め、また来よう
歌詞では、
花が咲く来年の春に、沖に鯛を釣っている船でも見に来ようか。
それとも、月の美しい秋の時期に、海岸に船をこぐ人々の情景でも見に来ようか」
といった内容のことが歌われていますね。
旅行をしていると、その街が気に入ってしまっても今回の旅程では時間の関係で、名残惜しくてもどうしても行かなければならない、と思うことは多々あります。
そんな時、「またここへ来ようか」と思うことはよくあるものです。
それは季節を改め、また来年の春か、あるいは秋にでも来ようか、などのように次の旅行の計画を考えるのも面白いものです。
次は、堺を出発し、大和川を渡り、住吉方面へと向かってゆきます!
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